十四 月下での再会
今日は話をたくさんしたせいだろう。気持ちが高ぶってなかなか眠れそうになかった。
けれど、夜が更けていくにつれて目は冴え渡り、寝返りを打つのももう飽きた。
「ああ、もう」
のそり、と起き上がると、這うようにして蚊帳の外に出た。
開け放った縁側に腰を下ろすと、少しだけ冷たい夜風が頬を撫でる。心地良い風に酔いしれるように、そっと瞼を閉じる。
真珠色の月明かりは優しく、このまま目を閉じていれば眠れそうな気がした。
冷たい床の上に横たわると、ひんやりと撫でるように優しい夜の気配に包まれる。
耳をくすぐる穏やかな虫の音。湿った土の匂いと、清涼な草の匂い。
きっと、これなら眠れる。
ゆるゆると眠りに包まれようとする中、冷たい指が頬に触れた。
頬に触れたのは一瞬。頬から冷たい気配が離れ、今度は額に降りてくる。冷たくて大きな手だった。汗ばんだ額の熱が引いていくようで気持ちがいい。
この手が誰のものなのか、すぐにわかってしまう。
無意識のうちに手を伸ばすと、骨張った冷たい手に触れた。薄っすらと瞼を開くと、目の前には闇よりも深い瞳がそこにあった。
何の感情も浮かばない目が、わたしを覗き込んでいる。
何を思って、わたしを見ていたのだろう。そんなことは簡単に思いつく。
ああ、本当に嫌だ。
きっとこの人は、わたしの死を望んでいる。年老いるまで、きっと待ちきれないのだ。
「……お久しぶりね」
「ああ」
感情を置き去りにした声が耳朶を打つ。
どうして葛木さんの声に似ていると思ったりしたのだろう。
あの人の声とは、似ても似つかない。
葛木さんの声の方が、ずっと優しい。
葛木さんの声の方が、ずっと穏やかだ。
葛木さんの声の方が、ずっと温かだ。
だけど。
わたしがずっと待っていたのは、この人なのだ。
「約束が、違うんじゃない?」
気が付くとわたしは不満の声を上げていた。
彼は訝しげな視線をわたしに向ける。反応を返してくれたから、少し気が大きくなったのかもしれない。起き上がり縁側から降りると、下駄を爪先に引っ掛け、彼の元へ駆け寄った。
「……約束?」
まるでわからないと言った風に、彼は目を細める。その如何にも「まったく覚えておりません」という様子が癪に障る。
「半月、経ってるけど」
告げたものの、彼の反応はまったくない。だからつい感情的になってしまった。。
「前に会ってから、半月も経っています」
――話し相手になって欲しい。
この身を喰わせる代わりに、話し合相手になって欲しいと。
そう約束をしたはずなのに、この人は半月も姿を現さなかったのだ。
今までだって、そんなに頻繁に姿を現しはしなかったし、そういうものだと割り切って気にしていないつもりだった。
でも、多分葛木さんの声を聞いてしまったせいだろう。
話し方だって、見てくれだってまったく違うというのに、葛木さんの声を聞くたびに、この人のことばかりが頭に浮かんだ。だから……。
「…………」
だから、何だというのだろう?
彼の袖を掴もうと、伸ばし掛けた手を止める。
この人のことを思い出したから、何だというのだろう。
そもそも、わたしはどうしてそんなことくらいで憤っているというのだろう。
行き先を見失った手を、胸元に引き寄せて握り締め、じり、と後ずさりをする。
「半月の間、何をしていようと……勝手だけど」
自分でも馬鹿みたいだと思う。
でも、わたしばっかり、この人のことばかりを考えていたみたいで悔しかった。
「その間に、わたしがいなくなったらどうするつもり?」
挑むように問う。彼はしばらくの沈黙の後、ぼそりと呟いた。
「お前には…………ない」
「え?」
「お前には……行く宛てなど、無いだろう?」
感情の欠片も見当たらない声で、淡々と事実を告げる。
「……っ!」
反論をしたくても、その余地など皆無。この人の言い分は、まったくをもって正論だった。
この人の言うとおり。わたしには、どこにも行く場所などない。
ここ以外に行けるのは、せいぜいあの世しかないだろう。
「そうね」
悔しい。
下唇を噛みしめると顔を背けた。今にも泣いてしまいそうで、顔を見られたくなかったから。
「……おやすみなさい」
早く戻らなくては。泣き出してしまう前に。
だから気持ちが急いでいたせいかもしれない。駆け出そうとした瞬間に、足がもつれて派手に転倒してしまった。
「い……た」
転んだ痛みよりも、羞恥心の方が勝った。すぐさま身体を起こし、何事もなかったかのように立ち上がる。
脱げ落ちた下駄の片方を拾い上げ、少し離れたところにもう片方を見つけ、拾おうと腰をかがめた時だった。
「きゃっ……」
足が地面から浮き上がる。わたしの身体は軽々と抱き上げらていた。
こんな細い腕のどこに、こんな力があるというのだろう。わたしは身体を硬直させた。
鬼とはいえ、一応は男の人だ。緊張するなというのが無理な話だ。
「お、降ろして……」
懇願すると、すとんと縁側に降ろされた。
あまりにも呆気なく解放されて茫然としていると、彼はわたしの顔をじっと見下ろす。
「……なに?」
「血が」
「血?」
彼の細い指が、わたしの唇をそっと撫でる。途端、ぴりっと傷みが走る。
「っ……!」
彼の白い指には、薄っすらと赤い血がこびりついていた。
「あ……いつの間に」
気が付くまで痛みなどなかったのに、血を見た途端にずきずきと痛み出す。
舌先で傷口に触れると、鉄の味が口の中に広がる。そっと触れると、赤い血が指先を濡らす。
「痛い……」
血を見ると、あの夜を――祖母のお通夜の夜を思い出す。
畳に散った血飛沫。金臭い血の匂い。そして……血まみれになった、この人の姿を。
急に身体の力が抜けてきた。血で汚れた指先を、ぎゅっと手の中に握り込む。
「見せてみろ」
思い掛けない言葉をだった。驚いたけれど、かろうじて頷くことだけは出来た。
「平気」
怯えを悟られまいと、俯いたまま答える。
無理だ。今この人の顔を……まともに見ることなんかできない。
血の匂いは、あの日の夜を鮮明に思い出してしまう。きっと化け物でも見るような目を、この人に向けてしまうだろう。
そんなのは、嫌だ。
頑なに顔を上げまいと俯いていると、彼は不意にしゃがみ込んだ。そして、驚きで固まるわたしの顎を指で捉える。
半ば強引な態度とは裏腹に、彼の瞳は静かだった。
思ってもみないこの人の行動に、ただただ驚いて、さっきまで考えていたことなど吹き飛んでしまった。
顎を持ち上げられ、彼の瞳が間近になる。
ふと伏せられた瞼。頬に触れる彼の髪の冷たさ。そして、冷たくて柔らかいものが傷口にそろりと触れる。
彼の舌だった。
彼の冷たい舌が、わたしの唇の傷に触れたのだと気付く。
小さな痛みに身じろぎをすると、まるで傷を癒すかのように、味わうかのように、ゆっくりと唇をなぞる。
背中に痛みに似た、でも甘い痺れのような何かが走る。
このまま喰われてしまうのだろうか。
恐らく血の味を求めているだけなのだろう。なのに乱暴さはなく、丁寧でどこか優しさすら感じるのは何故だろう。
でも駄目だ。これ以上は。
強く胸を押すと、彼ははっと動きを止める。
「や、やめて……」
逃れる機会を得たわたしは、転がるように彼の腕から逃れた。
彼は相変わらずの無表情で、ひとりで慌てふためくわたしを不思議なものをみるように眺めている。
「何を、するの!」
あんなのは口付けではないことくらいわかっている。傷を舐められただけだ。
でも。
「……っ!」
嗚咽が込み上げるのを、苦労して飲み込むと、今度は涙が込み上げて来た。
妾の娘などどうせ、といつも吹いているくせに、最初は恋する人と、なんて心のどこかで夢を見ていたらしい。
なのに、嫌じゃないと思ってしまうのは何故だろう?
怖かった。この人は死人を喰らう鬼なのに、怖いと思えない自分自身が怖かった。
しばらく黙っていた彼が、ぼそりと口を開く。
「あの男」
途方に暮れたような声色に、思わず背けていた目を彼に向けた。
「……え?」
「あの男だったらいいのか?」
あの男、と言われて、真っ先に頭に浮かんだのは葛木さんの顔だった。
「ど、どうして?」
「好意を、持っているのだろう?」
「違う。あの人は、この家の客人で……ただそれだけで」
「だが……あの男と話をするお前は、ひどく嬉しそうだった」
「見てた、の?」
彼は無言で頷く。その一言で気が付いた。
半月の間、この人が姿を現さなかった理由が。
「だってお客様なのだから……つまらなそうにしていたら失礼だから……」
確かに葛木さんと話をするのは楽しい。優しいし、とてもいい人だ。素敵な人だとも思う。
でも葛木さんが話をする度に、この人と重ねていたというのもあった。
この人が笑ったらこんな声なのだろうかと。
そんなこと、本人に言えるわけがない。
「でも、わたし……」
この人は、このままだと葛木さんが帰るまでずっと出てこないつもりだ。
だから、これだけは言っておかないといけない。
「わたしは、あなたを待っていたの」
そう、待っていたのだ。
ずっと待っていたのに、全然姿を現してくれないから……寂しかった。ただそれだけなのに。
「だから」
何か言わなければ。でも、上手い言葉が見当たらない。結局わたしは口をつぐんでしまい沈黙が訪れる。
今まで意識していなかったのに、虫の音が妙に大きく聞こえる。沈黙が長くなるほどに、恥ずかしさがじわじわと込み上げる。
「待っていた?」
「そうよ」
「俺、を?」
相変わらずの淡々とした口調。でも意外だと言わんばかりの響きが含まれていた。
「あなたの他に、誰がいるというの?」
彼は茫然とわたしを見つめる。見つめるというよりはむしろ、疑問を探るかのように眼差し。
どうしてわたしが、こんなことを言うのかわからないのだろう。
わたしを見ていれば、その答えが見いだされるとでも思っているのだろうか?
残念ながら、その答えは持っていない。わたし自身、どうしてこの人に会いたかったのかわからないのだから。
「え、と……とにかく。約束は守って」
恥ずかしさを紛らわすように、きつい口調になってしまう。
勢い良く立ち上がる。恥ずかしくて居たたまれなくて、彼の顔がまともに見れない。
「おやすみなさいっ」
転がるように家の中へと逃げ込むと、力任せに障子を閉める。蚊帳をくぐり、薄手の布団を頭から被る。
胸の鼓動が速い。それがどうしてなのか自分でもよくわからない。
無意識のうちに、そっと唇に触れてみる。
何故、わたしの傷を癒そうとしたのだろう。何故、あんなに優しく触れるのだろう。
「……ただの餌だと思ってるくせに」
本当に訳がわからない。
暑苦しいのを我慢して、何とか眠ろうと努力した。けれど、結局その晩は一睡もできないまま、朝を迎えたのだった。
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