十五 手紙
「もう少しゆっくりしていけばいいのに……」
あからさまに彰子さんは渋面になる。
「すみません。そろそろ試験が近いですし、来年の卒業まで勉学に励みたいと思いまして」
好青年の顔で正平さんは言う。本当は「卒業まで羽根を伸ばしていたいからね」と本音を聞いたばかりなので、わたしと葛木さんは思わず顔を見合わせてしまう。
「身体だけには気をつけるように」
最後に寡黙な父が厳かに重たい口を開いた。
「はい。父さん」
この時ばかりはさすがの正平さんも、少し緊張したように、お行儀の良い笑顔で頷いた。
「僕はこの界隈じゃあ模範的な息子さんで通っているからさ」
両親から解放されると、正平さんは陽気に笑った。
「莫迦者が。ご両親に申し訳ないと思わないのか」
呆れたように葛木さんは眉をひそめると、正平兄さまは少し苦い顔になる。
「わかってるさ。好きなことができるのは今だけだから、父も母も好きにさせてくれているんだよ」
「へえ、ただの放蕩息子じゃなかったんだな」
「こんなに真面目な俺のどこが放蕩息子だというんだ」
時折喧嘩のようになったり、二人して笑いあったり。親しげに談笑する二人の間で、わたしはろくに口も挟めず途方に暮れていた。
母屋では両親に気を使って居ずらいと、二人はよくここで談話をしている。
わたしの部屋だというのに、いつもと違う雰囲気でどうも落ち着かない。
いつもこの離れにはわたしと、あの人だけだ。当然お喋りなどしないから、いつも静まり返っている。
落ち着かないのは、多分、葛木さんの声のせいだ。
葛木さんはよく笑う。正平兄さまは陽気に笑うけれど、葛木さんは少しはにかむように、柔らかい声で笑う。
……あの人が笑ったら、こんな風なのだろうかと、ありもしない想像をしてみるが、一体どんな意味があるというのだろう。
あの人が笑うわけがないのに。
ちらりと、庭先に視線を向ける。
木陰に佇む墨染衣を纏ったあの人が、ずっとこちらを伺っていることに、わたしはとっくに気が付いていた。
どうせこの二人には、あの人の姿は見えない。だから、気にせずこちらにくればいいのに、一向に近付こうとしない。
でも一応姿を見せてくれるということは、この間のわたしの話を、ちゃんと聞いていてくれたということだろう。
『わたしは、あなたを待っていたの』
我ながら、なんて恥ずかしいことを言っているのだろう。
それに……。
そっと、まだ傷がいえない唇に触れる。
あの夜のやり取りを思い出すだけで、みるみる頬が熱くなってくる。
「由比」
正平さんの声で我に返る。
「あれ? 顔が赤いみたいだけれど、熱でもあるのか?」
他人が気が付くほどに赤くなっているのだと自覚した途端、ますます頬が赤らんでくる。
「……多分、昨日転寝をしてしまったからだと思います」
少々苦しい言い訳を口にすると、正平さんは何も言わずにほほ笑んだ。
そのほほ笑みにどんな意味が含まれているのかとても気になるけれど、追及する気にはなれなかった。
「そうか、調子が悪いというのに長居をして申し訳ない。そろそろ母屋に退散するよ」
正平さんはおもむろに立ち上がると、腰を浮かし掛けた葛木さんの肩をぽんと叩いた。
「じゃあ、あとはお前に任せた」
「えっ、いや……」
正平さんに座布団の上に押し戻された葛木さんは、何ともいえない複雑な面持ちだった。よく見ると顔色もあまりよくない。
「じゃあ頑張って」
「……………ああ」
能天気な笑顔を浮かべる正平さんと相反して、葛木さんは顔色も悪い上、沈鬱な表情で痛々しいこと極まりない。
ひらひらと手を振りながら正平さんが退散すると、部屋は居心地の悪い雰囲気に包まれた。
「何を頑張るのですか?」
訊ねると、葛木さんは困ったように頭を掻き毟った。
「あの……ですね」
しばらくの沈黙の後、落ち着かない様子で葛木さんは視線を落とす。
「大丈夫ですか? 顔が真っ青ですけど」
「え、ああ……大丈夫。それよりも、聞いて欲しい話があるんです」
改めて正座をし直すと、わたしの方へとにじり寄った。そして、緊張した面持ちで見つめてくる。
「実は、お願いがあるのですが……」
ひどく思い詰めた表情で俯いていた葛木さんは、擦れた声でこう告げた。
「手紙を書いてもいいですか?」
「手紙?」
「はい。どうでしょう?」
あまりにも大真面目に聞くものだから、わたしはつい笑いそうになってしまう。
でも、葛木さんが今にも倒れそうなくらい緊張しているのが伝わってきて、笑ってはいけないと感じていた。
「いいですよ、手紙」
年上の男の人なのに、何だか可愛らしく思えてしまう。わたしは小さな子供を宥めるように、慣れない笑顔を浮かべてみせる。
「楽しみに待っています」
「……ありがとうございます」
葛木さんは本当に嬉しそうに、くしゃりと笑った。
わたしも葛木さんの笑顔につられて、自然と笑顔になっていたのかもしれない。ふと、背中に強い視線を感じて思わず振り返った。
「どうしました?」
少し驚いたように葛木さんが訊ねる。
「いえ……あの、猫の鳴き声が」
「猫?」
「……でも、空耳だったようです」
「そうですか。でも、この庭はどうやら猫の通り道のようですからね」
「そうですね……」
和やかに猫の話をしながら、今も感じる視線を意識していた。
きっとあの人だ。
『あの男と話をするお前は、ひどく嬉しそうだった』
多分、今、わたしは嬉しそうにしていると思う。
葛木さんと話をするのは楽しい。穏やかな人柄に触れて、心がほっと和む。
でも本当は、あの人と葛木さんを重ねて、ありもしない想像をして喜んでいる。
もしかすると、わたしは酷いことをしているのかもしれない……。
葛木さんは、今目の前にいるわたしの相手をしているというのに、わたしは彼を通して違う相手を見ているなんて。
「どうしました?」
「……いいえ。なんでもありません」
誤魔化すように、ほほ笑んでみせると、なぜか葛木さんから目を逸らされてしまった。
何か気に障ることを口にしてしまっただろうかと不安になっていると、葛木さんは目を逸らしたまま、ぽつりと呟いた。
「手紙を、書きますから……返事をいただけますか?」
振り絞るような苦し気な声。彼の緊張が、わたしにも伝わってくるようで、思わず身を正してしまう。
「……はい」
わたしは大きく頷いた。すると、葛木さんは安堵するように破顔した。
「ありがとうございます」
その笑顔があまりにも無防備で、引き込まれるようにわたしも笑顔になってしまった。
それから、半月も経たないうちに手紙が届いた。
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