十三 兄の友人


 突然の訪問者を正平さんの元へ案内すると、静かだった母屋は急に活気づいた。

 食事はもう取ったか、風呂に先に入るか、取り敢えずお茶の一杯でもどうだ……と、正平さんは矢継ぎ早に質問を浴びせ、葛木さんは困ったように笑っていた。

 用事を終えたわたしは、庭を通って離れへと戻った。

 誰もいない、虫の音だけが静かに響く、わたしの住まい。

 知らず知らずのうちに、わたしはあの人の姿を探していた。暗がりにひっそりと佇む、墨染の衣を纏った鬼の姿を。

 でも、あの人の姿はどこにもない。

「……ねえ、いないの?」

 暗闇に向かって呼び掛ける。

 葛木さんの声が、あの人に似ているからかもしれない。無性に今、会いたかった。

「ねえ…………」

 話し相手になってくれるんじゃなかったの?

 呼ぶ名前すら知らない人に、今ここにいない人に、わたしはそっと恨みがましく呟いた。

「……嘘つき」



「昨夜は申し訳ありませんでした」

 翌朝、正平さんは友人である葛木さんを連れて、わたしの住まう離れに訪れた。

 葛木さんは文学青年風の、繊細そうな男の人だった。昨日は暗がりでよくわからなかったので、今初めて会ったようなものだ。

 昨夜は洋装姿だったけれど、今朝は正平さんと同じ袴姿と、くつろいだ格好をしていた。

「以前に一度来たから大丈夫だと思っていたのですが……でも、夜道のせいで道がよくわからなくなってしまいまして」

 葛木さんが苦笑交じりに言い訳を口にすると、正平さんがすかさず突っ込んだ。

「夜道のせいじゃなくて、お前のもの憶えが悪いだけだろうが。もうろくするにはまだ早いぞ葛木」

「確かにまあそうかもしれないけれど、もうろくとまではひどいなあ」

 目を閉じると、あの人が話をしているような錯覚を覚える。

 春から一緒に過ごしているものの、ろくに会話など交わしたためしがない。

 無いものねだりだと言えばそれまでだけど、こんな風にあの人が話をしてくれたらいいのに、と思ってしまう。

「由比、お前今いくつだっけ?」

 唐突に、正平さんが訊ねる。

「十六になりました」

「へえ、十六だったのか」

 身体が小さいので、もう少し年下に思われていたのだろう。

「正平、お前だって人のことは言えないだろう。妹殿の歳も忘れるような奴に、もうろくしただなんて言われたくないなあ」

 葛木さんは、さっきのお返しだと言わんばかりに、強気に言い返してきた。

「うるさい。俺だってまだ数えるほどしか会っていないのだから。歳だって今初めて聞いたんだぞ、知らなくて当たり前じゃないか」

「まだ数回しか?」

 葛木さんは、不思議そうに首を傾げる。

 そうか。葛木さんはわたしの素性を知らないんだ。

 どう説明したらいいだろうと考えていると、正平さんが簡潔に説明をしてくれた。

「ああ、母親が違うんだ。この娘を養っていた婆さまが亡くなったから、うちに来たんだよ。だから、僕たちは出来立てほやほやの兄妹ってわけだ」

 実にあっけらかんと言い放つと、正平さんは無邪気に笑う。

「……そうか」

 まさかそんな立ち入った話が出てくるとは思わなかったのだろう。

「あの、由比さん……」

 葛木さんは肩を落とすと、申し訳なさそうに頭を下げた。

「立ち入った話をさせてしまったね。本当に申し訳ない」

「いいえ別に。本当のことですから」

 謝られたところで、どういう顔をすればいいのかわからない。愛想笑いもできず、葛木さんから目を逸らしてしまう。

 まさか正平さんがわたしの生い立ちを話すとは思っていなかった。

 いくら親しい間柄とは言え、聞かれもしない身内の恥をさらすこともなかろうに。


 なぜ正平さんが葛木さんにこんな話を聞かせたのか。

 後から思えば葛木さんに牽制の意味を込めて話したのだろうと思う。

 でもその牽制は彼には通用しなかったのだと、後になってから理由を知ることになるとは、この時は思いもしなかった。


 その夜、久しぶりにあの人が訪れた。

 今夜は空が晴れていて、月明かりだけでも十分くらいの夜だった。

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