十 願いごと
案の定と言うべきか、翌日わたしは風邪を引いてしまった。
自業自得だ。暖かくなったとはいえ、海に入るなんて時期としては早過ぎた。
かつては祖母の住まいだった離れの寝室で、ひとり静かに布団に包まって天井を眺めていた。
ふと目を覚ますと、額に乗せていた氷嚢がないことに気が付いた。枕元に転がっていた氷嚢は、すっかりぬるくなってしまっていた。
熱い。なのに、身体はぞくぞくと悪寒が走る。
冷たい水が欲しかった。枕元にちゃんと水差しが用意されていて、飲みたい時に勝手に注いで飲めるように用意されている。わたしは重い身体を起こすと、水差しに手を伸ばした。
ガラス製の水差しはひどく重たく感じる。持ち上げて水を湯呑みに注ごうとしたけれど、水差しを取り落としてしまう。幸い割れはしなかったものの、水差しの水は全部零れてしまった。水は畳の上に広がり、あっという間に吸い込まれてしまった。
水が欲しい。
だけど熱で干からびた喉からは、擦れた声しか出ない。
起き上がって、誰かに頼もうかとも思った。でもそれもひどく億劫で、水を飲むくらいだったら横になっている方が楽だった。
また彰子さんに怒られる。頭の片隅で考えながら、わたしは布団に潜り込んだ。
風邪くらいで死にはしない。薬を飲んで眠れば何日かで直ってしまう。比較的身体が丈夫な方だし、これくらいどうってことはない……はずだ。
でもさすがのわたしも身体も心も弱ってしまっていたのだろう。今まで付きっ切りで看病などされた経験はないけれど、呼べば必ず声が届く場所に誰かがいた。それが祖母だったり、近所の叔母さんだったり。人の気配を周囲に感じないような環境に置かれるのは初めてだった。
寂しい? それとも心細いのだろうか?
冷静に考えながら、自然と溢れてくる涙の意味を考えていた。
考えているうちに、どうやらうつらうつらしていたようだ。額に触れた冷たい感触に、はっと目を覚ました。
瞼を開いた途端、額に乗せられたものが、びくりと跳ね上がった。それが冷たい手の感触だったのだと、一拍遅れて気が付いた。
せっかく冷たくて気持ちがいいのに。わたしは離れた手の感触を名残惜しく思いながら、ぼんやりと瞼を開く。
ふいに視線を感じて、枕元に目を向けた。熱で潤んだ目には、大きな黒い塊のように見えた。背中を丸め、じっとわたしを見つめているようだ。
「…………誰?」
何度か瞬きをして目を凝らす。感情というものを忘れ去った暗い双眸が、静かにわたしを見下ろしていた。
床に引きずるほど長い髪。色褪せた墨染めの衣。鬼と呼ばれる青年が、どうして枕元にいるのだろう。
風邪など引いていなかったら、一目散に逃げ出していたかもしれない。枕元の水差しを振り回していたかもしれない。
けれど今は何をするのもけだるい。熱のせいで何もかもが夢の中での出来事のようで、他人事のように感じていた。
「お祖母さまみたいに……わたしを食べるの?」
返事など期待していなかった。やっぱりどこか、これは夢だと思っていたのだろう。
「いいや」
彼が返事をしたものだから、本当に驚いた。
「生きた人間は喰わない」
抑揚のない低い声。言葉の意味がぼんやりした頭に沁み込んでくるまで、少し時間が掛かった。
生きた人間は喰わない。
「じゃあ……どうしてここにいるの?」
もしかしたら、こうして横になっていたわたしを、死んでいると思ったのだろうか。
「わたしが、死んでいると思ったから?」
彼は何の反応も示さない。あえて否定しないところを見ると、どうやら当たっているらしい。
「やだ」
ただの風邪なのに。
思わず笑いが込み上げる。
「あはは」
わたしは上掛けに顔を押し付けると、声を殺して笑ってしまった。
「ふふふ、は、あはは」
彼は笑い出したわたしから、ふいと目を逸らした。
そうだ。いいことを思い付いた。
これが「いいこと」なのかわからないけれど、少なくともわたしにとっては、退屈しなくていいことのように思えた。
「あなたは、死んだ人を食べなきゃいけないのでしょう?」
彼は沈黙を守ったまま、身動きひとつ取ろうとしない。
「わたしが死んだら、食べてもいいっていったら嬉しい?」
微かに眉を潜める。よく見ていないとわからないほどの僅かな反応。でもわたしは満足で、思わずにやりと笑った。
「あなたがお祖母さまを食べちゃったから、皆警戒していると思う。しばらくは食べるのはきっと無理。でも、あなたはそうだと困るのでしょう?」
彼は答えない。やっぱり図星だと、つい嬉しくなってしまう。
「わたしね。ずっとこの家にいると思う。しわくちゃのお婆ちゃんになって、きっと死ぬまでね」
この家の人たちが追い出さない限りね。と、心の中だけで付け加える。
「……なぜだ?」
擦れた声で訊ねる。
「なぜって……だって」
どうしてわかり切ったことを聞くのだろう。
「妾の娘になんて、嫁の貰い手があるわけがないでしょう?」
ああ、自分で言っていて嫌になる。でも本当のことだから仕方がない。
「一族のお墓には入れたくないと思うの。だから」
わかるでしょう? とほほ笑んでみせる。
わたしが死んだら、きっとこの鬼にこの身体を喰わせるだろう。容易に想像できることだった。
だけど彼は何も言わない。静かな目で、わたしを見下ろすだけ。
「それから、ひとつだけお願いがあるの」
布団の下で、手のひらを固く握り締める。
彼が誘いに乗ってくれれば退屈はしないし、誘いに乗らなければそれはそれで仕方がない。
「話し相手になって欲しいの。あなたは別に気が向かなかったら話したりしなくてもいいの。たまにね、誰かに話を聞いて欲しい時があるから……」
口に出すと恐ろしく陳腐な発言だと気がついた。言った直後に後悔する。
「……なんて、ね」
笑って誤魔化そうと思ったけれど、どうしてか上手く笑えない。
彼の反応がまったくないのも手伝って、恥ずかしさは頂点に達する。
「いい、やっぱり忘れて」
穴があったら入りたい。でも穴なんてないから、代わりに布団の中に逃げ込んだ。
今の言葉を、取り消してしまえればいいのに。
ぎゅっと目を閉じる。
彼がが早く消えてしまえばいいのにと願っているうちに、いつの間にか眠っていた。
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