十一 待ちわびて

 翌日、風邪はあまりにもあっけなく治ってしまった。

 熱もすっかり下がったようだ。おまけに食欲も沸いてきた。女中の妙さんが持ってきてくれたおかゆも、全部平らげてしまいそうなくらい空腹だった。

「もう大丈夫そうですね。よかったよかった」

 空になったお椀を見て、妙さんは満足そうに頷いた。

「じゃあ、後で果物でもむいてあげましょうね。美味しい桃をいただいたのですよ」

「わあ、桃なんて久しぶり」

 嬉しそうにはしゃぐと、妙さんも嬉しそうに笑顔を浮かべた。

「ちょっと待っていてくださいね。今すぐ持ってきますから」

 妙さんが離れから立ち去るのを待って、わたしは寝床に横たわったまま、部屋の片隅にうずくまる黒い影に声を掛けた。

「ねえ、桃は好き?」

 彼はけだるげに顔を上げると、小さく頷いた。

「妙さんが持ってきてくれるから、一緒に食べよう」

 目を覚ますと、彼はまだこの部屋にいた。どうやら彼は、わたしの馬鹿みたいな誘いに乗ってくれたようだ。

 ということは、わたしも彼との約束を守らなければならないというわけだ。

 だけど、わたしが死ぬのは当分先だ。熱を出しても翌日にはケロリとしているような娘だ。そう簡単に死ねやしない。半分騙したようなものだけれども、けして嘘ではない。


 しばらくしてわかったことは、彼は話相手には向いていないということだった。

 まるで野良猫のようで、気まぐれにしか姿を現してくれない。

 そばにいたとしても、わたしの方も特に話をすることもない。お互いに、ぼんやりとそこにいるだけだ。

 そう。わたしも話相手を求めたわりには、相手に振る話題を持っていなかった。お互い話をするのが苦手。似た者同士なのかもしれない。

 でも、誰もいないよりはましだった。話もしない相手でも、いてくれるだけ、ずっといい。

 たまに話し掛けると、返事はくれないものの、一応耳を傾けてくれているようだ。

 話を聞いてくれる相手がいてくれるだけで、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。

 たとえその相手が、自分の死を待ち望んでいるだけの存在だとしても。

 所詮彼は化物――鬼だ。

 彼の姿を目にするたびに、心が和む瞬間、自分を律するためにその言葉をくり返す。


 あの人は鬼で、わたしはあの人の餌。


 隣にいるのは、死んだ人の肉を喰らう鬼。

 そばにいてくれる代わりに、死んだらこの身体を捧げることになっている。

 祖母のお通夜の晩に嗅いだ血の匂いを思い出したかった。あの時感じた恐ろしさをもう一度思い出せば、この人に対して淡い期待なんて抱いたりしないから。

 なのに、どうしても思い出せない。

 何も言わず、何も聞かず、ただ側にいてくれる人。そうだったら、どんなにいいことか。

 思い出さなくてはいけない。あの人が鬼なのだと。

 そう実感できれば、きっとあの人が恐ろしいと思える。

 姿を目にしたら、きっと震え上がるはず。

 あの人が現れるのを、心待ちになんてしたりしないのに。


 * * * *


 初七日が過ぎ、四十九日も終わり、あっいう間に時間が流れていった。離れの庭にも露草や紫陽花の蕾が顔を出し始め、季節が移り変わってゆくのを実感する。

 祖母の住まいだった離れが、気付けばわたしの住まいとなっていた。

 あの人は相変わらず気まぐれで、滅多に姿を見せようとしない。ここ数日雨続きだったせいもあって、今回は四日も会っていない。

 まだぬかるむ庭に出ることもできず、縁側でぼんやりと佇んでいた。

 雨が上がった後のせいか、心なしか空が澄み渡っているような気がする。

 ふと木陰から視線を感じて、あの人かと思って腰を浮かした。

「由比」

 わたしの名を呼ぶ声に、思わず息を呑む。でも、ひょっこりと現れた人物の姿を目にして、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

「……正平さん?」

 すると正平さんは、薄くほほ笑んだ。

 正確には「正平さんもどき」だ。通夜の晩に会った人。恐らくこの人も本来は見えない人のはず。

「ここでの暮らしはどうだ?」

 ゆるりとこちらに歩み寄りながら、正平さんもどきは静かな声で訊ねる。

「まあまあ、です」

「鬼と、会ったようだな」

 唐突にあの人の話題を振られ、頷いていいのかわからず戸惑ってしまう。

 すると正平さんもどきは、声を立てずに肩だけを震わせて笑う。その笑いの意味がわからず、さらに戸惑う。

「な、なんですか?」

「いや--」

 哀れみに似た色を瞳に滲ませ、彼は呟いた。

「面白い娘だな、お前は」



「由比?」

 再びわたしの名を呼ぶ声に、はっと我に返る。

「正平さん?」

「ああ、お久しぶり。元気にしていたかな?」

 縁側に佇むわたしに歩み寄ってくる姿に、何度も瞬きをして目を擦る。

 絣の着物に袴姿といった、いかにも書生らしい姿をした青年は、人懐っこい笑みを向けている。

 さっきまで話をしていた正平さんは、どんな姿をしていたのか、どんな顔をしていたのか……思い出せない。

「どうした? もしかして眠っていた?」

 目の前に立つ正平さんは、屈んでわたしの顔を覗き込む。

「いえ……」

 どこから夢で、どこから現なのかわからなくなってきた。混乱しながらも、静かに頭を振った。

「いえ、なんでもありません……おかえりなさいませ」

 そして、出来る限りの笑顔を浮かべてみせる。すると、正平さんは「おや」と目を見開く。

「もしかして、誰かを待っていた?」

「いえ、別に……そんなことは」

 予想外な言葉に動揺していた。

 待っていた? わたしが? ……誰を?

 浮かぶのはあの人の、墨染めの衣を纏った鬼と呼ばれる、あの人の姿。

「わたしには、待つ人なんておりません」

「そう? 僕の勘違いかな?」

 否定も肯定もせず、その問いに、曖昧な笑みで誤魔化した。

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