九 再会

 散歩をしたいと告げると、彰子さんは快く送り出してくれた。正平さんが同行を名乗り出たが、やんわりと断った。これ以上、居づらくされるのはご免だからだ。

 せっかくだから海岸に出てみようと思い、わたしは海岸へと歩き出した。くねくねとした坂道をたどり、何度か切り立った岩に挟まれた暗い道を通り過ぎる。

 この辺りは保養地や別荘地としても知られている。ぽつりぽつりと西洋風の洒落た建物があると思えば、鬱蒼とした木々に囲まれた寺社もあり、なかなか興味深い土地のようだ。

 寄り道をしながら歩いたせいもあり、やっと海辺にたどり着いた頃には、お天道様も傾き始めていた。

「わあ……」

 なんて広いのだろう。

 汽車の中からも海を見た時も驚いたが、こうして目の当たりにするのとはまるで違う。

 空も海も、茜色に染まっていた。波打つ水面はきらきらと金色に輝いている。波が打ち寄せるたび、水面は黄金の粒のように砕けては散ってゆく。

「きれい……」

 思わず呟いた声も、波の音にかき消されてしまう。

 時間が経つのを忘れてしまいそう。絶えず押し寄せる波は、いくら眺めていても飽きることなどなかった。

 しばらくぼんやりと過ごしていたが、気がつけば辺りは足元も見えなくなるくらい暗くなっていた。

 そろそろ帰らなければ。

 満潮なのだろう。爪先を打ち寄せる波が濡らしている。打ち寄せるたびに、どんどん波が迫ってきているような気がする。

 帰ろう。

 踵を返して砂浜を踏んだ時、誰かが泣いているような……そんな気がした。

 つい足を止め、辺りをぐるりと見渡した。

「あ……」

 岩場の向こう、暗い海の中に人の姿を見つけた。

 暖かくなってきたとは言え、まだ春の海は冷たい。

 しかも潮が満ちてきた夜の海に入るなんて、正気の沙汰ではない。

 細い身体は今にも波に飲まれそうになりながら、それでも沖に向かって歩いていく。

「まさか」

 しばらく様子を眺めていると、押し寄せる波に足元を取られ、あっと言う間に波の中へと飲み込まれてしまう。

「……っ!」

 大変だ。

 考えるよりも早く草履を脱ぎ捨て、海岸を走っていた。

「……ねえ!」

 だからと言ってどう声を掛ければいいかわからず、何でもいいから呼び掛けてみる。けれど波の音にかき消されて、わたしの声は届かない。

 どうしよう。

 焦燥感に駆られながら海を見渡すと、波の合間からぬっと黒い頭が浮上してきた。

 さっきの人だ。慌てて駆け寄ろうと波打ち際に踏み込んだ時だった。

 これまでになく大きな波が、わたしに向かって襲い掛かってきた。

「きゃあっ!」

 濡れた砂浜に足を取られ、しりもちをついたところで波が押し寄せ、頭から波を被ってしまう。もう全身ずぶ濡れだ。

 ざあっ、と音を立てながら、手のひらの下にある砂が、波に合わせて沖の方へと流れてゆく。

 あの人は?

 顔に貼り付いた髪を払い除けながら、黒い海を見渡した。 

 ――いない。

 焦りが走る。

 沈み込む砂に足を取られそうだ。よろけながらも立ち上がると、再び大きな波が襲ってきた。

 思ったよりも波は大きくなかったが、潮が引いていく勢いに足を取られそうになる。またしりもちをつきそうになる瞬間、冷たい手がわたしの腕を掴むと力強く引き上げた。

 ほっとしたのも束の間、お礼を述べようとして相手の姿を目の当たりにして凍りついた。

 わずかに残る夕陽の下、長い髪から海水を滴らせた青年が、驚いたように瞠目していた。多分、彼がそんな顔をしていなかったら、悲鳴を上げて逃げ出していたかもしれない。

 裏庭で会った男の人……祖母を食らった鬼だ。

 それが今、目の前にいる。

 まだ悪い夢の続きを見ているのだろうか。お通夜の晩に見たものが、あまりに現実味を帯びていなかったからかもしれない。

 恐ろしいと思いつつも、どこか絵空事のように思っていたのふしもあるのだろう。

 それに……。

 幻のような存在だと思っていたのに、わたしの腕はしっかりと彼の手の中に納まっている。

 冷たい肌、水も滴る、もつれた長い髪、じっとりと濡れた衣――間違いなくすべて現実のものだ。怖いはずなのに目が離せないのは、わたしにもよくわからない。

「……大丈夫?」

 何となくこの人が泣いていたような気がしたから、つい聞いてしまった。

 すると彼は、わたしの手を無造作に振り払った。


「去れ」


 彼は平坦な囁きを落とすと、くるりと背を向けた。ゆっくりと砂を踏みしめるように歩き出すその姿が見えなくなるまで、ぼんやりと眺めていた。

 濡れそぼった身体に、冷たい海風が吹き付ける。

 空を仰ぐと、もう夕陽はすっかり沈んでいた。代わりに青白い月が、静かに辺りを照らしていた。

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