八 正平さん

 あれから丸一日、わたしは眠ってしまっていたようだ。

 そのせいで親族一同の印象を悪くしてしまったかもしれないと気をもんだが、よくよく考えてみれば、妾の子など最初からよく思われていないに決まっている。

 だから別に気にする必要もない。開き直ってしまえ。そう思っていたのに、誰かの話し声が聞こえるだけで、もしかしたらわたしの陰口を叩いているのではなかろうか、みっともないと笑われているのではないかと気に病んでしまう。

 気になって仕方がない。でも、気にしても仕方がない。さっきから堂々巡りだ。

「僕は明日の汽車で東京に戻るよ」

 昼食を取った後、正平さんは東京へ戻ると言い出した。

 朗らかな笑顔でお茶のおかわりを催促する正平さんは、昨夜とはまるで別人のようだった。

 正平さんって……どんな顔をしていたっけ?

 あの時の正平さんは、どこか物憂げで、掴みどころのない霞のような印象だった気がする。でも、食後だというのに大きなお饅頭を美味しそうに頬張る正平さんは、まるで別人のような気がした。

「ああ、君もいる?」

 残りのお饅頭を差し出された。わたしは首を振って辞退する。

「母上もおひとついかがですか?」

「お饅頭は結構です。そんなことより……明日には帰るだなんて。もう少しゆっくりしていきなさい」

 お饅頭をぴしゃりと跳ね除け、渋い顔をしたのは郡司家の奥様である彰子さんだった。

 彰子さんは、正平さんみたいな大きな息子がいるとは思えないほど、若々しくてきれいな人だ。こんなきれいな奥様がいるのに、どうして父は遊郭通いなどしたのだろう。

 父という人の顔を思い出そうとするが、どんな顔だったかよく思い出せない。

 葬儀が終わると、仕事の取引だからと早々に出掛けてしまったらしい。どうやら普段から留守がちな人のようだ。

 けれど、それは単に仕事が忙しいだけではないらしいと、女中の人たちが話しているのを聞いてしまった。聞けばわたしみたいな子は、他にもいるらしい。

 こんなに立派な家と、よく出来た奥様と、東京の大学へ行けるような優秀な息子がいるというのに、何が足りないというのだろう。男の人ってよくわからない。

「悪いね母上。今月中に論文を提出しないと、教授に大目玉を食らってしまうからさ」

 からからと笑っている正平さん。やっぱり、お通夜の晩とはまるで別人のようだ。

 もしかして……わたしはまた、見てはいけない人を相手にしてしまったのかもしれない。

 この家は、そんな得体の知れない者に好かれているらしい。改めてこの家に来てしまったことを後悔する。

「そうだ由比。荷物持ちを手伝ってくれたら、お礼にソーダ水でもご馳走してあけよう」

 傍観者として二人のやり取りを眺めていたから、まさか話を振られるとは思わなかった。

「え、あ……はい」

 突然でどう対処すればいいのかわからない。ただ口をぱくぱくしてしまう。

「荷物持ちなんて、桂三さんにお願いすればいいでしょう」

 穏やかな声とは裏腹に、彰子さんがわたしを見る目は冷ややかだ。彼女の目に、わたしがどう映っているのかわかったような気がした。

「いえ……わたしは、遠慮します」

「僕はね、可愛い妹に見送って欲しいんだ」

 それなのに、正平さんは彰子さんの神経を逆撫でするような発言をするのだから、たまったものじゃない。

「いい年をして我侭はお止めなさい。由比さんは具合が悪いのだから。明日は桂三さんとわたしがお見送りに行きます」

「わかりましたよ、母上。由比、残念だけど、ソーダ水はまた今度ね」

 叱られた子供のように肩をすくめながら、悪戯小僧のような笑みをこちらに向ける。

 へらへらと笑う正平さん。恐らく、この人が正真正銘の正平さんなのだろう。じゃあ、あの晩言葉を交わした相手は……深く考えないことにする。たった今、そう決めた。

「はい。また今度、楽しみにしています」

 少し混乱しながら曖昧な笑顔で答えると、途端に彰子さんの厳しい視線が飛んできた。

 ああ、もう面倒くさい。

 わたしが正平さんにヘンな気を持つと思っているのだろうか。何て本当に面倒くさい。今、わたしの頭の中は、お通夜の晩に見た出来事でいっぱいだというのに。

 一心不乱に肉塊を貪る男の人の姿。辺りには赤黒い血と肉片が飛び散り、金臭い血の匂いを一面に振り撒いていた。

 鼻腔の奥に、まだ血の匂いがこびりついているような気がした。思い出しただけで、喉の奥から酸っぱいものが競り上がってくる。

 やめた。このことも、考えるのはやめよう。

 あの夜見た出来事は悪い夢のようで、まだ誰にも話していない。

 あれは夢だったのか、はたまた現なのか。自分でもよくわからなくなっていた。

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