みどり を なぞる ひと

第1話 

 


 学校の帰り、わたしは大きな河沿いを歩いていました。

水は綺麗に澄んでいるというわけでなくて、泳いでいる魚がちょっと心配でした。でも、ものすごく汚れているわけでもなくて。


 河も下流になっていけば、これくらいで普通なんだって。泳ぐとか考えちゃダメよ、ってママは言ってた。絶対に河に入ったらダメなんだって。浅く見えて、深いし、汚いし、溺れちゃう。


 でも一杯、白い白鳥がいるの。日本だとあんまり見たことない。近くに行ったら大きくてびっくりする。サラちゃんとね、パンをあげるの。そうしたらたくさん近寄ってくるよ!


 ここは、日本の山の中に流れてる川みたいには綺麗じゃないの。ちょっと残念。昔ね、滝壺みたいになってる川に飛び込んだことある。田舎に行った時。あの時の川なんかは、透明で冷たくて、綺麗だった。楽しかったな。確かにここだと、水に入るのは無理そう。とても残念。


 暖かいけど、暑くない、爽やかな午後。わたしは魚を探したり、ラゴンダがどこかに泳いでないか、目を凝らして川沿いをジグザクに歩いていました。さっきまでサラちゃんと一緒だったけど、もう帰ることにしたの。ラゴンダってね、こっちに来て、初めて見た。大きな、川に住んでるビーバーみたいな動物。ビーバーとラッコと、ネズミを足して割ったみたい。二本足で後ろ足で立ってね、何か齧ったりして。大きいよ!


 わたし、ラゴンダを見たら、ラッキーなことがあるの。


いつもそう思う。ラゴンダを見たら、きっといいことが起こる!



 カヌーの練習をしている子たちが次々通り過ぎて、わたしは、まだまだ遠いと一生懸命歩きました。


 ずっと遠くに大きな石でできた橋が見えます。ピンクの花が丸いポットに入れられて、たくさんつるしてありました。

 大きなメガネを半分にしたような橋で、外国の絵葉書で見たことがあるような形をしていました。


 天気が良い日の午後、歩いているのはわたしだけでした。本当は、ママがベビーシッターのマリアをいつも頼んでいたのだけれど、今日は急に来れなくなったそうです。途中の駅で電車が止まってしまったんだって。ごめんね、とママは言いました。今からじゃママも、間に合わないわ。サラちゃんのところで待っててね。迎えに行くから。


 何かあったら、すぐ携帯を鳴らすのよ。防犯ブサーもポケットに入れてる?


 ママは心配みたいだけど、大丈夫だよ。一人で帰れる。だって、まっすぐだもん。橋のところからは、駅と反対側にまたまっすぐ。噴水のある広場を通り抜けて、まっすぐ。簡単だよ。わたしは、早く家に帰ってセキセイインコのキキの水を新しくしなくちゃ、って思ったから、サラちゃんにさよならを言いました。ママ、なかなか来ないんだもん。キキっていつも鳴くから、キキって名前になったの。きっと、今頃、すっかり水が空っぽになっちゃってるかも。キキはいたずら好きだから。


 サラちゃんはもともとシリア人だそうです。肌の色がちょっと浅黒くて、黒い髪の毛は少しだけゆるくウェーブがかかっていました。わたしは全く気づきませんでしたが、サラちゃんは自分の肌を指差して「ね、肌だってみんなと違うでしょ?真っ白じゃないでしょ?」と言って。


 そうかな?そんなに変わらないよ。


 おじいちゃんとおばあちゃんがシリアにいるから、夏休みはいつもそっちで過ごしてるの、と言いました。


 いいね、いろんな国に行けて。わたしも見てみたいな。


 サラちゃんはいつもわたしに話しかけてくれて、とても親切でした。すぐに一番の友達になり、いろいろ教えてくれました。トイレで、手を洗おうとして、水をどうやって出すのかわからないわたしに、さっと床にあるボタンを足で踏んで、水を出す方法を教えてくれたり。チーズを食べる時、ここの部分は食べないからナイフで先に切って、チーズはこんなふうに切って食べるのが普通よ、とか。ちゃんと切り方が決まってるんだって。面白いね。お母さんにも教えてあげました。


 サラちゃんはわたしが困っていると、いつもサッと手を差し伸べてくれる。だからいつも一緒にいました。初めてのクラスの友達。今日もサラちゃんの家まで、一緒に帰りました。川沿いからちょっと入ったところのマンションの2階。サラちゃんのお母さんは、お腹が大きいの。もうすぐサラちゃんはお姉さん。


 サラちゃんの家から、固くなったパンを持ってきて、白鳥にあげたの。白鳥がいっぱい、どんどん寄ってきて、あっという間になくなっちゃった。


 こっちのパンってね、すぐ固くなって食べられなくなるの。でもね、買ってすぐは日本のパンより美味しいよ!パリパリしてるの。まな板の上でね、ナイフでノコギリで木を切るみたいにね、切ってカゴに入れる。でもね、ちょっと放っておいたら、固くて食べられなくなっちゃう。固い棒みたいになるの。不思議。


 サラちゃんは、一緒に家でお迎えを待とうよ、と、言ったけど、大丈夫。キキが待ってるから、もう帰るね。


 バイバイと手を振ってサラちゃんと別れて、それからわたしは、あとちょっとを歩いていました。さっきの白鳥たちが「もっとパンないの?」とついてくるけど、ごめんね、もうないよ。


 学校は難しかったです。よくわからない。でも、先生が優しくて、すぐに慣れるから気にしないでいいと言ってくれました。音楽や美術、体育は楽しいです。言葉がわからなくても、大丈夫だから。みんなが話している輪には入りづらいけれど、こっちの学校はとても自由で、楽です。制服もないし、席に座っているけれど、別にどこに座ってもいいし、とてもリラックスしています。


 お母さんやお父さん、シッターさんたちは、必ず迎えにきてくれて、学校が終わる時間には、校門の前で待っています。規則で決まっているのだそうです。この国では必ず、小さな子が学校から帰る時は、誰か大人が学校の門まで迎えに来ないといけないのだそうです。


 わたしは、すぐにみんなが話してる言葉も、わかるようになる気がしていました。みんな優しいから、なんとなく言っていることは今でも、わかります。みんな一生懸命、話しかけてくれる。学校は楽しかったです。特に給食がびっくりするほど美味しいです。いつもすごく楽しみです。



 サラちゃんと別れて、歩いていたら、知らないお兄さんが階段に座っていました。日本人みたいに見えて、わたしは立ち止まりました。


 日本人に見えるけど……違うかもしれない。


 すらっとした感じで、さらさらっとした髪で、着ている服がちょっとおしゃれ。


 何してるんだろ?


 そっと後ろから近づいてみたら、絵を描いてるみたい。



 日本人の人かな、違うのかな? 


 珍しい、とわたしは思わずじっと見ていました。


 サササッ、とスケッチブックに細い鉛筆で何か描いてる。小さな小さなスケッチブック。ハガキくらいの大きさかな?


 もうちょっとよく見たくて近づいたら、わたしの影に気づいたお兄さんは振り返りました。



「……こんにちは。もしかして日本人の子かな?」


 現地の言葉で話しかけられました。わたしは、日本語で「もしかして日本人の人?」と聞いてみました。


「そう。日本人だよ」


 お兄さんはニコッと笑いました。わたしは、綺麗な人だなあ、と思いました。


 なんていうか、お風呂から上がったばかりみたいな、透明感のある人でした。少しグレーがかったみたいな、不思議な色のぴったりしたジーンズを履いていて、スケッチブックに写生してたみたい。


 生まれたばかりの透き通った蜉蝣みたいな感じがするお兄さん。さっきシャワーを浴びて、家からそのまま出て来たような感じ。


一歩、二歩、と近づいて、わたしはなんか涼しい感じがするお兄さんの顔をじっと見つめました。


 お兄さんは照れたみたいに優しく微笑んで、「……どこまで帰るのかな?」と言いました。


 お兄さんは恥ずかしがり屋さんなのかな?わたしは、どこかわたしの方が、お兄さんより、一歩も二歩も、お兄さんに平気で近づけるような気がしました。どうしてかな?


 わたしは「あっち」と家の方向を指差しました。図書館の裏まで帰るの。


「送ってあげようか。行こう?」


 私たちは並んで歩き出しました。お兄さんはわたしに「学校の帰り?」と聞いてきました。


「うん」



 お兄さんが、なんで一人なの?と聞くから、今日はたまたま、ベビーシッターのマリアが急に来られなくなって、途中まで友達と一緒だったの、と言いました。


 お兄さんは「今度から、一人で帰ったらダメだよ」と言いました。本当に危ないんだから。


 うん、ママもそう言ってたんだけど……キキが待ってるから。もし水がなくなってたら、水を入れてあげないと死んじゃう。


 ママ、もっと早く迎えに来ると思ったのに。


 夏の明るい日差しが、少し傾きかけていました。もうこんな時間。でも、日本に比べたら、ずっとずっと明るい。まだまだ昼間みたい。


 ママ、今日、遅いけど、どうしたのかな?真っ暗になる前だったら、平気だと思ったの、と言いました。




 「お兄さんはどうしてここにいるの?」


 わたしが尋ねると、軽く微笑んで、お兄さんは右手のスケッチブックを軽く持ち上げました。



「お兄さんは絵を描く人?」


 長い睫毛を伏せて、お兄さんは首を横に振りました。横顔を見ていると、まるで消えていくような人の気がして、わたしはじっとお兄さんを見つめました。


 髪の毛がサラサラしていて、わたしでも、思わず画用紙があれば、お兄さんを描いてみたいような気持ちになる。


 たくさん外国人がいるけれど、こんなふうにわたしが感じることは珍しくて、わたしはじっとお兄さんを見つめました。


 不思議な感じがする。生きてる人じゃないみたい。




 ねえ、お兄さん、お兄さんって普通の人じゃないみたいだね?



お兄さんは「……そうかな?」と照れたみたいに微笑みました。



 そうだよ。なんか不思議な感じがする。おんなじ世界にいる人じゃないみたい。




「……困ったな。なんでそんなこと分かるの?」


 お兄さんはわたしが近づくごとに、ちょっとタジタジしました。


 お兄さんは、わたしに合わせてゆっくり歩いてくれてるけれど、もっともっとゆっくりになります。だんだん疲れてきちゃった。


 まだまだ遠いね。


 わたしは、お兄さんに、疲れた、手を繋いでもいい?と聞いてみました。


 お兄さんは下を向いて笑って、「いいですよ、お姫様」とわたしに腕を組むように促しました。



 お姫様!


 わたしはちょっと赤くなりました。


 嬉しかったです。王子様みたい。本物の王子様みたいなお兄さん。



「ああ、楽になった!」


 わたしはお兄さんにぶら下がるみたいに支えてもらって、楽になりました。この川沿いの道は本当に遠くて、歩いても、歩いても、なかなか橋のたもとまで辿り着けないから。近くに見えて、本当に遠いんだもん。


 いつも車だから、全然気づかなかった。ものすごく遠いね。



 わたしは、ふふふ、と笑って、ありがとう、楽になっちゃった、と言うと、ごめんね、気づかなかった、とお兄さんは言いました。


「カバンもお持ちしますよ」


 お兄さんは、そんなふうに言う時だけ、ちょっとしっかりして言いました。




 わたしは、本当に疲れちゃって、こんなに遠いと思わなかった、と言いました。お兄さんは、カバンを持ってくれて、わたしは急に、お兄さんが同じ世界にいる人みたいな気がしました。さっきは消えちゃいそうだったけど、何かが繋がったみたい。




ねえ。


お兄さんとまた会いたいな。


いつもこんなふうに散歩しているの?と聞きました。


 お兄さんは、うん、と言いました。


また会いたい!


 


 わたしがそう言うと、また会えると思うよ、小さな街だから、と答えました。




 ねえ、お兄さん、スケッチするところ見てみたいな!さっき何を描いてたの?


わたしは、立ち止まって、お兄さんに言いました。


何か描いて見せて!




 お兄さんはいいよ、と言いました。何がいい?



 わたしは、側に咲いていた小さな花を指さしました。


 名前は知らないけど、あれがいい!


 お兄さんはカバンここに置いていい?と河から上がってくる細い階段を指差して、私たちはそこに並んで腰掛けました。


 わたしは、カバンを離れた脇に置いて、お兄さんが描いてるのをよく見ようとして、すぐ後ろから覗き込みました。



なんだかいい匂いがする。


甘い花みたいな匂いがする。



 お兄さんは、あっという間にそこにあったお花をそっくりに、紙の上になぞり始めました。鉛筆で、しゃしゃしゃしゃ、って。


 そうすると、まるで生きているみたい。あっという間に同じ花が画面に出てきて、わたしは驚きました。




 お兄さんすごいね!すごい!


 お兄さんはこの花「ヒナギク」って言うんだよ、と言って、その花に手を伸ばし、茎をちょっとちぎって、わたしにくれました。


「かわいい……」


小さな小さなマーガレットみたい。ミニチュアみたいなお花!


 わたしは、お兄さんからお花を受け取って、本当の王子様も、こんなふうにわたしにお花をくれる、と思いました。まるでわたし、おとぎ話の中にいるみたい。




 名前はなんと言うの?と、お兄さんがわたしに尋ねます。


わたしが「らん」と言うと、お兄ちゃんは「らんちゃんへ」とさっき描いたヒナギクの横に書き込みました。


スケッチブックをピリピリと音を立てて破いて、これ、あげる、って。


「ポケットに入れておくと、お守りになるよ」


小さな薄い白い紙がぎっしりのスケッチブックを閉じて、お兄さんは言いました。






 わあ、ありがとう!


 わたしは、カバンを開けて、カバンの中にそっとしまいました。折れたり汚れたりしないように真っ白なノートの余白に挟みます。




 お兄さんはそんなわたしを優しく微笑みながら見ています。でも、さっきと違って、どこか近くなったり、遠くなったりする気がする。わたしは、お兄さんがいなくならないように、ぎゅ、と、お兄さんの洋服の腕を掴みました。




 ね、お兄さん、時々、お兄さん消えちゃいそうに見える。何でかな?


 わたしがそう尋ねると、「そんなことまでわかるのって、すごいね……」とお兄さんはこっちを見ないで、輝く川べりの光に顔を向けたまま、微笑みました。




 なんかお兄さんね、わたしより純粋そうな感じがする。


 


 お兄さん、大人なのに、変だね……どうしてなのかな?


 お兄さんは、何でだろうね?と言いました。それから「らんちゃんは、純粋じゃないの?」


 ううん、わたしが純粋じゃないっていうんじゃなくてね、お兄さんの方が、わたしよりもっと、純粋だと思うよ!



 お兄さんはほのかに笑ってるだけで、何も言いませんでした。お兄さんが何を考えていたのか、わたしにはわかる。


そうかもしれない、でも、なぜそうなのかな?って。


 



 不思議だね!だって仕方ないよ、そうなんだもん。


 生きてる長さには関係ないよ!


 わたし、わたしの方が、お姉さんって気がする。


 


わたしがそう言うと、お兄さんはちょっと恥ずかしそうに笑ってました。





 わたしは、ねえ、ねえ、お兄さんは彼女とかいないの?


わたしは、階段に座ってるお兄さんの耳に、そっと耳打ちしました。


 お兄さんはくすぐったそうにして、微笑みながら「そんなの…いないよ」と言って、困ったなあ、と笑いました。





 いないんだ?


 ね、じゃあ、わたしが彼女になってあげる!




 お兄さんは笑います。わたしは、「ね、だって、お兄さんのこと、すっごく気に入っちゃった!」




 わたしは、さっきお兄さんがくれたのと、同じヒナギクをちぎってきて、お兄さんの耳の上に。




お兄さん、髪の毛サラサラ……!なんかお人形みたいだね。綺麗。耳も。


 髪の毛を耳の上にかけると、ヒナギクがぽろっと階段に落ちて、わたしは慌てて拾おうとしました。


 狭い階段を一瞬、一段、踏み外すみたいに降りてしまって、「きゃ!」


 お兄さんは、危ないよ、とさっと支えてくれました。


 お兄さんは座っていたから、これって、お姫様抱っこ?



 思わず、お兄さんの胸にしがみつく。




 急にお兄さんが、生身の人のような気がして、わたしはドキドキしました。お兄さんの匂い。みどりのお花みたいな、甘い匂いがする。


 お兄さんのシャツの中から、立ち上る匂いは、お花みたいなんだけど、本当にそこにいる人みたいで、わたしは急に、どうしたらいいのかわからなくなりました。お兄さんのことが好き。



…なんか恥ずかしい。すごい。お兄さんの鼓動が、とっとっとっと、ってすごく早く聞こえる。


 とくとくとくとく、わたしは初めて、自分の心臓の音を聞いて驚きました。


 静かに時間が止まってる。一瞬だけ、同じ時間の場所にいるみたい。誰もいない二人だけの場所みたいなところにいる。


 どこか知らない場所にいるような気がする。お兄さんのこと、よく知っている人みたいな気がする。


 今出会ったのが、初めてじゃない。


 よく知ってるみたいな気がする……。




 その静寂を破るように、ぎこちなくお兄さんは言いました。


「……えーと、……じゃ、らんちゃんが大人になって、それで、それでもまだ覚えてて、今と同じようにそう思ってたら……その時は、迎えに行くね……」


 お兄さんは、すごく恥ずかしそうに、耳まで真っ赤になり、目をつぶって、そう言いました。


 


 ほんと?




 お兄さんは「らんちゃん、きっと大人になったら、忘れちゃうよ」と言いました。



「でも、それでいいんだよ……」とお兄さんは言いました。






なんで? わたし、忘れないよ?


なんでお兄さんのことを忘れるの?



お兄さんは何も言いません。


 わたしはお兄さんの頬を右手で触ってから、「約束してね!」と小指を出しました。



迎えに来てね?



待ってるから……





指切りげんまん、嘘ついたら……ハリセンボン、飲~ます、指切った


 


お兄さんの指先は白くて冷たかったです。わたしは、お兄さんの手、どうしてこんなに冷たいの?と両手で温めます。


 お兄さんの体は温かいよ?でも、手はこんなに冷たい……



 お兄さんは、遅くなるとお母さんが心配するよ、さ、もう、行こう?と言って、わたしをそっと、立ち上がらせました。


お兄さんの膝の上に、お姫様抱っこされたままだったわたし。



 いつまでもそうしていたかったです。でも、帰らなきゃ。


お兄さんの膝もあったかい。階段だから、スカートを押さえて、本当にそうっと。立ち上がらせてもらいました。


「行こう」


 座っていた階段から、立ち上がると、突然に大きく見えるお兄さん。今まで座ってて、全然、わからなかった。座ってたら、顔が近いね?


 お兄さんは、自分のジーンズをパタパタッと叩いて、わたしのカバンを拾って、階段を登る。腰が細い。



 まだまだ明るいけれど、ベンチが増えてきて、船が泊まっている辺りになると、時々、怖そうな人がこっちを見ています。


すぐ裏が暗い公園になってて、なんか黒い肌の人。


時々一人、時々、2人。


なんか怖い。ビールを飲んでるみたい?


 わたしはお兄さんの手をぎゅっと握って「お兄さんがいてくれてよかった」と言いました。


 


 お兄さんは「次からは、絶対、お母さんのお迎えを待たないとダメだよ?河沿いは一人で歩いたらダメだよ」と言いました。


 さっき座ってた時は真っ赤な顔して、目を伏せてたけど、冷たいクールな感じに戻ってるお兄さん。本当にさっきと違う。いつも違う人みたい。


 わたしは、お兄さんが同じ人なのに、同じ人じゃないみたいで、どきどきしました。さっき……。さっきはわたしの方が、大人だったよ?


 きっとすぐ顔に出ちゃうんだね。かわいい。


 わたしは、わたしだけがお兄さんを独り占めしたくなって、いつまでも家に着かなければいいのに、とギュ、と手を握って。




 よかった。お兄さんがいてくれて。



「もし今日みたいに一人になってしまう時は、迎えにきてあげるよ」


わたしはほんと?と、言いました。


どうやって?






 お兄さんは人差し指で軽く自分のこめかみを押さえました。


「……テレパシー送って?」



うそ?


お兄さんは、長い睫毛を伏せて、ほんとだよ、試してごらん、と言いました。






ええ~本当かなあ。


わたしが疑うような顔したのか、お兄さんは笑いました。


らんちゃん、大人だね?



「お兄さんはどこに住んでるの?」


あっち、とお兄さんは河の向こうの駅の方を指さしました。うちと反対側。


「なるべくこの街にいつもいるようにしてるんだ、怖いと思ったら、そうしてね」


わたしは「ありがとう!」と答えました。


 


 お兄ちゃんは何をしているの?お仕事は何?




お兄ちゃんは恥ずかしそうに笑いました。綺麗な赤い唇が、ちょっと女の子みたい。


「……みどりをなぞってるよ」



え?


わたしは、意味がわからなくて、お兄ちゃんをじっと見ました。




みどり を なぞる 仕事……?



お兄ちゃんは「そう」と答えました。



わたしが困った顔をして考えていると、「火も使うよ」と言いました。



火も使う……


みどり を なぞる仕事……




わたしが止まっていると、お兄ちゃんは笑って言いました。


きっと、そのうちわかるよ。




 お兄ちゃんは、マンションの前まで、わたしを送ってくれました。


わたしが二重のドアのコードを押して、入っていくまで、じっと見ててくれてました。



本物の王子様みたい!



また会える?


 わたしが重いドアが閉まる前に言うと、また会えるよ、と言って。そう言って手を振りました。



忘れてた!



 わたしは、ドアを開けたのに、思わずさよならのビズをしに、王子様に近づくと、忘れてたみたいに、王子様はちょっと赤くなりました。


 そうだよね。日本には、さよならのビズなんてないもん。


でも、ここじゃこうやって挨拶するのは普通だよね。






 わたしが届くように、身を屈めてくれる王子様。


わたしは王子様の首に両腕を絡めて抱きしめます。王子様、手は冷たいけど、体は暖かい、良かった。生きてる人だよ。




さよなら!






 王子様は大人なのに、すごくかわいい。ビズに赤くなるなんて、わたしは、わたしの方が大人みたい、と


 ちょっとだけくすっと笑いました。



ママ、今日ね、王子様に会った!



 わたしは、家に帰ってから、カバンを開けて、お兄さんがくれたスケッチの紙を取り出しました。




ママー、これさっき、日本人のお兄さんが描いてくれたの。見て、見て~!



……あれっ?



 わたしは、表を見たり、裏を見たりスケッチブックの紙を何度も裏返しました。



らんちゃんへ って書いてあるのに、さっきのお花が消えちゃってる!



 あれ~…… お花が消えちゃった。おかしいなあ……




 またお兄さんに会えるかな。会えたらいいのにな。狭い街だから、きっと会えるよね?






 ママ、今日ね、素敵な王子様に会ったの、夢みたいだった!














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