崩れる様を見ている。

 何を?

 家を、だ。


 家庭の崩壊という概念的なものではなく、家族の離散という制度的なものではない。もっと物理的な事象としての崩壊。

 家の崩壊。


 災害、事故などの不幸が原因ではない。

 ただ、古いから壊して建て直そう。そういう話になっただけだ。


 父も母も私も、異存はなかった。唯一拘っていた祖母は先々月亡くなった。


 だから、壊した。

 壊したからには、建てる。

 それだけだ。


 運がいいことに、仮宿にはすぐ向かいのアパートを借りられた。

 家に帰れば、家が壊れていく様を見られる。

 不思議な気分だ。


 ほんの少し前まで自分が住んでいた場所が、べりべりと剥がされていく。

 今更木造住宅なんて、時代遅れにも程がある。

 祖母の拘泥したものが重機に掘り返されていく。

 粉塵が舞う。木片が落ちる。

 祖父との思い出が分解されていく。


 ふわり、と匂い。

 線香か。祖父か。祖母か。

 馬鹿な。


 くすり、と笑う。馬鹿らしい。

 必要以上に感傷的になることはない。新しい我が家は、旧いものを壊さない限り建たないのだから。


 ふらり、と匂い。

 雨の匂い。

 空を見上げる。


 雲はない。

 沈みかけの茜が地平線の向こう、名前もよくわからない山の影へとゆっくり沈んでいく。

 青から藍へ、短い藍を挟んで紫はまたすぐに赤く染まる。


 なら、どこから雨が香るのだろう。

 不思議に思い、見渡す。


 部屋の中は簡素だ。

 所詮仮住まい。生活に必要な最低限のでいい。

 一番大きいのは、運び出すのに大変だった仏壇。それ以外に目立ったものはない。


 溜息を一つ。

 何をしているんだ、自分は。

 首を振って、着替える。夕飯の支度を始める。

 まったく。どうかしている。


 気分を変えて、カレーにしよう。先週も出した気がするけれど、まぁ、いいだろう。皆が好きなものだ。野菜も肉もたくさん入れられる。

 先週のいつ出したっけ。

 確か週の初めだったと思うけれど。


 曖昧だ。

 時間が。

 空間が。

 剥離しているみたいで。


 家の外へと玉ねぎを取りに向かう。

 二階に行けば一番星が顔を覗かせているだろう。

 気になるけれど、今は目の前の食事作りに専念しよう。


 からり、と。窓を開く。


 ぶうん、と。虫が居る。


 虫。

 季節外れとは言い難い。

 そろそろ夏だ。春は短かった。梅雨はきっとすぐにくる。


 だから、虫がいても、なにも、おかしくは、ない。


 ぶうん。


 蚊柱。羽虫柱。たくさんの、虫、虫、虫。

 よくよく見なければ埃と見紛う程小さな。


 おかしくはないと思うのだ。思うのだけれど、いくらなんでも。

「多い、よね?」

 ぼそりと口から疑問がこぼれ落ちる。


 音にすれば剥離してしまう。


 だから、答えはすぐ見つかった。

 家だ。

 あの、旧い家。


 あそこから、わらわらと湧いている。水の沸くようにふつふつと、沸いている。


 溜息。二つめ。

 家なのだから、虫くらいいるだろう。壊れれば、新しい家を探して出て行くだろう。当然だ。

 私たちだってそうしている。虫だってそうするのは当然だ。


 あの家から、全てが逃げ出していく。

 ぼろぼろとこぼれ落ちていく。

 祖母の怨念も、祖父の思い出も、木片の如く、塗料のように、はらはらと。


 壊れてしまえば、呆気ない。

 無くしてしまえば、なんのことはない。


 重機によってじゃぶじゃぶと掻き混ぜられ、形を喪った家の原形。

 そこから産まれた、産まれさせられた、羽虫。群れ。

 産まれるはずだったもの。産まれなかったもの。産まれさせられたもの。産まれてしまったもの。


「蚊取り線香、どこやったっけな……」


 剥離していく。

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