居間
何の冗談かと思った。
目の前にぶら下がっているのは弟。その横に父。母。皆、居間の電灯に並んでぶら下がっている。ゆらゆらと揺れている。目を剥いて、唇の間から舌をだらりと垂れて。窓からは夕陽が射して。カーテンは揺れずにいて。ぶぅんと羽虫がたかって。糞尿の新鮮な匂いが立ちこめて。喉に酸味が込み上げて。
思わずトイレに駆け込んだ。
今更無意味なのに。
昨日まで、否、今朝まで一緒に食事をして、話をして、そして。今はぶら下がっている。
「釣れましたね」
臓物から放り出た汚物にまみれた絨毯に、今更己の吐瀉物が混ざり込んだところでなんの差があろうか。
あぁ、いや。警察が困るだろうか。毒や薬やの成分を調べたりするのだとして、そのとき他人の、即ち自分のそれが混入してしまっているのは困るだろう。
他人の。
他人の?
家族じゃないのか、自分は。
この人たちと、血縁があるのではないのか。
ある? あった? あの、ぶら下がっているあれと。関係が?
人? もう人というには手遅れのあれらが?
何が原因なんだ?
理由が解らない。
借金だろうか。
弟の不登校だろうか。
いや、判らない。
だって、そんなことで、その程度のことで。
そもそも。
家族のことなんて、何も解らない。
「たっだいまーぁーつーかーれーたー」
姉の呑気な声を、トイレの中で蹲りながら聞く。
「……なんか臭くない? ちょっと、誰もいないの?」
口々に家族の名を呼ぶ彼女。自分も呼ばれる。応えて良いのか、
「誰によ、許可がいるんだよ、んなもんよ」
真後ろで炎が吐き捨てた。
悩む。悩む?
迷う?
何故。
応えれば良いじゃないか。
否、でもそれでは、
「ひっ」
姉の悲鳴。トイレで潜めていた身を滑らせるように躍り出る。
「な、なに……なんなの……」
惑う女を後ろから、他の三人と同じように。
「然うだよなァ。それが自然だ。それも当然だ」
炎は語る。くつくつと嗤う。
首を締める。締め上げる。縄で、編まれた太い繊維で。
もがく女。姉。ぬるりとした縄。肉の縄。その緒でぎちぎちと窒息を促す。力の限り。みちみちと。
姉の視線がこちらに向く。じたばたともがく前に足を払い、そのまま肩甲骨の間を力一杯踏みつける。緒は外さず、更に更に家族の頸元へと食い込む。
その女の瞳に、何故、と問われた気がした。
違う。
先に、先に殺されたのはこちらだ。
姉は所謂、何でも出来る女だ。
学生時代は勉強も運動も人並み以上。常に上位に居座る人種で、凡ゆる分野においてトップを争っていた。
自分は?
逆というわけではない。対照的ですらなかった。
何もできない。何者にもなれない。何事も上手くも無く、下手でもなく、中庸だった。だから、よく姉と比較され続けた。
努力が足りないとなじられた。
やるだけ無駄だと呆れられた。
どうしてできないと嬲られた。
それなら仕方ないと放られた。
弟は、寧ろ逆に愛されていた。
出来ない子ほど可愛い、というやつだろうか。不出来な弟を、家族は溺愛した。快活な性格だったからか。愛らしい笑顔故か。張りのある大きな声の為か。
理解できなかった。
自分だけ、あの家族の輪から外れていた気持ちがし続けていた。自分だけ、繋がっていないような心持ちだった。
「釣れましたね」
今、緒で天井から釣られている肉の塊を見つめる。これで、繋がれたのだろうか。
ああ、否。まだだ。まだだろう。恐らく。
自分が自分になる為に、まだ一つある。完全な自由を作るのだ。この手で。
涎で汚れた掌をじっと見詰める。
腹から生えた緒をぎろりと睨む。
それを、首に、頸に巻きつけて、
「臍の緒ってェのはよ。紛う事無く、舫だろうよ」
椅子を蹴って、苦しさに踠きながら、自分はこうして家族と対等になったのだ、と満足した。
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