きっと、僕が死ぬ時は窒息死だろう。そう信じて、疑わなかった。


「里中ー」

 学校の帰り道。夏の日差しもようやく弱まり、少しは過ごしやすくなり始めた頃。下駄箱で靴を履き替える僕を呼び止める誰か。よく通るこの声は、

「佐月」

 んふふ、とはにかむ彼女。


「一緒に帰ろ」

「いいけど、スーパー寄らなきゃ」

 一緒に連れだって歩くのはなんだか申し訳ない気持ちがして、断る口実を探した。

「荷物、持ってあげよっか」

「女の子にそんなことさせるわけにはいかないよ」

「里中は良いやつだよなぁ」


 校門までの道のりを話しながら歩く。部活が終わる時間は部によってまちまちで、だから誰かに見られる心配はあまりない。けれど、噂になるのは避けたい。

「佐月はさぁ、クラスのみんなに見られたら厭だとか考えないの?」

「何を?」

 きょとん、と目を丸くした彼女。

「もういいよ」

 諦め半分、嬉しさ半分でそっけなく答える。


 専ら佐月が喋り、僕は相槌を返す。そういう関係だ。商店街に入っても佐月のマシンガントークは途切れることなく続く。

「そんでさぁ、あいつ火傷しちゃって。ちったぁ気をつけろっての」

「災難だね」

「洗面台占拠されるこっちの身にもなって欲しいっての」

「女の子、朝は時間かかるんでしょ」

「え、あ、うん。わかる……?」

「わかんないけど。ほら、男って顔洗って髭剃って終わりだから。でも、女の子はそうじゃないでしょ」

 佐月は、あー、と暮れ行く空に目を向けながら、

「日によるし、人による、かな」



 ふーん、と我ながら気の抜けた返事が出てしまった。

 ……そうだ、寄る場所を作ろう。

「あ、魚屋寄ってくから」

「何作るのー?」

「ついてくるの?」

「もっちろん!」

 満面の笑み。可愛いな、とも思うのだが。


「父親と母親、心配しない?」

「しないしない、うちは大所帯だから、そんな余裕無いって」

 手を振りながら、朗らかに笑う佐月。どう答えれば良いのか解らなくて、

「干物、あるかな」

 言葉を秋空に放り投げた。


「やっぱり少し持つって」

「いいよ、大丈夫だから」

 買い物を終えた帰り道。巨大に拡がった買い物袋二つを両手に持って、肩には学校で使う鞄。長く伸びた影はまるでバランスの取れない壊れたやじろべえのようだ。

「重く無い?」

「佐月は女の子だから。重たいものを持つのは男の仕事」

「もう、たまには手伝ったって良いじゃない。付き合い長いんだしさぁ」

 膨れる彼女。僕はきっと困った顔をしていたろう。

 しばらくの無言。足音。遠くに聞こえる車の音。布でできた買い物袋は音を立てず、ただ少しゆらゆらと揺れている。


「里中」

「えっ。何」

「家」

 あ、と気の抜けた掠れ声が出る。歩き過ぎに気付かれた。

「帰んないの?」

「……帰る……」


 帰らざるをえない。


「じゃ、また明日」

 手を振り歩き出す彼女。僕は立ち止まったまま、

「佐月」

「なーにー」

 振り向いて、向かい合う。

「また」

「うん」

 佐月の笑顔を見送った。


「ただい……」

 鍵が空いていた。家の扉は重々しく開いた。不思議に思ったのは一瞬。靴が二足。革靴。ヒール。

 僕は無言で買い物袋を玄関に置き、閉じたばかりの扉を開けた。

 空は真っ暗だった。


 ぷらぷらと脚を揺らしながら、食べ終えたハンバーガーの包みを折りたたむ。復習を終えた教科書とノートをもう一度開こうかと睨みつける。イヤホンから流れる音楽が途切れ、通知音が耳に響く。

『やっほー』

(佐月だ)

『なに』

『今暇? 宿題教えて!』

 可愛らしい絵柄も一緒に表示される。

『自分でやらなきゃ意味無いよ』

『ちもなみだもないのか!』

『あるけど』

『たまには流せよー』

 どう返そうかと苦しむ。今、心が流していたのはどれだったろうか。


『そだ、土曜暇よね』

『暇じゃない』

『えぇ、用件くらい聞いてよぉ』

「母親のとこに行かなきゃいけないんだよ」

 思わず口から息が漏れる。誰にも聞こえない程度の小さな声で。

 誰かが聞いていないかと周りを盗み見て、誰も僕に興味を示さないことに安堵した。

『ごめん、用事あるから』

『そっか。ごめん』

 それきり、返信しなかった。


「おかえり」

「……ただいま」

 家に帰れば靴は一組だった。

「遅かったな」

「ごはん、友達と食べてきたから」

「そうか」

 父親はテレビから目を離さず、僕はどこを見て良いのか解らない。

 女物の香水の匂いが嫌で、僕は部屋に帰った。


 消毒液の匂いも嫌いだから、ここに来ると毎回気分が落ち込む。

「あら、里中さん。今日もお見舞いですか?」

「はい。花、季節のものに変えないと」

「マメですねぇ。若いのに偉い」

 受付の男性も消毒液の匂いしかしなかった。


 真っ白な扉を開く。機械につながれた母親。

 息苦しい。

「母さん」

 心電図の音。

「今日は花買ってきたよ」

 カーテンの締め切られた窓。

「水変えてくるね」

 真っ白な蛍光灯。

「じゃあ」

 消毒液の匂い。

 息苦しい。


「ねぇ、聞いた?」

「聞いた聞いたー」

「意外、だよねぇ」

 口々に。

「外村さ、里中と仲良かったよね」

「うん」

「なんか、残念だね」

 残念って。

「……うん」

「今度、どっか遊びいこう?」「そうそう、落ち着いてからでいいからさ」「いいねぇ、カラオケとかさ。大声出そうぜ」「カラオケ? いつ?」「馬鹿、すぐじゃない」「ほら、ホームルーム始まるよ」「いこいこ」

「ありがと」

 ありがたいけれど。

 ありがたいのだけれど。

 何となく、里中が悩んで、悩み抜いて、誰にも、わたしにも話せなかった理由が解った気がした。わかりたかっただけかもしれない。けど。とても。

 息苦しい。

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