「お前は、」

 

 薄闇。仄暗い灯り。隙間風。かたかたとなる薄い戸。月の明かりすら届かない。身を捩れば体温を奪って暖まった煎餅布団からはみ出る。爪先が凍えを覚え、再び竦む。小さく、目立たぬよう、見つからぬよう。それはできないと知りながら。

 冷風以外のが障子を開く。肌を刺す夜気。怖気に総毛立つわたし。


 息を殺す。


 



 思わず、古ぼけた人形を胸で掻き抱く。母が作ってくれた唯一の遊び道具。はそれをわたしから取り上げる。恐らく、奪い取る意図は無かったろう。純粋に邪魔だったのだ。わたしを守るものが。わたしとを隔てるものが。だから。


 わたしは殺す。

 わたしを殺す。

 わたしは殺す。


 こうして、

 わたしは、わたしには何も残らない。

 わたしの人生は、奪われるだけ奪われ続け、そしてそのうちに終わるのだろう。


 ぐらりぐらりとわたしは揺れる。

 はわたしに圧しかかり、荒い息を吐きながら腰を振る。

 ゆらゆら、ぐらぐら、ふらふら。


 とても、嫌な、厭な人生だ。

 わたしだって、なにかを所有したい。

 奪われるだけでは納得できない。

 だからといって、わたしにはなにもない。なにもできない。なにものでもない。

 だから、わたしは、そう思っていた。奪われるだけで終わるのだと。

 わたしは、自らの手で行先を決めることなどできないのだと。


 ふと、戸の隙間から空を盗み見る。

 月がとても綺麗だった。

 手を伸ばしても、誇り臭い部屋の隅にすら届かなかった。



 未だ銀雪残る冬景色の中、父親の四十九日が終わった翌日には祝言を挙げていた。恥知らずにも程があろうと揶揄されるのは覚悟の上だったが、それしか生きる術がなかった。

 軒先にぶら下がった垂氷の如き白無垢を着させられたわたしの内心は、それと同じくらい冷え切り、濁っている。


 戦争とはかくも残酷なもので、大黒柱を戦争で失った我が家が生きていくためには、わたしが嫁ぐ他無かった。

 こんなことでも無ければ、他人に身を売るような真似をせずとも生きていけたろうに。

 そんなことを夢想したところで、もはや無駄なのだけれど。


 わたしは腰巾着の如く他人様の顔色を伺って、嫌われぬよう、疎まれぬよう振る舞う。

 心ここに在らずではあるが、悟られぬよう繕うのは得意だった。ずっとそうして生きてきた。ずっとこうして生きていく。


 花嫁衣装に焼香の匂いが付き纏っているような心持ちがする。勿論気のせいなのだけれど。

 気のせいなのだろうけれど、わたしは幼い時分に父親によって無理矢理擦り付けられた男の匂いを、栗の花のような臭気を、折につけ感じた。

 それは決まって周りの男の視線を感じる時であり、わたしの男嫌いを強くするに十分な動機だった。


 仄明るい宴席は漂う酒気とやかましさに満たされ、ふわふわと現実感の無い空間に座っている。

 三三九度の杯は吐き気を催す臭いと、苦くて不味い味ばかり目立つ。

 隣には紋付袴の大男。誓いの一杯をくいと飲み干し、更に酒を飲みはじめた。


 臭い。

 顔をしかめまいと意識する。

 けれど。

 この場が臭い。

 この家が臭い。


「康洋、これはまた別嬪さんをもらったねえ」

 名を呼ばれた大男は赤ら顔を更に朱に染め、かははと嬉しそうに笑う。わたしの夫は浮かれて赤ら顔だ。

 反吐が出る。そう思っても顔には出さない。

 実際には微笑みを作り、己の顔に貼り付ける。


「いやあ、自分には過ぎた嫁さんですよ」

 夫になった男はぬけぬけと宣う。わたしの気持ちを理解するものはどこにもいない。当たり前だ。誰も傷物、中古物の花嫁なんぞもらいたくなかろう。父親も母も、当然わたしも、そんなことは相手方に一言も伝えていない。


 これではまるで詐欺だ。

 値札に対して価値が低い。

 わたし自身がどう思うかではない。世間一般はどう考えるか、だ。わたしの価値を決めるための評決に、わたしは関係ない。わたしはどこにもいない。


 周囲の爺どもは口々に、

「いやいや、所帯持っただけじゃあ一人前とは言えんぞ」

「そうそう、子供の一人二人作って、ようやく一端の男ってもんだ」

「この嫁さんならそんなに待たずに済みそうだな」

 などと口々勝手放題だ。悪臭を吐き散らしながら笑う様は皺だらけで、酒のせいか赤くもなっている。まるで猩猩のようだ。汚らわしい。


 何が、楽しいのだろうか。

 何か、楽しいのだろうな。

 わたしには解らない。解りたくもない。金のために嫁いだ先で子を産まされる、そんな生き物を見て楽しげに酒を飲む男たちのことなんて。


 そんなわたしを肴に、披露宴は続く。


「ちょっとちょっと、止してくださいよ。その、に悪い」

 夫となった男はちらりとこちらを横目で見ながら、酒臭い言葉を吐く。わたしはここぞとばかりに、にこりと笑みを返す。それが役割なのだから。


 この席でやっておくべきは二つ。

 一つは貼り付けた笑顔で愛想を振りまく。鶏に餌をやるように、太らせれば役にも立つ。

 二つめは、酒宴の場にいる人間を一人一人、つぶさに観察する。顔を覚える。名前を覚える。次に会った時、言い当てれば覚えが良くなる。どいつもこいつも似たようなものだけれど。

 とどのつまり、男どもが強い世界なのだから、媚を売っておくに越したことはない。それだけだ。


 酒宴の場で座っているのは皆、戦争に行けない年齢の老人ばかり。飲み食いをして下卑た笑いを浮かべている。

 女たちは料理を運んだり、酒を注いだりと忙しなく動いている。

 子供はいない。もう寝てしまったのか、酒宴には呼ばれなかったのか。


 差し出される杯に、酒を次々と注いでいく。一人一人に貼り付けた微笑みを返す。一つ一つ覚えていく。

 明日からは女達に混じって家の仕事だ。寝床の中でも忙しいだろう。休める場所は、恐らくどこにもない。

 まるで猿山に打ち捨てられた気分。


 ああ、厭だ。


 生きるためにこんな苦しい思いをするのなら、いっそ死んでしまえば良かったのかもしれない。一時の痛みを越えてしまえば、何も残らない。恐らく。きっと。

 けれど。

 そもそも。

 わたしは、生きているのか?

 わたしは、何か、残っているのか?

 わたしは、既に全て奪われてしまったのではないか?


「おう、麟太郎。いいところに来た」

 夫の突然の大声に、わたしは現実に引き戻されてしまう。

 引き戻されるわたしがいる。まだ、ある。


 大きな音は苦手だ。貼りついた表情を崩さぬ苦労をこんなことでするなんて。

 夫とは反りが合うまい。

 けれど。もしかしたら。

 目の前に立った彼は違うかもしれない。


「寝る前に挨拶だけでも、と思いまして」

 開いた障子の向こう側、月を背にした細身の少年。

 吹けば散ってしまいそうな、儚げな風貌。


 酒臭を撒き散らす老人でもなく、でもない。歳は三つか四つ下だろうか。背もわたしより幾分小さかろう。


「康洋兄さん、程々にしておきなよ?」

 眉を下げて困り顔をしながら、ゆるりと正座する彼。手を伸ばせば届く距離。肌の白さと均整の取れた面立ちがよくわかる。


「弟の麟太郎と言います。兄をよろしくお願い致します。お菊さん」

 頭を下げて、再び柔らかな笑み。鈴のような声。


「麟太郎は真面目だなぁ」

「兄さん。もう」

 二人で笑い合う。

 がはは、と大口を開けて下品に笑う夫。

 くすり、と口の端を持ち上げて笑む彼。

 笑い方は対照的だけれど、互いに楽しげだった。

 わたしはと言えば、ああ、だか、うう、だかよくわからない返事を返していた。

 それほどまでに、彼に見惚れていたのだ。


「そうだ、麟。お前も一献どうだ」

 膝を叩き、良いことを思いついたとばかりに夫は大声をだす。

「あのね、兄さん。私はまだ飲める歳じゃないよ」

 呆れ顔で彼は静けさを返す。


「ま、そう堅いこというな。なぁ、注いでやってくれないか」

 わたしは目の前の少年をまじまじと眺めていたため、やや反応が遅れた。

「は、はい。ただいま」



 さ、と盃を持たされた少年。酒を注ぐ間、どうしたものかと悩んでいたようだった。やがて盃に顔を近づけた彼は大袈裟に、

「臭いがちょっと。やっぱり辞めておきます」

 眉をしかめ、これまた大袈裟に仰け反りながら言葉を続ける。


「それと、菊義姉さんはあんまりお酒好きじゃないみたいだから、無理に飲ませちゃ駄目ですよ」

 悪戯っぽく、咎めるように。少し歳の離れた実兄に釘を刺す。


 見透かされた。

 わたしは眉ひとつ動かさず、表情も変えていなかったはずなのに。

 するり、と心に滑り込んで来る。

 彼は、

「お口直しにどうぞ」

 袂から小さな瓶を取り出して、

「金平糖です」

 可愛らしい笑顔とともに、わたしに瓶を手渡した。


 その時だ。

「麟太郎」

 野太く、しかし鋭い声。その音一つでこの場の皆が、一斉に小さくなったかのような錯覚。

 麟太郎と呼ばれたわたしの義弟の後ろに、痩せ細った男がいた。

 声の主。家の主。わたしの義父になる、なった人物。


「父さん」

「親父」

 異口異音、しかして同意を発する兄弟。周りはざわざわと姦しい。現れた男を見ては、旦那様、などと言っている。


 切り裂くような目つきで場を一瞥した禿頭の痩せ男は、今し方現れた細身の少年を見据える。

「夜風は障る。早く寝ろ」

 それと、と言葉を切り、

「羽目を外すのは結構だが、明日の仕事に差し支えんようにしろ」


 ──酔った船頭が漕ぐ船には誰も乗らん──


 にべもなく言い放ち、その男は宴の場を後にした。

 宴席は凍り付いていた。男一人の、か細い声一つで。

 なるほど、と得心する。この家が誰のもので、誰が皆の持ち主なのか。この家を先導し、櫂で向かう先を決めるのは誰なのか。

 そのあと、酒宴の参加者たちは流れるように散り散りになっていった。



 翌日からは実家と同じだ。家事全般が女の仕事。男達は外仕事だ。収穫の季節になればわたしたちも駆り出されるのだろう。


 母と暮らしていた頃と違うのは、わたしの立場だ。独りでなんでもやっていたあの頃との大きな差。大きな家のなかでわたしは新参者で、様々な雑事、面倒を押し付けられ、昼食もろくに取れず終いだ。

 年功序列というやつだろう。


 厭だ厭だ。

 駄々をこねても何も変わりはしないけれど。


 一仕事終えて一息。軒先で腰を落ち着けた思ったら、

「ちょっとあんた、こっち来て」

 である。


 頭ごなしに要領の得ない注文をされるのはもう慣れていた。母もそういう人間だった。父親はもっと酷かった。

 人は気分でしか生きられない。その時の気分、気持ちで物を言う。

 理不尽を言いたい気分を、言える相手にぶつけているのだろう。


 つまりここでも、わたしの心を慮る者は、使用人、義父、義母、みんな合わせてだれもいない。


 夫はといえば、彼はまだ学生だ。家にいる時間の方が短い。

 独りではないが、孤独だった。

 ずっと孤独。


 麟太郎さんに会いたい。

 想っても、思うだけでは、叶わないのだけれど。



 夜半、風の声がきりきりとわたしの頭を痛めつけるなか、夕餉の後片付けを一人で黙々とこなす。

 冷たい水にあかぎれが染みる。

 台所に吹く隙間風に足首を撫でられる。


 かじかむ手指を吐息で温める。空腹に耐えかね、金平糖を取り出す。

 隙を見て口にしていた希望の星は、もうすぐ無くなってしまいそう。


 この金平糖をもらってから一ヶ月。

 つまり、結婚をしてから既に一ヶ月が経過していた。

 夫は早々に寝てしまう。離れで二人、布団こそ並べてはいるが、未だに手すら握られていない。

 一体、なんのつもりなのか。


 まぁ、いいか。

 どうでもいい。

 そんなことよりも、もっと気にすべき大切な事実に目を向ける。


 金平糖が減っていく。

 確実に、一つずつ、わたしと彼の舫が次第に減っていく。

 その現実に抵抗を覚える。だって、これは唯一彼がわたしをわたしとして認めた証拠なのだから。


 瓶だけでも、残しておこう。中身は無くとも構わない。

 口寂しさに一つ、砂糖の塊で舌を甘やかす。

 すぐ、溶けて消えてしまった。


「はぁ」

 溜息。

 独りきりの時にだけ、自分の顔に戻る。

 大きな落胆。望みようのない願望。

 水面に揺れる不安げで、空虚な顔。

 こんなものが美しいのか、馬鹿め。


 わたしの吐息と同時に、戸がからりと鳴いた。

「菊義姉さん」

「麟太郎さん」

 二人して目を丸くする。傍目にはさぞ間の抜けた光景だったろう。


「夜食を少し頂こうと思いまして」

 以前見たときと同じ印象。家で見かけるときと変わらぬ心証。

 儚げ。

 今夜は月を背負っていない代わりに、心地の良い冴えた夜風を連れてきた。

 彼は、たんぽぽの和毛のようにふわりと歩み寄ってくる。


「おにぎりでもお作りしましょうか」

 急いで自分を取り繕う。

 すると、彼は手を振り、

「邪魔になってはいけませんから」

 笑みから真面目な口元にひらりと変じる。


 彼は、少し手伝いますよ、と言ってわたしの横に並ぶ。冷水に手を浸け、食器を洗い始めた。

 わたしは焦る。男に水仕事をさせる女房と噂されては困ってしまう。

「他の方に見られたら、その」

 戸惑い、抵抗を形だけでも試みるが、

「もう皆寝てますよ」

 それをよそに、水仕事を続ける彼。


 正直、見られても良いと思った。

 むしろ見られてしまえ、とさえ。

 このまま彼がずっと横にいてくれれば、凍える寒さも気になるまい。

 わたしの横で、わたしだけを甘やかに触れてほしい。


「……あの、お体は……」

 体裁を保つため問えば、麟太郎さんは困り顔だ。

「私は身体の弱い穀潰しであったほうが、都合が良いのです」

 と波立つ水面を見つめながら言う。

 その貌は、少しだけ寂しげに見えたが、すぐさま真面目な顔に戻り、彼は皿を洗い始めた。


 しばらく、水音だけが跳ねる。

 心地の良い無言。

 まるで夫婦のようだ、と口に出さない分別だけは保った。


「はい、お疲れ様でした。いつもありがとうございます」

 彼は濡れた手で手拭いを渡しながら言う。

「すみません、わたしの台所仕事を手伝わせてしまって」

 頭を下げて、恐縮する。

 彼の白く薄い手を盗み見る。濡れた爪。綺麗な指。骨張った甲。細い腕。


「いえいえ。手が足りなくなったらこっそり声をかけてください」

 にこにこと柔らかな声。

「滅相もない。それに、見つかったら怒鳴られてしまいます」

 顔を上げ、首を振る。知られたら大目玉だろう。

 男に水仕事をさせるなんて、と吠えるに違いない。


 彼は首を横に振り、

「父も、兄も、母も、みんなも、男だから女だからと区別したがる。私には、よくわかりません……」

 未だ波紋広がる水面をじっと見つめる。口を真一文字に結んでいる。


「菊義姉さんも、菊義姉さんでいいんですよ」

 突然ふわりと目元を綻ばせて。

 わたしは、妻の立場を忘れまいと目を逸らし、

「どうぞ」

 手拭い越しに指が触れる。

 そして、わたしの企みは失敗した。


 とても美しい瞳に、わたしの目は吸い込まれてしまった。



 あの忌まわしい赤い紙が届いたのは、それからしばらく経ってからだった。

 喜ぶ者。

 万歳と手を上げはするものの、曖昧な表情を隠せない者。

 諦め顔を隠そうとしない者。

 人それぞれだ。


 わたしは、無理矢理にでも浮かれよう、是が非であろうと喜ぼう、そんな雰囲気をやり過ごし、夜を待つ。

 明るい日差しは肌に痛い。冷たい夜気は心に刺さる。

 夫の不在に辛さを覚えることはないだろう。


 当の夫といえば、離れで一緒に暮らすことになって二ヶ月。未だ、手すら握られていない。

 男の人に触れられたのは彼の一件だけ。


 ああ、厭だ。

 どうして、わたしの横にいるのがこんな夫なのだろう。

 どうしてわたしの欲するものは何一つ手に入らないのだろう。

 あの白い手を引いて、あの夜逃げてしまえばよかったのに。


 後悔で鬱々とした気持ち。枕に沈むわたしは、

「なぁ」

 隣り合った布団の中で、夫に突然声をかけられる。

 覚悟を決める、というよりも、諦めに至る。

 ああ、ついにきたか、と。

 これも男なのだ。男は女の上に乗るものだろう。


「なんでしょう」

 溜息混じりに応じると、

「お前、麟のことどう思う」

 至極真面目な声色が返る。

 何故、今その話題なのだろう。


 出兵前に女を教えてやろうという親心で嫁がされたのだとばかり思っていた。にもかかわらず夫は一度たりとも触れてこようとしなかった。義父も咎めら様子はなかった。

 不可解な男だった。


「麟太郎さんは、その、とても優しい方だと」

 顔が見えないのをいいことに、表情が諦観から喜色に変わっていくことを止めなかった。

 声色にだけ、気をつけて。

 果たしてそれは成功しただろうか。


「そうでなくて。いやそれはそれで合ってるんだけどな」

 困ったような声。太い音。

 他にどう答えろというのか。当人よりもその弟の方が魅力的だと答えて激昂しないわけがない。

 男はそういう生き物だ。


「その、あなたは……なにを?」

 疑問を音にする。

「そうだな。率直に行こう」

 布団の衣擦れ。起き上がったようだ。渋々、わたしも正座の形を作る。


 向かい合った夫は真顔で、意を決したかのように眉間に皺をよせ、口を開く。

「俺が死んだら、いや多分死ぬだろう。死にたくはないんだが。それでも」

 俺が死んだら、麟太郎と一緒になってくれ。夫はそう頭を下げた。


 戸惑う。

 願ってもいないことだけれど。

 それでも戸惑う。


 夫は未だ言葉を続けていた。

「あいつはおれと違って頭がいい。算盤弾かせれば親父にだって負けない。痩せっぽちだが剣も立つ。気性も穏やかだ。良い男だと思うんだが」

 その通りだ。あなたよりよほど良い。

 こんなけむくじゃらの、熊だか人だかわからない男より遥かに。


「でも、わたしはあなたのものです。だから、」

「だから、生きてたら、ちゃんと夫婦になってくれ。

 夫はそう言い頭を深々と下げる。うなじを見せたまま、

「二年。便りが途絶えてから二年待ってくれ。戦争が終わって二年経って、それでもし帰ってこなかったら……」

「……はい。わかりました」

 よく、わかった。わかっていた。ただの確認作業が終わっただけ。

 応えを聞いた夫は顔を上げ、満足げにうなずく。そして、また明日、と布団に帰っていった。


 二年。二年か。

 あぁ、この人、早く死なないかな。



 夫が出兵する時節は桜の咲く季節だった。彼は「行ってくる」と言った。いつか帰る、とは言わなかった。汽車はぼうっと吠え、花弁でてきた薄布の向こう側へと消えていった。


 まるで夢のような光景だった。

 万歳、万歳と周りが口々に叫んでいる。泣いている。

 万歳。万歳。誰か喜んでいるのだろうか。


 それはきっと、わたし一人だけだろう。

 そんなことを、春のふわりと霞んだ世界の中で思った。

 麟太郎さんは、隣にいない。熱を出して床に伏せっている。

 もったいない。こんなに暖かな晴空なのに。桜も咲いているのに。

 花見には絶好の日和なのに。こんな綺麗な春の空を、彼と一緒に見たかったのに。



 夫やその学友を見送る人々を尻目に、独り家へと向かう。

 畦道砂利道にはひらひらと桃色の花びらが舞い、束の間現実から解き放たれる。


 舞い散るひとひらを、手のひらに収める。

 これであなたはわたしのもの。

 すするように笑って、溜息をつく。

 こんなに簡単にいくなら、どれだけいいことか。


 家路につく。

 戸を開く。

 からり。

 拍子に、ふわりとはなびらが手から離れた。


 どこかへ。ひらひらと飛び去って。

 どこへ? どこへでもよかろうに。

 どうせ、必ずここに舞い戻るのだ。



「ただいま戻りました」

 一応、声をかける。無言で帰って無礼だのなんだのと、怒鳴られないように。

 すると、

「おかえりなさい」

 梢枝のそよぐ音のような声。彼だ。

「麟太郎さん。お体は」

 いかがですか、と聞くまでもなく、彼の寂しげな笑顔に出迎えられた。


 寂しげ。わたしには見せたことのなかった、儚げで美しい貌。

 あの男が、そんなに大切だったのか。

 わたしにはわからない。

 まるで獣のような風態のくせに、自分のものには手を出さない、出さなかった男を、そんなにも。


 どうして?


 兄弟姉妹なんてものは、家のため、親のために切り売りするものだろう。

 わたしもそうだ。あの男は家になるはずが、より大きな国というものに切って売られた。

 そういうものだろう。

 仕方ないのだ。

 誰も。彼も。


 彼も?

 彼も。

 きっと。


「そのことなんですが」

 いつになく、真剣な眼差しで。

「はい」

 一瞬、何のことかわからずに返事をした。気を抜きすぎていたのかもしれない。

 見惚れていたのかもしれない。

 いけない。

 夫がいないのだ。あとは外堀さえ埋めればどうとでもなる。だから、慎重にならなければ。


 麟太郎さんは気付いているのかいないのか、そのまま春風の中を歩いていく。

「少し、長くなりますので……お茶を用意しますから。縁側にでも座っていてください」

「いえ、わたしが、」

 慌てて応じるわたしに彼はほろりと微笑む。

「では、二人で準備しましょうか」



 二人、並んで縁側に座る。

 いつかこの人を初めて見た時と同じ場所。けれど今は熱に浮かされたような寒さは無く、ただ春日の温い風がわたしたちを包んでいる。


 このままがいい。ずっと、この場所、この時間にいたい。

 きっと、夫の話を聞くまではそう思ったろう。

 けれど、今のわたしは違う。


 この人に触れたい。

 この人を奪いたい。

 この人だけがわたしをわたしにしてくれるのだから。


「それで、その。お話というのは」

「はい」

 晴空を茫洋と見つめる横顔を盗み見る。鼻が高く、色が薄い。美しい人だ。


「どこも悪くないんです」

「どこも?」

 そういうと彼は、眉間に亀裂を走らせ、己の手のひらに視線を移し、じっと俯いた。


「父は、私が生まれる前から、戦争が近いうちに起こるだろうと考えていたそうです」

「家が途絶えないために、あなたを守ったんですね」

 手のひらを握り込む彼。何も掴んでいない。空だ。今は、まだ。

「では、何故長兄ではなく私だったのでしょう」

 それは。


 それはきっと、あの男が愚かだと、その時既に理解していたからだろう。

 そして、わたしの隣に座る次男はそうではなかった。それどころか、まず間違いなく雄才だろう。

 だから。

 夫は切り捨てられるべくして、切り捨てられた。

 ゆらゆらと、たゆたうように。

 櫂もない。帆もない。そんな舟から舫を外すように。


 当然の帰結だ。

 持てる者は、持たざる者とは違う。

「あなたは、選ばれたのでしょう」

 義弟を慰める。彼の見つめる手に、そっとわたしの手を重ねる。

「夫から、言伝があります。聞いて、くださいますか」


 彼は、わたしの手を握ろうとも、振り払おうともせず、ただただ月のない海のような虚空を瞳に映している。

「それが、康洋兄さんの言葉なら、私は聞いておくべきです。お願いします」


 かかった。まずは一手。

「夫は、自分が死地に赴くと覚悟しておりました。だから、自分が戦争に行くようなことがあれば、あなたとわたしでこの家を継いでほしい、と」

 咄嗟の言葉だが、義父がそもそもこの人を継がせたがっているのだ。そこに何の問題もない。


 あとは、彼が頷くかどうかではない。

 わたしが、彼を奪ってしまえばいい。

 女は、男を篭絡する手段があるのだ。

 彼を奪い、居場所を作る方法がある。


「わたしは、わたしの縁談は……」

 手を強く握りしめ、目を伏せる。

 大抵はこれでどうにかなる。


「存じております。けれど」

 しかし彼は手を握り返しもせず。

「せめて、兄を、少しだけでい。戦争が終わるまで、待ってあげられませんか。そのあとでなら、あなたがこの家を出ても少しの間働かずとも済むよう取り計らいます。だから」


 見事な勘違いだ。人がいいのだろう。

 少しだけ先延ばしになるが仕方ない。

 違和感を持たせてはいけない。彼が、彼がわたしの求めるものなのだから。わたしが初めて何かを手にするのだから。周到に。確実に。

 それにこれは、あの男が言った「二年」よりも短い可能性がある。なら賭けていい。


「違うのです」

 わたしはかぶりを振り、不幸な女を演じる。

「違う?」

 言葉尻に捕らえられる彼。

「わたしは、あなたのことを好いております。初めて見た時からずっと」

 彼の顔に、綺麗な肌に、眉の間に、再び亀裂が入る。


「それは、その」

「お兄様の言葉を、蔑ろにしないでくださいませ」

 一瞬、間を開ける。一息呼吸をし、整え、意を決したように見せる。

「わたしとてこの家に嫁いだ身です。夫に何事もなければそのまま添い遂げましたでしょう。でも」


 でも、と縋りつく。

「夫から許しはいただきました。お義父様とあなたさえ頷いていただければ……側女でもいいのです。ただ、近くにいたいのです。どうか」

 彼は、再び表情を無くす。

 確実に、風向きはわたしに味方しているのだ。あとは、押し切ればいい。強引に奪い取ればいい。


「父と、少し相談してみます。あなたがこの家にいられるように」

 言葉を濁し、彼は立ち上がる。わたしから遠ざかる。

 初手としては、上々だ。



 結果として、布石は奏功した。

 ほどなく戦争も終わった。けれどそんなことはどうでもよかった。

 大事なことは他にある。

 まず、夫が愚かであったことだ。


「それは、偽りない言葉か?」

 はい、と義父に頷くわたし。嘘を信じ込ませるには真実を紛れ込ませるのが一番だ。夫の「二年待ってくれ」という言葉だけを抜き、目の前の禿頭に告げる。

「そうかそうか。麟太郎からの話とも辻褄が合うな」

 くつくつと笑う義父。麟太郎の、ということはつまり、夫は誰にも、わたし以外の誰にもあの話をしていないのだ。

 馬鹿め。心のうちでなじる。蔑む。

「宴席を設けてもいいが……先にさっさと子を作れ」

 義父は体面をあまり重んじる人間ではない。身さえあればいい。そういう、少し変わった人だった。


「まずは中身を作ってしまえばいい。外側など、どうとでもなる。骨こそが最も重要な部品だ。解るか?」

 人差し指を立て、独り言のように呟く男に、

「はい。では、その、麟太郎さんとは」

 応じる。これは。この人は、おそらく。


「正式な祝言は康洋が死んでからでもよかろう。あー、四十九日は待たねばな。今日から数えでいいか。まぁ、いいか。よかろう」

 まったく、と吐き捨てる、皺だらけの家主。

「浮世は面倒が多い……が、お前のような同類とも稀に会える。これが楽しい。解るか、小娘」

 はい、と二人でほくそ笑む。

 結局、この男は次の船頭がよりまともなものであればいい。

 畢竟、わたしはあの人さえ手に入れられればなんでもいい。


「さて、今は商機だ。忙しくなる。用件は済んだか?」

「はい」

「では、跡取り作りに励めよ。麟太郎には話を通しておく」

 立ち上がった禿頭の男は、上背があるわけではない。喋っているときの威圧感は声の低さゆえか。それとも。

「それと、麟太郎は奥手だろうからな。褥を共にするならお前から言い出すといい」

 それだけ言って、去っていった。



 それから、わたしの新婚生活は真に始まった。

 家の離れで二人。

 勿論、互いに仕事がある。世間はひっくり返って、大わらわだ。すべきことを探せばいくらでもあった。


 忙しいだけこの家は良かったのだろう。貧しい者、病める者、餓える者。持たざる者。

 舟から突き落とされ、あえぎ、もがき、息をするのもやっとのような、市井の人々を尻目に、義父とわたしの夫は順調に富を蓄えていった。


 そう。夫だ。


 あの毛むくじゃらが戦争に行ってから、二度目の冬がやってきた。

 冷える夜は過去を思い起こさせる。月は見えない。雲に隠れている。そっと窓を閉める。同時に、

「菊義姉さん?」

 かたりと戸が開き、夫が離れに帰ってきた。


「ねえさんはやめてください、もう一緒になった仲じゃありませんか」

 すみません、と謝る彼の白い肌は、とても綺麗で。

「でも、癖はなかなか抜けなくて」

 にこりと微笑みを返す。

「良いんですよ。ゆっくり、馴れてください」

「はい、すみません……それと、その、布団は……」


 彼が戸惑うのも当然だ。離れはさして広くはないといえ、二人ぶんの布団を敷くには十分なだけの間がある。

 でも、それでもわたしは一つしか布団を広げていない。


「今日は格別冷えますから、その。お体を冷やしては明日に差し障ると思いまして」

 ふわりと掛け布団を捲り、

「馴れていただくには、これが一番かと……」

 誘うわたしを他所に、彼はその場で立ち竦む。

「兄は、許してくれるでしょうか……」

 そんな言葉をぽつりと漏らして、わたしたちの穏やかな水面に波紋を作ろうとする。


「私は、穏やかであればそれでよかったのです。兄と、父と、あなたと、皆と」

「でも」

 でも。

「でもそれは、全て泡のようにはじけてしまいました」

 あなたは言葉を区切り、複雑な表情を作って。


「そう考える、考えられる私はきっと傲慢で、それでいて恵まれているのでしょう。事実、私の家は、ここはとても裕福だ」

 周りには、餓えて死ぬ人までいるのに、こんなにも。

 そういって、彼は座り込んだ。


 遠くを見ているのか。

 何も見ていないのか。

 その瞳は虚を写して。

 その唇は火蓋を切る。

「私は弱いから、兄の後を追うこともできない。私は弱いから友と並んで咲くこともできない。私は弱いから、ただぼうっとここで生きている。私は弱くあれと命じられ、そして事実私は弱いから、今ここにいるんです」


 ああ、この人は、

「あなたは──」

 ──ただ、繋がれてここにいるのですね──

 春の霞みがかった月のような横顔。そこにあなたは、消え入りそうな笑みを浮かべて、

「すみません、夜半にこんな愚痴を聞かせてしまって。もう、寝ましょう」

 そう言って、夫はわたしのとなりに布団を敷き、そそくさと寝入った。



 つごもりも近くなった頃だ。

 わたしは朝からの用事を終え、畦道をゆっくりと歩いて、家に向かっている。

 わたしの居場所。の待つ場所。ようやく手に入れた場所。

 そこへ向かう足取りは軽く、知らず知らずにゆらゆらと早足になる。

 口から洩れる白い吐息も心なしか弾んでいる。そんな気がする。


 ようやくわたしはわたしのものを手に入れて、わたしはわたしの人生が始まったのだ。

 彼を篭絡するのはもっとじっくりでいい。ゆっくり、距離を縮めればいい。この前は焦りすぎた。奥手なだけでなく、罪悪感を抱えているのだから、一気呵成に突き進んでは逆効果だろう。

 潮目を読むんだ。彼の気持ちが、舵が切られる瞬間を。


 その時を待ちわびるわたしは、しかし

「……」

 息をのむ羽目になった。

 わたしと、もう一人。それ以外誰もいない畦道で。

 じっとりと手が湿る感覚。

 

 

 あのは。

 目が見えないのか、杖を突きつつゆっくりと覚束ない足取りで歩いてはいるが、あの後ろ姿は。


 まさか、と思う。

 しかし、とも思う。

 考える。考えろ。


 周りを見渡す。

 誰もいない。

 街中までは少し遠い。

 田畑こそあれどこの時期に田畑をいじるものもいない。


 ならば。

 それならば。

 わたしはわたしのために。


「康洋さん……?」

 声を。

 粘膜の張り付いたような喉から、音を絞り出す。

 男は、きょろきょろと周りを見回す。


「菊? 菊か!?」

 よろりと転びかける男を、いやいやながらも抱えて支える。

 重い。

 臭い。

 まるで錨のようにわたしに巻き付いたそれは、普段ならとてもではないが耐えられるものではない。


 だが。

 今、耐えれば。

 今さえ凌いでしまえば。


「はい、菊です」

「よかった……本当によかった……帰ってこれないかと思った……よかった」

 男はぼろぼろと泣き出して、見苦しいことこの上ない。わたしは手を放したがる本能を理性で抑えつけた。


「あなた」

 ひとしきり泣き喚いた大男が落ち着くのを見計らって、切り出す。

 最後の手。

 帰ってきてしまった男を、再び切り離すための手を。


 わたしは、この男の舫なんかじゃない。

 わたしは、わたしだ。


「すまない……なんだ、菊」

 あらぬ方を向いて喋る男に向かって。

「実は、家が焼けてしまって」

 できるだけ声を落として喋る。誰かに見つかる前に、早くここからこれを連れ去りたい。しかし、焦っては元も子もない。

「そう……か。それは世話をかけたな……」

「それで、今は少し高いところに家を移したんです」


 勿論、嘘だ。

 嘘ばかりだ。

 でも、仕方ないだろう。

 誰かの幸せのために、誰かが犠牲になるのは当然のことで、ようやく

 わたしが浮き上がる番が来た。それだけの話なんだ。


「麟や、親父は、みんなは無事なのか!?」

 がばりと立ち上がり、そして勝手に転ぶ男。手を引いて起こす。

「はい、幸いなことに……案内しますから、行きましょう」

「あぁ、ああ! 行こう。帰ろう……頼む」


 それからわたしは男の手を引いて山道を歩く。

 さわさわと木々が葉擦れを奏でる。

 橘の木が独特の香りを放っている。


「坂道に入りますから、足元に気を付けてください」

 告げると、

「お、おう」

 と杖を左右にゆらゆらゆらす。

 坂はもう少し先だ。

「大丈夫ですよ、わたしがきちんと先導しますから」

「す、すまん。馴れないもんでな……」


 わたしは笑みをこらえきれずにいた。

 誰もいない。誰にも見られていない。そしてこの男は、運がいいことに、本当に目が見えていない。

 それなら、十分だ。


 逸る気持ちを抑えて、上へ、上へ。

 がさがさと木々の間を縫い、枝葉を突き抜けて獣道を登っていく。


「ずいぶん不便なところに住んでいるんだな」

 互いに息が上がっている。

 さらさらと水の音がする。

「もう少し、もう少しですよ」

「そうか……懐かしいな」


「懐かしい、ですか?」

 疑問を口にするわたしに、大男は、

「このあたりに沢があるだろう。音がする。昔よく遊んだもんだ」

 丸石をどれだけ水の上で跳ねさせられるか、なんて遊びをよくしたもんだ、と。

「しかし、あの辺に家の建てられるような場所なんてあったか?」


 頃合いか。

「ねぇ、あなた」

「うん? そろそろ行くか。水の音より皆の声が聞きたい」

 いいえ。あなたが最後に聞くのは。


 わたしは男に体当たりした。

 思い切り。

 勢いをつけて。

 男を突き落とした。


 落としたはずだったのに。

 男は木に片手でしがみついた。

 崖際に生える、頼りなげな一本の木に。


「菊!? 菊、大丈夫か!? 何があった!? 菊!!」

 うるさい。

「うるさい」

「き、菊!?」

 戸惑う男。悲鳴とも怒号ともつかない声。うるさい。


「うるさい!」

 わたしは足元にあった石を持ち上げ、男の指にたたきつける。

「うるさい!」

「やめ、菊!? 本当に菊なのか!? お前は誰だ!?」

「うるさい!!」

 たたきつける。

「わたしがわたしを、奪われるわけにはいかないんだ!」


「お前は、何を言って」

 たたきつける。

 たたきつける。

「ようやく手に入るんだ、ようやく、待ったのに、ずっと待ってたんだ、なのに!」

 たたきつける。たたきつける。たたきつける。


「やめ、やめてくれ! 誰か、誰かいないのか! 助けて、死にたくない……!」

 たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。たたきつける。


「おまえみたいなやつの居場所なんて、もうあの家にはないんだよ!」

 解ったら、早く、死ね。

 たたきつける。

 たたきつけようとして、指がないことに気付く。


 がらり、と手から石が落ちる。

 大男は、とっくに崖から落ちていた。

 沢の横、石でできた道に赤い花。その上にわたしの殺した男。


 荒い息と、水の音だけが聞こえる。


 これで、ようやくわたしは、わたしを始められる。

 わたしは、ようやくわたしのものになる。

 そう思うと、わたしの顔から思わず笑みが溢れた。



「つれましたね」



 わたしの笑い声だけが、この森に響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

むすばずの街 くろかわ @krkw

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る