椅子

 その椅子に座っても、きぃ、と軋んで少し揺れるだけで、あまり他の椅子と代わり映えしなかった。けれど、自分の部屋を持たなかったから、家に帰るよりはまだ良いと思えた。

 どこにいても独りになれないのだから、ここで誰かと誰かが一緒にいる姿を遠巻きに視界の端に入れる。そうすることで自分は独りになれている。そう思うことにした。

 その椅子の座席は木の板でできていて、たくさんの人が座った痕が残っている。塗装が剥がれて、板もほんの少し削れて、治りかけの擦り傷に何度となくやすりがけをされたその椅子はしかし、直される様子もない。手摺と言って良いのか、板を空中に縫い止めている銀色の輪がある。それは全て同じ形をしていて、長さも他の輪と変わりない。きっと重さも同じだ。全部まるきり同じ、死んだ金属の蝶が板を吊るし上げている。ぼくそこに座って、じっと周りを見渡している。

 ぶらんこ。そう呼ばれる遊具の上が、ぼくの唯一の居場所だ。


 握った金属の輪。白い手。灰色の砂。遠くの砂場に何人かの子供。極彩色の滑り台が幾つか重なったような遊び場で鬼ごっこのようなことをしている同級生達。休みの日だというのに生憎の曇り空で、世界は部屋の天井より少しだけ高い位置に鈍色の蓋をされている。道路を挟んで小さくなった家々の屋根は元々の整列さを欠き、どんよりとした病人の顔にも見える。鍋底から周りを見渡せばちょうどこんな気分だろうか。世界は全て灰色で、灰色ではない箇所も灰色だった。

 否、灰色になった。

 前はもっと彩りの絵の具が塗られていたはずだ。全ての塗装ががりがりと削られ、鈍い白と黒の中間になってしまったのはいつからだったろう。

 それは恐らく犬が殺された時からだ。きっとそう。


 父と母は日頃から折り合いが良くなかった。姉は敏感な感性の持ち主らしく、両親に仲違いの気配を読むと、素早く身を隠した。逃げ場は自室。ぼくと相部屋になる予定だったその閉鎖空間は、姉独りの恐怖を閉じ込めておくのに精一杯。結果的にぼくは険悪で獣臭の満ちた居間の端にぽつねんとするしかなかった。居間に限らず部屋は狭かったが、寄り添う者は誰一人いなかったので、結果的にはとても広かった。

 犬はとにかく頭の悪い個体だった。種類のせいか大きさのせいか判らないが、何も覚えない。客どころか帰宅してきたぼくらにも吠える有様で、日増しに強くなる父の苛立ちは、母と唯二共感できる感情だったろう。

 その靴の中の小石に向けるが如き憎悪は嵩を増し、層を成し、そんな折に事故が起きた。

 レンタカーを使って四人で久しぶりに出掛けよう、と言い出したのは母。夫婦仲は冷え切っており、それでも子供二人のために家族という輪の連なりを維持しなければならない。そんな大人の涙ぐましい義務感からだろう。父は喜び勇んで賛同した。

 厭にはしゃぐ両親。姉は死んだ魚の瞳でにたりと口の端だけを持ち上げた。ぼくは蛍光灯が白白と光る中、カーペットの模様を見ながら頷いた。犬は会話の間中ずっと甲高い音を発していた。

 翌日、レンタカーを家の前にまで運転してきた父の目の前に、愚かな犬の挽肉が出来上がった。見慣れない大きな物に反応して、番犬の如き勇ましさを蛮勇と知らずに発揮したのだろうか。

 それを見た母親の変貌ぶりはなかなか笑えるもので、まるで吐瀉物と挽肉をミキサーにかけた残骸が蘇って人間の言葉を吠え立てているかのようだった。対する父も、初めは平謝りするだけだったものの、次第に怒りが膨れ上がり、顔だけでなく全身を紅潮させてがなり立てるようになった。

 犬は死んだのに犬が増えた。姉は暫く部屋から出てこなかった。ぼくは昼飯の心配をしたが、案の定その日は空腹で過ごす羽目になった。

 家の中は数日間の浮き足立った雰囲気がひび割れ、元通りに灰色に戻った。犬も居なくなって、ぼくは一時の平穏を手に入れた。それでも獣臭さはなかなか落ちなかった。誰も掃除をしないから、ぼくは窓を開けて少しでも世界を覆う鈍い灰色を家の中に引き込もうとした。街の灯りは暖かそうに見えたのに、風が冷たいだけだった。

 ぼくはその平和が偽りだと忘れていたかったが、犬が二匹に増えた事実は変えようが無かった。

 二匹は姉をどちらが引き取るかで揉めていたらしく、しきりに当たりくじであるぼくとの交友関係を深めようとした。今更だ。けれどぼくは一人で生きていけるほど歳を重ねていないから、どちらの収入がより大きいのか観察を始めた。

 その矢先、またうんざりさせられる事件が起きた。

 春先になって進級が近くなり、ぼくは姉から教科書を借りるため、数ヶ月ぶりに階段を登った。中ほどまで差し掛かったところで異臭に気付き、このまま引き返そうかと悩んだ。結局、この獣臭さが居間にまで到達したら食事どころではないだろうと判断した。

 姉の死体は死んだ犬に見えた。天井から吊り下がって、眼窩の中身が排泄物の上にぼろりと溢れていた。まだ花咲く季節でもないのに虫がたかって、寝具や畳は変えなければならなそうだった。

 その姿を見た犬二匹は衝撃を受けたらしく、滑稽なほどに狼狽していた。どちらも相手がそれとなく世話をしていると思っていたのだろう。犬の世話もしなかった二匹が、そんなことをできるわけがなかった。

 問題はこの後だ。二匹がぼくを見る目が変わった。当たり前だ。くじが一本になったのだから。僕は外れくじになった。


 だから、と座ったままの姿勢で言葉を継ぐ。空は遂に雨粒の重みに耐えきれず決壊を始めた。輪になった金属に水が滴る。この手を濡らし、更には椅子にまで浸蝕を始めた。この椅子まで奪われてしまう。何もできずに、ただ泥水に浮かんだ顔のような模様に話しかけている。次第次第に重みを増すズボンに体を取られ、立ち上がる気分にすらならない。椅子は完全に水のものになり、もうぼくの居場所はどこにもない。

 泥水がにちゃりと笑った。その口の中に、ぼくの居場所がある気がした。

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