階段

 とつとつと堅いカーペットを踏みしめながら階段を降りる。何段かに一度、左回りに曲がり角。まるでぎこちない螺旋階段。左側にある落下防止の柵も、右側の壁も、元は真っ白だったろうに、くすんで汚れて見る影もない。時間のなせる風化劣化の業か。それとも元々こういう色味で風情を出したつもりか。


 ここは何か、という問いにはどうしても回答が出なかった。気付いたらここにいたのだ。

 何故降りているのか、という理由には簡単に答えることができる。最上階の踊り場で気がついたからだ。

 そして、窓。稀にある窓だ。


 その外側、遥か下に見える真っ黒な地面に向かって、とつとつと歩いている。下っている。降りている。

 だが。

 いつまで経ってもそこが近づいている様子が無い。


 窓からひょいと飛び出し、一気に下まで落ちてしまえば良い、という高さでもない。下手をすればそのまま叩きつけられて死ぬだろう。学生時代、部活で習った受け身もこれでは役に立つまい。

 人間、僅か一メートルの高さから落ちて死ぬ場合もあるのだ。そんなリスクは犯せない。


 そんなわけで、独り言をぶつぶつ呟きながらこうして降りている。

 暇なのだ。ただ階段をぐるぐると歩くだけ。

 疲れたら座り込む。腰を下ろせば眠くなり、気がつくと寝ていた自分を自覚して起きる。

 そしてまた、歩き出す。


 無限地獄というのはこういうものかと苦笑しながら、いつか辿り着くはずの底を目指して、今もとつとつと歩く。

 降りる。

 下る。



「こんにちは」

 眠っていた私は、突如声を掛けられ、びくりと目を覚ます。

 知らない顔だ。

 そして何よりも、ここに来て初めて人に会う。


「こ、こんにちは」

 枯れたはずの喉で応じる。何も飲んでいない割には普段どおりの音が出た。

 そうだ、人がいる。なら、出入り口があるということじゃないか。


 がばりと起き上がって、その人に詰め寄る。

「ここは、あとどれくらい降りれば底に付くんですか? あなたは下からやってきたんでしょう? どれだけ下ればいいんです? 助けてください、もうずっとこうして歩き続けているんだ」


 男は詰め寄る私に視線を合わせること無く──何か布のようなもので顔を覆っているから、実際には目の動きどころか唇の動きすら見て取れなかったが──こう応えた。

「数えて見ましょう」

 応えた。


 答えた、というよりも、私の言葉に反応して出力された、そんな印象を受ける。

「数える? あんた何を言っているんだ?」

 よくよく見れば服装もおかしい。まるで映画かドラマに出てくる陰陽師みたいな格好で、確か水干服とか言ったか。それに顔には布。

 どう見ても、釣り人だ。


「まだ、半ばと行ったところでしょう」

 数えると言った口で半ば、である。これも意味が解らない。つまり、

「半端だってことか? そんなことより、どうやったら一番下に、いや外に出られるんだ? 頼む、教えてくれ……外から来たんだろう?」


 そうであってほしいという願望半分で男に詰め寄る。踊り場は小さく、もう一歩近づけば互いの額がぶつかるだろう。

 私はそれほど焦って、憔悴している。自覚はあった。

 外に、出なければならない。

 こんなところで、無為にぐるぐると回り続けているわけにはいかない。


「ふむ」

 対して、冷淡そのものの釣り人。私の入力が少し予想外だったのか、息をついた……ように見える。

 これが呼吸をする人間だ、と言われても信じられない。何も考えていない、何にも心を動かされていない、ただの機械に見える。そんな印象をこの釣り人に抱いている。

 それでも反応があり、手がかりはこの釣り人だけ。


 私は待つ。それは恐らく一瞬にも満たない時間だったろうが、酷く疲れ切っている私にとってとてもとても長い時間に感じた。


「どうして底があると?」

「……は?」

 返ってきたのは、異常な反応だった。


「底があると、何故思ったのです? 数えもしないのに」

「何をかは知らんが、数えていたら底につくわけがないだろう! これは建物なんだから、外に地面があるんだから、そこに建っているに決まっている!」

 思わず激昂した。


「だいたい、上は何もない! 一番上から降りてきたんだぞ!? なら下があるのが道理だろうが!」

 声を荒げるが、相手は再び首を傾げ、入力された怒りに平静に反応した。

「ふむ。下はあります。確かに。底は、数えてみればいいでしょう。数えましょうか」


 意味不明だった。下があるなら、当然底もあるはずで、数えるとは一体何を数えるんだ? 階段の数? 踊り場? それとも窓?

 窓?

 窓だ。そう、窓。


 正確には、窓の外。

 踊り場ごとに設えられた窓からの風景。


「どけっ!」

 釣り人を押し退けて外を見る。

 青空。どこまでも伸びる青。そしてちょうど視界の下半分は海。太陽は見つからない。星もない。影もない。あるのは、蒼穹と深淵だけ。

「ここは、どこだ……?」


「底は見えましたか?」

「お前、どこから入ってきたんだ!? 別の窓もこうだった、全部そうだ! 何か違いがあるかと期待して、見て回って、ぐるぐるぐるぐる歩き回って、どこもそうだ! ここは一体なんなんだ!? もう嫌だ! もうたくさんだ! どうして私が、私だけがこんな目に会うんだ! 私が何をしたっていうんだ! 歩きたくない! 何もしたくない! どうせ歩いたところで何も変わらない! だったら、だったら……?」


 混乱する私を他所に釣り人はぽつりと応える。

 私に、ではない。なにか別の入力があったのだろう。その私には解らない入力に対し、ぽつりと応えた。

「釣りましょう」


「釣り……?」

 私の疑問に何一つ答えることなく、釣り人はすたすたと階段を下っていく。降りていく。

「おい待て!」

 焦って私は脚をもつれさせながら走りだし、そして──


「扉……?」

 階段の半ばにある扉へと辿り着いた。

「釣れましたね」


 釣り人の言葉は最後まで意味不明だったが、私はこうしてこの塔から抜け出せるのだ、という安堵の前にはすべてがどうでもよかった。



 ──私の物語はここで終わりだ。




「困るんですよねぇ」

 小さな棺桶の中には死体が一つ。カプセルホテルの一室はまさに棺桶で、そこに立ち入って調べるとなればフロアのかなりの量を営業停止にしなければならない。

「困るったってねぇ。そんな薄情な」

 困り顔を突き合わせる警官と管理人。


「いやね、仏さん……あぁこの場合は……」

「わかりますよ、自殺した人でしょ」

「そうです。その人だって追い詰められてたんでしょう」

 やれやれと言わんばかりに管理人は肩をすくめ、

「わざわざウチで死ななくても。もっと色々あるでしょ。樹海とか。こんだけ睡眠薬買い込む金があるなら、バス代にでもして」


「そりゃあ、ごもっともですが……」

「質問、まだあります?」

「いえ、ご協力感謝します」



 カプセルホテルの外では、夜だというのにカラスが一羽、あぁ、と鳴いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る