窓の外

 カンカンカンカンカンカンカンカン。

 夜陰に紛れ込む。呻くように息を吐く。赤いランプが明滅する様を連想する。黄色と黒の境界線が目の前に降りてくる気がする。遠吠えのようなけたたましい音が耳に残る。うずくまるように背を丸めて、闇に溶けるためにフードを被る。外界との断絶を示したいからヘッドホンを着ける。

 音楽は流していない。

 美しいものなどない。

 光りはあの日消えた。

 ミチルと一緒に全て。


 リハビリは順調だった。安全のために杖を持ってはいるものの、実際にはほとんど体重を預けずに歩いている。今ではもう、健康維持の名目で夜ふらふらと出歩ける体だ。元々致命的な病巣は一つだけで、それを切除してしまえば健康そのものなのだから。

 病巣。

 皆が皆、口を揃えてそう評する、僕の大切な人。

 病。

 僕は確かに病んでいた。

 僕らは確かに病んでいた。

 だが。だけれど。そうなのだけれど。


 カンカンカンカンカンカンカンカン。


 音がする。そろそろ帰ろうか。また口煩くあれこれと言われるのは、無力さ、気まずさ、後ろめたさに苛まれる今の僕には辛い。

 沿線沿いを歩けばいつか駅にも着くだろう。

 音が耳に響く。

 それでも夜を歩いていたい。白日の下に晒されるのは嫌だ。遠目には街の灯りがある。あんな所で自分の醜い姿を認識していたくない。孤独で茫漠で冷たく温かい闇に、暗がりの中に居たい。

 誰も、僕と共に居てくれる人はいない。もういない。

 カンカンカンカンカンカンカンカン。

 一際風が強く吹く。春を感じさせる。布で出来た偽物の生皮がびちゃりと剥がれる。夜が体に纏わりつく。

 暗がりは思っていたほど生暖かく無い。春宵に酔うこともできない。背中が寒い。疵痕は痛くもなんとも無い。

 ──カンカンカンカンカンカンカンカン──

「こんばんは」

 声。女。

 向かい風に瞑った目を開く。黒と黄色の境界線が開いていく。認識によって世界は広がっていく。僕だけの世界に外界が発生する。踏切の赤が明滅する。

 点いて。

 消える。

 点いて。

 消える。

 少女が。

 目前に。

 点いて。

「こ、んばんは」

 女だと思った。実物は、自分より小さい女の子だ。真っ黒で、和服のようなファッションに身を包んでいる。肌には黒い、布?

「良い夜ですよね」

「思ったより寒い」

「お一人ですか?」

「今は、もう一人」

「彼女から、伝言です」

「……聞かせて欲しい」

 異常な会話。ごく自然に、異様な対話。すれ違っている。意思疎通が成立している。

「『ひとりはだめだよ』」

「それだけ?」

「それだけ」

 額を抑える。闇の中に存在しないはずの天井を思い出す。耳を塞げない。壁は無い。僕らの、僕らだけの世界は僕らでは維持できない。だから、

「僕は、ひとりだったことはないよ」

「ひとりに、なりたい?」

 小首を傾げる彼女へ、首を横に振る。

「ひとりにはなれない。僕は、自分で決める」

 彼女はにっこりと笑う。髪に隠れたもう半分の表情は判らない。それでも彼女は笑みを浮かべた。

 カンカンカンカンカンカンカンカン。

 遮断機がゆっくりと降りる。拒絶ではなく断絶。まだ、まだまだ遠い。遠くなければならない。遠くに行く。行こう。

 ──カンカンカンカンカンカンカンカン──

 遮断機の向こう、踏切の中を凄まじい速度で電車が走って行った。

 カンカンカンカンカンカンカンカン。

 道が開く。帰ろう。もう今日は遅い。

 春の月は薄雲の彼方で綺麗に揺蕩っている。

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