山道
ぶぅーん。
この道を通ると聞こえてくる音。
ぶぅーん。
判らない。判らないが、必ず聞こえる、何かが震える音。
ぶぅーん。
繰り返し、繰り返し。何度も何度も。
ぶぅーん。
出入りする度に強くなる。耳に纏わりつく。体を縛り付ける。
ぶぅーん。
否応は無く。次第にそれになる。
毎年この季節には墓参りへと向かう。結婚してから実家とは疎遠になってしまい、専ら妻の家の墓参りばかり。妻の父方はもっと南に住んでおり、田舎に帰ると言えば父方を指す。だが、毎年墓参するのは住所の近い母方だ。
曰く、無縁仏に近い状態なのだとか。
妻しか子が残っていないらしい。
だが。私にとっては縁も所縁も薄い。
他人である。
他人ではないのだけれど。
顔も、人となりも、何もかも知らぬ人々。
他人と言って差し支えなかろう。
不思議なものだ。奇縁、とでも言うべきだろうか。見ず知らずの人間の骨が埋まる場所に、毎年同じ時期に行く。行って特別何かをするわけでもない。精々、周りの草を毟って墓石の苔を束子で落とす。その程度だ。
誰が喜ぶのだろうか。この墓参りは。
路を一人歩く。平日の真昼間である。他には誰も居ない。ただ、葉擦れが囁く。そして、
ぶぅーん。
砂利を踏む足音が聞こえるだけ。
並木を見渡せば、桜の深い緑が茂る。あと三週間もすれば花満開、見応えのある薄赤色が咲き誇るのだろうが、何の因果か蕾も付かない季節にしか来ない。
花を見に来ればいいのだろうが、それは何やら気恥ずかしい。
(花、だなんて)
柄にもない。柄だなんて、そんな事を気にする人間だったろうか。
深緑の向こうにあるはずの公道は、木々に阻まれ見る事すら敵わない。どこか遠くから微かに車の音が聞こえるだけ。
ぶぅーん。
まるで、本のページのように。桜並木と外の道は他の頁であるかのように、大きな隔たりを感じてしまう。靴の裏に感じるざりざりとした感触は果たして小粒な石や砂を踏みしめるものか、それとも古い紙を撫でる手触りか。
勿論、気の所為だ。
世の中は地続きで、空間は繋がっていて、地球は丸い。本では無い。紙でも無い。空間という間隙が間断なく敷き詰められている。
前後には因果関係があり、左右には相関性があり、上下には相互影響がある。
然う。断絶は無い。
益体も無い。頭を振る。四十にもなって何を馬鹿な事を。不惑とは程遠い。孔子にはなれそうもない。
むしろ、何者にも成れまい。
結婚して、子供を育てて、妻に看取られる。十分な贅沢ではないか。それが幸福というものだろう。
いや、妻を遺すのは気が引ける。出来るだけ元気に長生きして、妻の死に顔に悲嘆したい。そうして空虚の一部になったら、後は子供たちに迷惑を掛けない内に死ぬ。これが、恐らく一番の幸福だ。これでいい。
これがいい。
ふと。
迷う。迷った。迷っている。
足が止まる。
ここは。
ぶぅーん。
どこだったか。
四辻の真ん中でぼうっと立ち竦む。足元には花、花、花、花弁が。
桜だ。咲いていない桜が散っている。地面を埋め尽くすピンク色の襞。
向こうに墓地が見える。そうだ。墓参りだ。桶も束子も柄杓もある。洗えば、苔を流せば、頭の中の靄を落とせば、奇縁の意味が解るのだろうか。
其処には、底には、何が在るのか。
骨、しか無かろう。
死体の成れの果て。
ぶぅーん。
よし、行こう。
その為に来たのだ。
石の傍には先客が居る。
女だろう。髪が長く、
「こんにちは」
「こんにちは」
会釈に会釈を返す。無表情な女の目が一斉にこちらを射抜く。手には花。束子は持っていない。桶も柄杓もない。働かない。
「あの、あなたも」
我が家の石の前に立つ彼女に声を掛ける。
「えぇ、この家の者で御座いますよ」
「そうでしたか。初めまして、ですよね?」
自信がない。この顔を忘れる訳がない。こんな顔は忘れられない。しかし、自信がない。
「いえいえ、あぁ、でも」
仕方ありませんね。
がぱりと顎を開く女。尖った先端がぎらつく。
笑った。笑いかけた。恐らく。表情は無い。目は全てこちらを見つめている。
屈みこんで、顔を上げずに石を擦る。束子でがりがりと、苔を落とす。働く。
ぎちぎちと、女は笑顔で見つめている。
小一時間も作業したろうか。一度も顔を上げずに一心不乱に掃除を終えて、一息。
「有難う御座います」
そう言って、女は献花を受け取る。自然に。当然のように。当たり前のように。むしゃりとそれを開いた顎の中に入れた。
「美味しゅう御座いますね」
満足気に頷くと、ぶるぶると震え出した。痙攣を始めたそれは、膨らんだ胎の内からびちゃりと一匹の幼虫を産み落とし、掌に乗せ差し出す。
「来年も宜しくお願い致しますね、貴方」
その虫の顔は、そこに生えている顔は、
ぶぅーん。
エンジン音で目を覚ました。
「次はー××、××です」
降りる駅だ。
バスの座席でうとうとと眠ってしまったらしい。墓参りの帰りはいつもこうだ。山道を登るとどうしても疲れてしまう。
停止ボタンを押し、日の当たる座席でゆっくりと停車を待つ。
のどかな日差しが心地よい。春が近いのだろう。
止まったバスのタラップから降り、陽気の中へと歩き出す。
ぶぅーん。
バスを背中で見送り、一人家路に着く。
帰れば、妻が家で待っているだろう。
ぶぅーん。
翅音が聞こえる気がした。
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