高架下
たたん、たたん。
規則的に音が響く。毎日同じ音が鳴る。変わらず走るものの音。
その陰の、下に入ればひんやりとした異界がある。
高架の下は、日向の世界と少し差がある。入道雲と一緒に消えた夏の残り香も、秋の溌剌とした日向も、陰に入れば冷たい空気に上書きされる。
たたん、たたん。
同じ音。違う電車。違う人々。見分けのつかない外側。見分けようとも思わない内側。顔が判るのは自分と同じ車両に乗る人だけ。そのなかでも近くにいる人だけ。明日も顔を覚えているのは、きっと一人もいない。
学生服を来てこなくて正解だった。この真っ昼間にわたしみたいなのが制服姿で外をほっつき歩いていたら、すぐさま補導されてしまうだろう。それくらいの秋晴れ。
のっぺらぼうばかりの電車が嫌になったわけじゃない。その先だ。あの白くて無機質な建物が嫌になった。他人が他人を無遠慮に傷つける、それを無かったことにして無視する、あの空間が嫌になった。
皆が皆、のっぺらぼうならああはならない。
顔がある。視線がある。個がある。人である。
友達がいないわけじゃない。けれど、雨の日の一件があってから、なんとなく顔を合わせる機会が無かった。
無かった?
違う。
違うのだけれど。
脚をとめて、大きく呼吸。帽子を目深に被る。行き違う人と視線を合わさぬように。
誰の視線も刺さらない。当たり前だ。私の視線はどこにも向かない。なら誰かの視線はこちらにも向かわない。
歩く。再び歩を進める。
目的地まで、のんびりと。
陰に入る。世界が変わる。空気が違う。高架の下。がたたん。がたたん。音が鳴る。響いた音が反射する。
「縺雁ャ「縺。繧�s」
「え?」
声が。向いた。わたしに。わたしに?
老婆。
もごもごと、何かを告げた。
首を捻る。そちらに。
行商だろうか。何か、売っている。野菜? 食べ物であることは間違い無さそうだ。そもそも、何故わたしに
「お嬢さん」
「えっ。あっ、はい」
思わず応えてしまう。しまった。しまった……。
「珍しいねぇ」
何が、だろうか。
「こんな場所に来るなんて」
「そう、ですか?」
時間ではなく? 場所?
「学校はどうしたんだい」
呼び止められて、足が止まる。止めてしまっていいのだろうか。止まってしまった以上は、ここで停止してしまう。
「ん……サボり……っていうか」
「へぇ。行きたくないのかい」
学校には行きたくない。学校に行く動機はある。背反の真ん中。日向は背中の側。老婆は陰の中。
「ん、まぁ……はい」
「ここに座りな」
老婆が座っている座布団がもう一枚出てきた。ぽんぽん、と皺だらけの手で紫色の布地を撫でる。
少しだけならいいか。迷う。でも、目的地なんて在って無いようなもので。
理由を見つけられず、
「はい」
すとん、と座る。居心地は思いの外悪くない。
夏の図々しさに、雲の化粧をせずとも美しい陽光に、わたしはうんざりしていた。ひんやりとした陰の中は、そんなしょうもないことを清々と忘れさせてくれる。そんな気分になる。
売り物を眺める。暗がりでの遠目にはぼやけていた輪郭が像を結ぶ。闇に焦点が合う。
やっぱり、食べ物だ。色々ある。野菜、果物、パンまで。色々。
でも、
「売れるんですか?」
つい、不躾な事を聞いてしまうほど、場所も見目も悪い。老婆自身、客引きをしているわけでもない。なら、道楽だろうか。
こんな暗がりで?
わけがわからない。
意図が理解できない。
それでも。共感だけはできる。してしまう。歪んだパンを見つめる。誰もいない場所に居を構える老婆を思う。
これは、わたしだ、と。
「たまーに、ね。蜘蛛の糸みたいなもんでね」
獲物を待つ、のだろうか。
「わたし、買いませんよ」
手持ちもほとんどないし、と胸中で言い訳する。
「お嬢さんになら」
あげるよ、と。
皺だらけの手のひら。歪なパン。
なんとなく。なんとなく口寂しい気がして。手を伸ばしかけて。
ポケットから伝わる振動に、手が止まる。
「ごめんなさい」
画面をなぞれば、唯一の友達からだ。あの雨の日から疎遠になってしまった彼女からだ。
『今日は学校にいないの?』
悩んでから、
『サボった。制服着てない』
『始業式終わったよ。今から会える?』
悩む。
悩む?
何に?
目の前に座る気味の悪い人物や、暇を潰すために作った用事と、彼女を天秤にかけて?
何を、悩んでいたのか、解らなくなる。だから、
『暇だし、遊ぼ』
「ごめんなさい、用事ができて」
顔を上げる。
電車が通る。頭の上を、箱詰めの人々が行き過ぎる。
がたたん。
がたたん。
がたたん。
老婆も、汚らしいパンも、座っていた座布団も、どこにもなくなっていた。
高架の下。がたたん。がたたん。音が鳴る。響いた音が反射する。
「つれないねぇ」
老婆が一人。
隣には、釣り人が一人。紫色の座布団に座り、虚空に釣り糸を垂らしている。浮きもなければ餌も、針すらついていない。
「舫いでありますね」
鴉が一羽、嗚呼、と啼いて高架から飛び去った。
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