浜辺(半透明の祈3)
目が覚めるより前に、意識だけが覚醒する。ゆらゆらと揺り籠の中にいるような寝心地。眠っている。眠っていた。体を起こすどころか、まぶたを開くのも難しい。
体が重い。全身という全身から力が抜けている。息を強おうと肺に意識を集中したところで、ごほごほと咳き込んだ。
まるで溺れているかのように酸素を求め、ひゅうひゅうと喉を鳴らす。その拍子に、涙で滲んだ空が開けた。
空、のはずだ。
星は無い。雲もない。月もない。闇だけがある。
空か。これが。
「起きたかい」
上から覗き込まれる。黒いフード。顔は見えない。無いものは見えないのかもしれない。手には木の棒、だろうか。指は青白く、不健康に痩せ細っている。枯木のようだが、歪な爪はぎらぎらと輝いている。
輝いている? つまり、どこかに光源があるはずだ。
重い体を起こす。全身が水を含んだ木綿のようだ。周りをぐるりと見渡す。何もない。平らな水面。暗い水。少し離れたところに砂利浜。
「ここは」
「未だ舫いでるさぁ。安心しなよ」
「もやいでる?」
言葉の意味がわからない。
フードの男は顎で指し示す。
小舟の上。頼りなげな木の器は波と砂利浜の間にある。木でできた杭に、これまた頼りなさそうな紐で舟と繋がっている。
啞、と間抜けな声が出た。
「死んだのか」
「未だ舫いでるって言ったろ」
つまり、
「まだ、生きてるのか」
安堵した。死にたく無い。死にたくだけは無い。
そのはずなのだけれど。
「どうする」
どきり、と心臓が鳴った。気がする。まだあれば、動いているのなら。それともただの錯覚か。呼吸が止まった私にそれは問う。
「どうしたい」
「どう……って。生きたいに決まっている! 当たり前だ! 死にたい人間など」
いる。
いた。
何一つ不自由無い暮らし。やりたいと行ったことは何でもやらせてみた。欲しいと言ったものは買い与えてきた。学校は楽しく人間関係は上手くいっていると言っていた。勉強は難しいと本人の口から聞いていたが結果は常に学年上位だった。それら全て可能にする環境を与えていた。そのはずだ。そうでなくてはならなかった。
私は、
「失敗したのか」
したのだろう。
うなだれる私。頬杖をつくフードの男。
「どうする」
「……なぁ、あんた」
なんだ、と言わんばかりに顔……顔のある部位をこちらに向ける。
「死んだ人間を向こうに送るんだろう? なら、娘を知らないか!? 娘は、」
「知らん。いちいち覚えていられるか」
切り捨てるように吐き捨てる。
「聞きたいことは一つ。どうする」
「もう会えないのか」
「望まないならな」
なら。
舫いが揺らぐ。ぐらり。みしり。
紐がぶちぶちと音を立てていく。
「あぁ、なら」
どこにいる必要もない。
「いくぞ。渡し賃はあるか」
懐を探れば財布はあるが。
「カードしか」
「構わんよ」
いいのか。まぁ、いいか。どうでもいい。
無言で手渡す。
男は手に持った櫂で漕ぎ出す。
ゆらゆらと揺れる舟。小さな、木でできた、頼りなげな舟が大きな川に向かってゆっくりとふらつく。
舫いが。
千切れ。
舫いが。
千切れかけ、
「ま」
待ってくれ、という言葉を発する前に体が動く。重たく、しかし簡単に揺らぐ体が、その時だけは違った。呼吸が満ちる。息ができる。何故なら、
「待て!」
もう片方の、千切れかけた紐に縒り合わせてある『もう片方の紐』に手を掛けようとし、失敗した。届かない。
「待ってくれ」
「だめだ。渡し賃はもらっちまった」
顔を振る。
「舟は止まらない。が」
岸が遠のく。
「荷物は知らん」
逡巡は無かった。大きく息を吸った。暗い闇の様な川面だった。泥の様に重たい水だろう。氷より冷たい水中だろう。それでも。望んで飛び込めば生きられるはずだ。きっと。根拠はない。ないが、いらない。
私を舫いでいる人を、これ以上の孤独に置き去りにしてしまう人間にはなりたくなかった。
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