屋上(半透明の祈2)

 空が赤い。朱い。雲は遠い。ここは、遠い。遠すぎて。僕の行きたい場所はここよりも遠くて。給水塔の上に吹く風は強く、飛ばされてしまいそうだ。飛ばされてしまいたい。しまいたかった。しまったのだろう。僕は。置いていかれてしまった。

 陽が沈む。茜色は次第に黄昏を経て藍に変わる。青よりも蒼い藍。星が、今日は見えない。

 月はどこに行ってしまったのだろうか。もう僕には見えない。



 もこもとした感触を楽しむ。もぞもぞと腕の中で動くその白い毛玉を、おっかなびっくり地に降ろす。もし落としてしまったら、と考えると恐ろしくて抱くのも怖いくらいだった。

「動物、苦手ですか?」

生き物全般苦手だった。頷くわけでもなく曖昧に微笑みを返してしまった。

 二人で遊びに行こうと言い出したのは僕だった。快諾してくれた彼女の柔らかな顔が嬉しかった。

 眉を下げてはにかむ。その表情だけで幸せになる。単純な男だといつも思う。

 今も。

「苦手ってわけでもない、と思ってたんだけど」

まさかこの高さから落ちたら骨折してしまうような動物だとは思っていなかった。

 壊れてしまうもの、壊れやすいものを触るのは怖い。自分の手で壊してしまうのが何よりも恐ろしい。

「可愛いんだけどね」

愛らしいその生き物は、特徴的な口をもぐもぐと動かしていた。

 一方で彼女は、美しい三日月を顔に三つ浮かべ、手のひらの上にいるうさぎを撫でていた。

「はい、可愛いです」

彼女自身がどう思っているかどうかはわからなかった。けれど、結局僕にとって最も可愛らしいのは、今うさぎを愛でている彼女自身だった。

 ぴょん、と彼女の腕から飛び降りたうさぎ。あぁ、自分で飛び降りるのなら、彼はこの高さでも生きていける。それを証明した。

 鉄柵の中、彼らは生きている。人間に飼われて、人間の作った囲いの中で。

 それは、僕らも変わりなかった。


 二人で摂る昼食の味は解らなかった。美味しい、といいながらころころと変わる表情ばかりを見ていた。

 自分の昼食が何だったかは今も思い出せない。


 星が出る頃には別れた。また明日。そう言って。



 そう言って。彼女は着地に失敗した。



 彼女の気持ちは未だにわからない。陽は落ちる。月は時を刻み続ける。カレンダーは止まらなかった。



 学校の屋上はすぐさま施錠を強化した。鉄の鎖でがんじがらめになった。侵入を拒否された僕は、彼女の最期の景色を見ることすら許可されなかった。

 校内はすぐさま自殺した生徒の話で持ちきりになった。

 何故死んだ?

 相談の相手は?

 学校側の対応は?

 事後の安全対策は?


 そうして、彼女は忘れられた。


 一度だけ線香をあげさせてもらったことがある。

 死の前日に会っていた。それだけの理由で。

 彼女の母親は問う。

「何か変わったところはなかった?」

何も。敢えて言うのなら、嬉しそうだった、としか言えなかった。

「おかしなところはなかった?」

無かった。と思う。僕自身、彼女がどうして僕と二人きりで遊びに行くことを承諾したのか、未だに測りかねているところがあった。

 だから、僕も問いたい。

 何故? と。

 もう、問う相手は飛び立ってしまった。此処から。

 否、あそこから。



 マンションの屋上、その縁から学校の屋上を眺める。あそこに行けば、僕も彼女と同じものが見えるのだろうか。見えて、見てどうするのか。

 陽が沈んだ。もう、彼女と同じ風景を見ることはできない。

 帰ろう。

 鉄柵をまたいで、そこにいるものに違和感を覚えた。

 うさぎが一羽。

「こんばんは」

「こんばん……は」

思わず言葉を返す。

「私はもう行くよ」

「何故」

何故、僕はうさぎと会話しているのか。会話できるのか。

「言葉を託すべき相手は見つからなかったからね」

あぁ。

「じゃあ、さよなら、ですか」

「それは彼女に言うべきだ」

 そういって、鉄柵を飛び越えた一羽のうさぎは、夜の闇へと溶けていった。

 足跡なんて、探すわけもなかった。

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