「見て」

「何?」

「雨だ」

「そう」

「綺麗だ」

「そう?」

「そうだよ」

 ならきっと、それはとても綺麗なのだろう。僕にはそれでいい。

「だめだよ」

「どうして」

「何が綺麗なのかは、自分で決めないと」

 だけどそれは、意味のあることなんだろうか。僕らはずっと一緒だった。ずっと一緒だ。

「ぼくは、かみさまじゃないから」

 でも、と言おうと口を開く。呼吸を一つ。そして、詰まる。誰も、どこにも、そんなものはいないから。だから、僕らはいつか欠ける。


 ノック。重たく、大きな音が三度。

 世界が発生する。僕らふたりきりの楽園が崩れる。揺れた扉が。真っ白な部屋が。味気のない床が。僕らの座るベッドが。その横にある小さな椅子が。使われないテレビが。外の風景と僕らを隔てるカーテンが。世界が、僕らに知覚される。

「はい」

 応える。黙る。父はミチルが嫌いだ。父は病を憎む。

「みちる」

 ドアが開く。個室に設えられたそれは他の病室よりも大きく仰々しい。父がこの父でなければ生きられない僕ら。痛いほど解る事実は理解したくない現実だった。

「珍しいね」

「あぁ。時間ができてな。顔が見たかったんだ」

 顔か。顔だろう。それ以外の何も見たくないのかもしれない。


 奇跡は二つ起きた。

 一つ目。顔、というか体付き全体だ。ホルモンバランスの異常か、僕のそれは男性とも女性とも見て取れないものらしい。それは一部の人間にとってとても価値あるものらしい。とても綺麗だ、と。幾度となく言われ続けてきた。まるで天使のようだ、と。

 天使。そんなものはどこにもいないのに。僕の背中にあるのは翼ではない。そして、僕以外の人間には無価値どころか有害な存在だ。けれどその翼は僕にとって。

 二つ目。生きていること。生きてこの年齢に達したこと。医療チームの手厚い介護とそれを可能にした父の財力があってこそではあるが、稀なケースらしい。

 詳しくは知らない。僕も、ミチルも、興味はない。

 ただ、骨格や目の大きさがバランスがどうこうとか、似た境遇にある他の人より長生きだとか、そんなことはどうでも良い。もっと、綺麗なものを見せたいだけ。

 

「今度、時間が出来たら母さんも連れてくるよ」

 椅子を回して、彼を横目で見る。

「うん」

「あまり、来てやれなくてすまんな、その」

 微笑で返す。不器用な人だ。

「ありがとう。こうやって居られるのも二人のおかげだって、判ってはいるから」

 だから。だから、もう少しだけ。いつかを先延ばしにしてほしい。言葉にはしない。しなくていい。伝わる相手は一人だけ。それとも僕は僕自身に話しかけているから伝わると勘違いしているのだろうか。

「手術の日までには、必ず」

「うん」

 必ず。その日は来る。来なければいいのに。そうすれば僕らは、このまま。


「だめだよ」

「わかってる」

「わかってない」

「わかってはいる」

 二人きりでミチルと話す。肺は二つしかないから、言葉の度に少しだけ間が空く。

「ぼくは、みちるに」

「僕もだよ、ミチル」

 基本的な主導権はこちらにある。ミチルが真に自由なのはその脳と手だけ。呼吸が続かなければ喋れない。僕は嫌な人間になった。

 モニタが光りを発する。二人だけが溶けた闇。左手を優しく包み込まれる。

「みちる、爪、切ろうか」

「ミチルの指、いつも綺麗」

「キー、打ちにくくないの?」

「カーテン、開けていいかな?」

「みちるが、爪を綺麗にしたらね」

「僕は、どこも綺麗なんかじゃない」

 本当に美しいものを誰も見ようとしない。見てくれなんてそんなどうでもいいものが大事なのだろうか。ミチルはこんなにも僕のことを気にしてくれるのに。ただ、生命の主導権が無いというそれだけで、僕の生存を脅かすというそれだけで、殺される。

「ミチル」

「何?」

「窓」

 頭を振る。振ろうとすうる。否定の行為。

「窓の向こうにはね、世界が広がってるんだ」

「僕はミチルと一緒にそれを見に行きたい」

「でもそれは叶わない。だから、ぼくの」

「嫌だ。そんなものは、綺麗じゃない」

 背中合わせに、違う風景を、それでも一緒に見られればそれでいいのに。

 僕らはこの部屋から出れば生きてはいけない。窓の外を見られるのは一人だけで、もう一人は部屋の中にある偽物をじっと見つめることしかできない。だから僕は、ミチルよりも長生きするであろう僕は、世界をミチルに譲った。今だけでも。



「喜べ、みちる」

 父の笑みが一つしか無い心臓に刺さる。ミチルは何も言わない。父の前では、ミチルはただの肉腫を演じる。

「手術の日取りが決まった」

 ああ。これで。

「これで、お前はようやく」

 もう。

「自由になって、世界のどこにでも行ける」

 一人で。

「なんでも見られる」

 言葉を交わす相手もなく。

「なんにでも成れる」

 二人には、もうなれない。


「ミチル」

「なんだい」

「外は綺麗?」

「うん。とても」

「僕もみていい?」

 勿論、と応える前に、二人だけの静寂が破られる。

「残念」

「うん」

「またね」

「ううん」

「さよなら」

「さよなら」


 ベッドごと運ばれる僕ら二人。背中合わせに、横向きに眠る。眠っているのだから、これは夢だ。きっと。

「では、お前が死ぬのか」

「はい。ボクが死にます」

 ミチルが答える。嫌だ、と僕は叫ぼうとする。僕の言葉は届かない。僕の喉は震えない。皮肉なことにこの身体は正真正銘僕のもので、そしてこれから僕だけのものになる。

 僕たちの上にいる男は重々しく頷く。僕は抗おうと全身に力を入れようとし、



「起きたかい」

 天井が見えた。白い。蛍光灯が眩しい。

 仰向けに、見上げて、僕は。

「僕は」

「おめでとう、君は解放されたんだ」

 開放? 解放? 違う。僕は。僕の。

「まだ、起き上がらないほうが……」

 制止を無視して、世界と僕を隔てる布一枚を剥ぎ取る。硝子。雨。雲。灰色の街。積もる雪。薄汚れて、煤けて、面白みの無い建物ばかりがずらずらと並ぶ。

 あぁ。こんなものが。こんなものを。こんなものだから。

「綺麗でも、なんでもない」

 背中の軽くなった僕は、人だ。

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