防波堤

 少しでも遠くへ。そんな甘い願いを込めて両手を広げる。自由を羽ばたく鳥ならぬ私は、風に煽られバランスを崩す。漫画やアニメなら都合よく抱きとめてくれる人がいるかもしれない。もしここがそんな世界なら、私は描写すらされない。それなら、私を支える手は二本だけ。だから、私は無様にも転倒した。

 見上げる空はどこまでも高い。秋の予兆を感じさせた幾度かの強い雨を経て、澄み切った青に染まっている。夏の雲はもう日本に飽きたらしく、入道雲は影も形もない。

 変わってしまった。

 終わってしまった。

 置いていかれてしまったことを今更再確認して、声を上げて泣きたい気持ちを圧し殺す。同じ場所に立ってすらいなかったのだから、置いていかれたも何もないのだが。感情が納得を得るには時間がまだしばらくかかりそうだった。

 雨はしばらく降りそうに無かった。


 からりと扉を開ける。優しい木の感触が心地よい。

「いらっしゃい」

 ぼそりと小声が迎え入れてくれた。カウンター席に座る同級生。手元の本からは目を離さず、かといって私を完全に無視したわけでもない。カーテンの向こうから差し込む茜色に図書室は普段より少しだけ柔らかだ。小声の主はのめり込むように、開いた本を指でなぞっている。

「そっちもサボり?」

「ん」

 図書室登校仲間だ。ごく最近まで一切接点のなかった人種。互いに顔も知らなかった。

「何読んでるの?」

「そういうのウザい」

 知った仲だ。覗き込もうとはしない。彼女のことが気になるのは事実だけれど。嫌われるようなことをするのは嫌だった。されるのはもっと嫌だと、体感したから。

「頼まれてたやつ、それらしいのを見つけて来たけど」

「ほんと!?」

 身を乗り出して顔を覗き込む。彼女は恥ずかしげにうつむく。またやってしまった。驚かせてしまった。

 手を伸ばしても触れられない距離まで下がる。そうしてようやく目を合わせてくれた。少し、名残惜しい。

「えっと、あの花……画像ある? 探そうと思ったら消えちゃってて。記憶で探したんだけど」

「あ、うん。まって……」

 携帯端末をなぞり、画像を呼び出す。呼び出そうとする。が、

「あれ?」

 ない。

「え?」

 ない。どこにも。画像が。花が。

「無くなってる……?」

「あの、赤いやつ……」

 頷く。震える指で、思い出をなぞる。赤くて、綺麗で、でもそれ以外は一つ残らず記憶から抜け落ちていて。見つかるのは、見つかってしまうのは、

「じゃ、じゃあとりあえず」

 曇る私の目に気付いたのか、彼女は少々無理矢理にでもと言葉を作った。

「これ」

 彼女の読んでいた本の下から出てきた、一冊の資料。花の栽培について書かれたものだ。

「多分これか……これだと思うんだけど」

 彼女は一つ一つ花の写真を指差す。

「あぁ……どうだったっけ」

 途方に暮れる。二人で夕日を浴びる。それだけの時間。

 正直、それだけでも良かったのだが。それでも。

 その日はそのまま解散になった。私がきちんと写真を撮って、彼女に送る。それだけで済むことなんだし。

 けれど。目論見は外れた。


 家に帰り、夜闇の中に鎮座する赤い花を見つける。萎れかけている。あまり大きくない花、大きくない鉢。水をやりすぎるのも問題かもしれない。植え替えも考えたが土の良し悪しも判らない。分からないことばかり。

 とにもかくにも彼女に画像を送ろう。カメラを構え、画像を保管、送信。

『花撮ったよ』

 彼女の返信を待ちがてら、シャワーを浴びて着替える。暦の上では夏が終わってしまったとは言え、それでもまだまだ暑い季節だ。一枚一枚高校生を脱ぎ捨てていく。解放感が心地良い。汗でも流して気持ちを切り替えよう。


 妙なことが起きたのは汗を流したその後だった。

 彼女からの返信だ。髪を乾かしながらうきうきと携帯端末を覗き込む。青白く光る画面。返事が来たと残るログ。少し対応が遅れてしまったかな、と罪悪感を覚える。そこまでやりとりにうるさいタイプではなさそうではあるけれど。

 少し、嫌なことを思い出す。

 頭を振って、嫌な気持ちを洗い流す。

 そうだ。いまやるべきことは返信を、彼女からの言葉を確認することであって……。

『画像、見られない』

(見れない?)

 けれど内容は妙なもので、中身が判らないという。画像データが破損しているのかもしれない。

(送信ミス? 珍しいエラーだ……よね?)

 再び撮り、送り、待つ。

 落ち着かない。落ち着けない。ぞわぞわする。何か。

『やっぱり真っ白』

 送った画像自体、こちらからは問題なく見える、と返信しようとした。したが、気になって止める。

 指でなぞる。画面を、上から下に。巻き戻る。巻き戻す。果たして、それはあった。真っ白な四角。ただの白ではなく、薄くぼけた灰色のような空白。

 息を呑む。思わず花を見る。白。雪白。白妙。それは、

「なんで……?」

 萎れていない。それは、まるで今産まれたかのように、生き生きと。花華と。それは生まれていた。



「昨日はごめんね、なんか送信エラーしちゃっててさ」

 同じ場所。同じ時間。少しだけ傾いた日。昨日と同じ今日。それでも少しずつ進むカレンダー。毎日一枚ずつ、少しずつめくれば、一歩ずつ一枚ずつ確実に日々は過ぎる。彼女は同じように手でページをなぞる。

「ん」

 気にした風もなく。

「この本のどれかに、似た花ってあった?」

 花の色が変わっていた、などとは言えるはずもなく。でも確かに変わっていて。私の言葉は宙を舞う。

「えっと」

 指で髪をいじる。くるくると。思考が巡る。

「んー。説明しにくくて……ねぇ」

 動悸。なんだろうか。花か。それとも、別の理由だろうか。

「なに」

「今日、良かったら資料持ってうち来ない? ちょっと……こう」

 説明しにくい。言いにくい。なんと言えば良いのか、何が起きているのか解らない。紫陽花みたいなものだろうか。でも形は全く違っていて。そもそも。

 赤い時の形って、どんなだっけ?

「いいよ。どうせやることない」

 彼女と目が合う。彼女の指が止まる。本がぱたりと閉じた。赤い日差しはいつの間にか蛍光灯の白に取って代わられている。


 帰り道。あまり弾まない会話。それでも別段一緒に居づらいと感じることもなく。ただ、歩く。二人で。夜は暗く、しかし街灯で道は照らされている。雲もなく、しかし都会には星もない。幸い私の家は駅から近く、そこまで遅い時間にはならない。だから、

(だから?)

 だから、とは何だろう。

「どうしたの」

「え、なんでもないよ?」

「そう」

 そう。多分。

 少しだけ空いた彼女との距離を見つめた。普段本をなぞる指は今、制服の袖うちに半ばまで隠れている。


 鍵を開けて暗い廊下を歩き、軋む階段をそろりそろりと二人で上る。ひんやりとしたノブを握る。きぃ、と鳴り開く扉。開いた。当たり前だ。私の家。私の部屋。私の居場所。私の。

「これ、なんだけど」

 すっかり色の変わってしまった花を彼女に見せる。鉢植えは変わらず、しかし恐らく、植物自体の形も変わってしまっている。

「色、全然違ってる……説明しにくい理由って」

 頷き、伺い、瞳を覗き、

「うん……」

 ぽつりと答える。

 萎れていた数日前までの姿が嘘のように元気になってしまっている。これでは嘘をついたように思われても仕方がない。なのに何故、ここに呼ぶようなことをしてしまったのだろう。これでは逆効果だ。

「まぁ、ほら。持ち直したならいいんじゃないかな。これ、買ったお店に聞いてみてもいいし」

 至極真っ当な意見。勿論真っ先に検討したけれど。それでも。だから、

(また、だから)

 はっと我に帰る。

「うん、そうだね、そうすればよかったけど……でも」

「でも?」

「ありがとう。来てくれて嬉しい」

 息を呑む彼女の姿。小さな手は鞄の紐をぎゅっと握っている。

「もう帰る」

「送るよ」

「うん」


 川沿いをゆるゆると二人きり。帰り道も往路と同じく静かな足取りだったが、

(距離、縮んだ?)

 気がする。少しだけ嬉しい。家に呼んだ甲斐があった。でも、それが目的ではなかったはずなのだけれど、それでも。

「どうしたの」

「え?」

 覗き込まれる。眼と眼が合う。そんな。

「なんでもないよ」

「ふうん」

 鼓動。あれ? あぁ。じゃあ。いいのか。これは。これが。


「あれ」

 二人同時に空を見上げる。暗雲。元々見えない星の下、街の灯に照らされた雲が天蓋になり、月を塞いでいる。それだけではない。

 雨粒。一つ。二つ。あっという間に土砂降りが始まる。

「うわ、走ろ」

「ん」

 ばしゃばしゃと水を蹴る。あっという間に道に溜まった汚水に足を取られる。真横の川は氾濫しないだろうか。それよりもまずこの子を駅まで送ろう。私が連れてきてしまったのだから、私の責任だ。

 走る。走っているうちに間が開く。速度を落とし、足取りを合わせ、横に並ぶ。吐息を聞き、ペースを上げすぎた、と少し後悔。

 元々、接点のない世界の住人同士だったのだ。だけど。

 鞄を傘に並走する。雨宿りのできる場所はまだ少し遠い。

(あれ?)

 視界の端。赤。鮮紅。無くなったはずの深紅。諦めた赤。

「嘘」

 足が止まる。足元の水たまりを踏むのも構わずに。彼女が先に行く。それよりも私はあの赤が。

「どうしたの」

 近寄る彼女を背に、ばしゃばしゃと川べりへ。防波堤の先。荒れる水面には、

「花……私の、探してた赤い花……」

「え?」

 手を伸ばす。届かない。川の上からでは。なら。防波堤に手をかけ、

「何してるの!?」

 声。

「だって、花」

「花!? 何言ってるの!?」

「取ってくる」

 飛ぶ。そのつもりで両手に力を込め、

「だめ」

 手。

「花なんて、どこにもない」

「だって、」

 彼女は私に後ろから抱きつき、飛ばせまいとする。

「花なんてない! 落ち着いて! 泥しか無い! だって花は部屋にあったんでしょう!? 二人で見たでしょう!?」

「だって、あの花は白くて」

「白くて、何が悪いの!? こんなところに飛び込まなきゃいけない赤い花なんて、それは」

 それは、なんなのだろう。その価値はあの花にあるのだろうか。私は防波堤から手を離す。あの花は、この小さな手よりも大切なのか。

 沈む。花が。沈んだ。泥が。どろりと。花だったそれは、濁り、澱になり、どぽん、と音を立てて、もっと大きな汚泥に混じり、そして消えた。


 雨はそのうち止んだ。私を繋ぎ止めた手は冷え切って、白く染まっていた。

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