曲がり角
──気持ち悪いんだよね
理解していることであっても変えられない。
──近寄るなっての
自分から避けても、相手の領域に立ち入らざるを得ない。
──死ねよ
だからといって、言う通りにする必要はない。
雨上がりのアスファルトと周りの草々は朝露にきらきらと彩られ、薄い乳白色の極彩は空と大地の境を曖昧にする。雲と霧の境目に向かってゆっくりと曲線を描き登ってゆく車道は、ほんの十数メートル先を見通すことも出来ない。
走る。進む。そして、溶ける。溶けようとする。しかし、歩をすすめるその度に、足の裏には確たる感触が帰ってくる。私はいまここにいて、この場所にある。登れば登るだけ模糊とした風景が姿を取り戻す。否、取り戻しているわけではない。ある。あるものが見えてくる。近付けば近付いただけ、存在を認識しやすくなっていく。それだけ。
登って、登って、登って、どこに行こうと言うのか。
日が出て来た。霧が次第に晴れる。
「あ、」
田舎とも都会とも言えない、中途半端な故郷を見下ろす。空が瑠璃色のうちから走って走って走って、走ったところで、結局こんな場所までにしか到達できないのだ。
脚が止まってしまう。上下する胸に息苦しさは無い。まだ。もっと。でも、
電話が鳴る。
もう。
心配されるだけマシなのだろうか。それとも捨てておいて欲しいのか。
山頂への道はまだ、霧に覆われていた。
「ただいま」
「おかえりー」
間延びした父の声。何かが焦げた匂い。また失敗したのだろう。
「居なくなってたから、心配したよ」
こちらを向くことなく、食材の残骸と格闘する父。
「ごめん」
「徒歩でどこまで?」
「さぁ」
私が聞きたい。どこに行きたかったのか。
「そういえば、免許取れる歳だったよね」
「ん」
昨夜のままの皿や箸を洗い、並べる。広いキッチン。白い食器具。空いた穴。
「父さん、お金だけはあるから、遠慮しなくていいんだよ」
そうじゃない。そうじゃないのだけれど。
朝食は真っ黒だった。
炭水化物の残骸を片付けていると、不意にテレビの音が聞こえる。
「これは……すごいな」
珍しく居間にいる父が驚嘆の声を上げる。
「ああ、それ」
「ガードレール突き破って、かぁ。あそこ、そんなに速度上げて走りたくなる道かなぁ」
気持ちはわかる。何もないような錯覚を覚えるから。ゆっくりだと自分の場所が、自分があることがわかるから。
「そんな気分だったんじゃない」
消えたかったら、見るより早く走るしかない。そう、思う。そうしか思えなかったんだと、想像できた。
「驚かないね」
「通報したから」
水場にある白い食器にこびりついていた、黒い朝食の残りはようやく綺麗になった。
電話が鳴る。父だ。朝起きて私がいないから、きっと心配したのだろう。家族が減ってからというもの、彼は以前と比べて明確に私への干渉を強めた。きっと、足の裏ではない感触が自分に存在することを思い出したんだろう。
電話には出なかった。
目的地もわからないまま、ふらふらと登る。霧がまた強くなってきている。高度が上がったからだろうか。それとも。
「釣りですか」
問う釣り人。男か。男か?
破れたガードレール。崖際。座り、一人、釣り糸を垂らし、茫洋と座る。誰か
「こんなところで?」
明らかに事故現場であろう惨状ながら、しかし釣り人は何事もなかったかのように釣り糸を垂らしている。私の受け答えも異常で、霧は強く周りは、崖の下は何も見えない。故郷はどこにいったのだろう。ここはどこで、この先にあるはずの頂上はあるのか。
「釣れましたよ」
糸の先には何もない。餌も、浮きも、針も。
「母さん」
「違いますよ」
「でも。そうだ、電話、通報しないと」
しないと、いけない。それは、
「釣れますよ」
「それより、私は、やるべきことをやります」
私は携帯電話を開く。崖の下に、車があった。煙はもう出ていない。
1を二回、9を一回。
「父さん」
昼食も失敗した。麺を茹でて、出来合いの具材と混ぜるだけのスパゲティも難しい。
美味しくないね、と言いながら二人で食べる。食べていた。
「なんだい」
「学校、明日から行く」
「……引っ越しても、いいんだよ」
首を振り、
「お墓参りは歩いて行きたいから」
「釣れますか」
鴉が一羽。釣り人一人。
「釣れますよ」
霧に垂れ糸。先には餌も、浮きもない。
「釣れましたか」
左薬指だけは鈍く光る。髪も服も、暗く黒い、そんな姿の少女が一羽。
「理由がありました」
女は満足げに頷いた。
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