花屋

 ほろりほりろと綻ぶ蕾。瑞々しさを湛えた、未だ開かぬ花弁の面紗。朝露に濡れ、少しずつ、少しずつ。

 見知らぬ花や若草の、華やぐ花屋の店主には、花すら恥じらう少女が居て。


 横断歩道が青を照らし、進め歩けと急かされる。花が奪った私の意識をいつもの日常に傾け直し、履き慣れたかかとを鳴らして歩く。あっという間に人混みの中。視界に映るスーツと制服。道いっぱいの誰でもない誰か。それに交わる私が一人。一人が一人からみんなになっていく。哺乳類の群生体。それが私で私達。

 朝の空気は清冽とは程遠く、じめじめとした梅雨空は未だ咲けない私の気分に蓋をする。ごみごみとした街路で革靴を削り、見慣れぬ人を見つけた。

(先生だ)

私の担任。学校の先生。憧れの人。届かない女性。何故って。十五歳の頃よりも少しだけ膨らんだ胸が早鐘を打つ。わかりやすい。我ながらわかり易すぎる。駅舎に吸い込まれるあの人を見送る。近寄るだけなのに。一言おはよう、と声を掛けるだけのこともできないのか。

 靴を履き直す。前を向いて、改札を駆け抜ける。

 

 見つけた。一息。呼吸を整え胸中で逸る鼓動を落ち着かせる。

「あ~、タカノリ先生。おはよー」

「おはよう」

手を振る私と手を振るあの人。違和感なく言葉にできただろうか。態度はおかしくなかったろうか。頭の中だけでぐるぐると回る疑問を隠しながら、この人の後ろに並ぶ。湿った風が先生の髪をくぐり抜け、私の鼻腔を微香がくすぐる。

「あれ? 今日は朝練の日じゃなかったの?」

朝練の無い日は無い。否、無かった。

「あ、今日はちょっと」

どきりと、違う鼓動が一際大きく一度鳴る。

 醜い私を見ないで。私の醜さを認識しないで。綺麗なだけでいたい。それが、それだけが。どうせ届かぬ高嶺の花なのだから。


―――○○線は只今、人身事故の影響で運転を見合わせております――――


不意の声にびくりと体が震える。繕うように囀る。必死に、手繰り寄せた糸を手放さないように、どうせすぐに消えて失くなってしまう機会を一瞬でも保とうと。

「時間、掛かりそう」

できるだけ儚げに、あえかに、少女が少女らしく、美しくあろうと、力の限り。

「月曜日から迷惑な話」

 他愛のない会話で朝は続く。この花は、最初から私の手の届かない所にあるのだ。ただ、愛でて、あわよくば愛でられていれば、もうそれだけでよかった。

 曇天には鴉。烏。カラス。今を生きる私には、関係のない生き物。


 とぼとぼと靴を引きずり家へと向かう帰り道。夕暮れの橙は街中を夜へと誘い、私は住宅街でひとりぼっち。そうして人はようやく群れから個人に戻る。

(そういえば、花屋なんてあったな)

朝の一瞬、視界の端に映っただけの、しかし私とは違う存在。

(結婚祝いに、なんて贈ったら迷惑かな)

迷惑だろう。結論はすぐに出る。そもそも、駅のホームで話しかけるのも迷惑だったはずだ。嫌がられたかもしれない。おくびにも出さないあの人に甘えて、私は。

 私の、この気持ちは。

 革靴だけを覗く私は、いつの間にか鮮烈な花の香に囲まれる。顔を上げれば、

「花屋……?」

今朝目にした、あの店だろう。多分。場所もだいたいこのあたりだったはずだ。何より、店主の美しい少女が――

「いらっしゃい」

少女ではなかった。女性だ。大人の女。朝に店番をしていた少女の母親だろうか、どことなく似ている。というより、面影がある。

「お客さん?」

呆然と店の前で突っ立っている私のことだ。

「え、あ。すいません」

「謝らなくともいいんですよ。でも、そこは車も通りますから」

入るならいらっしゃい、と手招き。私はそのまま言われるがまま、ふらりふらりと蝶のように店の中に入ってしまう。


 一輪挿しの壁の花に妬ましさを覚える。

 色とりどりの鉢植えに引け目を感じる。

 素朴な花なしの草木に憧憬が沸き立つ。

 美しい花と素敵な店が、私の居たたまれなさを募らせる。

「どんな花をお求めです?」

「あ、えっと。先生の結婚祝いに……」

そういえば値札が無い。日は陰る。次第に夜が近づく。時計はどこだろう。

「違うでしょう」

店主は影を帯びている。橙が赤に染まっていく。

「好いた人に手が届かなくなってしまうのがわかったから」

だから、

「手慰みと、気持ちの整理に」

自分のために、

「花を」

赤い花。沈む太陽のような。

「上手く育てて、次の花を咲かすんですよ」

伸びた老婆の手には、一鉢の名も知れぬ花。闇が降りた。

 顔を上げると、店の中には誰も居なかった。ただ、私の手の中に、萎れかけた花が一輪。それ以外の植物は全て枯れていた。


 店を出た頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。もう夜だ。両親が心配しているかもしれない。部活を辞めたのはもう知られているはずで、なのに遅くまで出歩いているのだから。だから、明日からきっと暇になる。けれど、

「花かぁ」

手の内にあるそれをまじまじと眺め、

「試しに、育ててみようか」

店の中にあった花々のように、美しく咲くだろうか。今はもう萎れてしまったこの花も、いつかは。

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