病院
ベッドから跳ね起きる。
全身から空気を絞り出し、喉を震わせる。我ながら人間離れした音だ、と冷めた自分が嘯く。唖とも、嘔とも聞こえる音。どちらとも判じえない、言葉ではない声。原初の感情は安寧と微睡みに包まれていたはずの夜闇をつんざき、私の全身はぬるりとした冷たい汗に濡れる。抱きしめる自らの手指さえも拒絶した私の両腕は惑い、彷徨き、最後には普段それなりに気を使っているはずの頭皮とそこに生えた髪を掴んだ。
のそりと衣擦れが小さく響く。肩で息する私は何事もなかったかのように、努めて落ち着いた風に、
「ごめん。起こしちゃった?」
誤魔化しの利く相手ではないと十分に理解しながら、無駄な欺瞞と見栄を張る。生きて大人になるとはそういうことだった。飲み込むのだ。感情を。勿論、彼女の前では必ず、
「さすったほうがいい?」
失敗する。
「ごめん」
接触は記憶に直結する行為だ。
「怖い」
私がそう答えれば、彼女は絶対に触らない。半身を起こした際に抱え込んだ毛布に顔を埋める。顔の表面はあらゆる体液でぐちゃぐちゃになっていたが、気にしていられるような余裕はない。きつく抱きしめ、私が私のものでありそれ以外の何物も私を侵犯しないことを確認した。何度も。いつまでも。
「タカノリ先生、結婚するんだって」
「本当にー? 全然男っ気無さそう」
「確かに。つか、先生って忙しいんでしょ? どこで出会い作ってるんだろ」
教室に向かう途中の廊下。すらりと手足の長い雛鳥達の楽しげなお喋り。微笑ましくもなるが、教職者として一応注意せねばならないことがある。
「こら、もうホームルーム始まる時間ですよ。教室に入りましょう」
「はーい」
重なる声。弾む返事。私も強く訓告はしない。一声かければ皆大人しく従ってくれる。常にはしゃいで、過剰にほとばしるみずみずしさを発散せずにはいられない年頃なだけ。
三人の背を促し、一緒に教室へ向かう。
「そういえば、タカノリ先生って結婚するって聞いたんですけど」
蒸し返すか。他人の恋愛事情はこのくらいの年齢の子たちにとって最も興味深い事項の一つ。致し方あるまい。
「はいはい、そういうのはいいの。入って入って」
背を押し、ごまかす。彼女たちは再び楽しげに、間延びした返事をより合わせた。
「ただいまぁ~」
よれよれと靴を脱ぎ、くたびれた足でリビングに向かう。空腹を誘う匂いが家中を満たしていた。キッチンからは炎が鉄板を焦がす音。もう一つ、ガスコンロが点火した。準備のいい人だ。
「記子」
落ち着いたアルト。筋肉質で背の高い、本人にとってはコンプレックスでも、私にとっては魅力でしか無い体躯。そんな声帯から奏でられる低音。
「ただいま」
「おかえり」
手伝おうか、と声をかけるよりも先に、彼女の手元に並ぶ食器が視界に映る。
「座ってて」
「はーい」
あまり似合わないのがまた可愛らしいエプロン姿に背を押され、そのまま着替えのために部屋へと向かう。廊下は木板のイミテーション。歩いても軋むことはないが、家の戸を開けた時よりも軽い足音だったことは間違いない。
目が覚めたのはいつもの場所。白い部屋。黄色い灯り。最初に感じるのは消毒液の臭い。ベッドは人の形にくぼみがある。割れた窓。星のない空。真っ暗な闇。生ぬるい風。立てかけられた木の棒はバットのような形をしており、まだら模様に黒く染まっている。
いつもの老婆。黒い服。否、もともとは別の色だったのだろう。まだら模様が汚らしい。ならばあのまだらはそこのバットと同じもので。彼女の手元にはいつもの籠。まだ作りかけだ。もう何年間も作り続けている。
「今夜こそ縺ゅs縺溘�蟄�を」
いつもの言葉。老婆の声は何度聞いても見た目よりも若い。鼓膜に傷跡を残されるような、忘れがたい残響。
「嫌っ……!」
震えるほどの大声でかき消す。悲鳴で喉が切り裂かれる。少し血の味がする。これは本当に私の血の味だろうか。疑問でこの夢から逃げようともがく。何度見ても何度聞いても全身の毛穴から汗が吹き出るようなこの感覚には慣れない。
私の足元、リノリウムの床には何かがいる。肉や骨や歯が何かの体液と血に塗れてうぞうぞと動いている。発声器官も備わっているらしく、視覚や嗅覚からの情報が一切無ければ猫の声のようにも聞こえる音を、どこからか発している。ぷんと鼻を刺すような臭い。何かが腐ったような、しかしどこか”襍、繧灘搖”を彷彿とさせるような匂い。これが、私の
「あんたの蟄蝉セ�だよ。さっさとしな」
がたがたと震える私の手に、いつの間にか黒いまだら模様のバットが握られている。手に馴染むそれを振り上げ、目を瞑る。私と床の間に横たわり、私の足の間から流れる血に濡れ、うぞうぞと蠢くそれを凝視できない。
「さっさと忘れちまいな」
思い切り、振り下ろす。硬く、柔らかく。
転がった眼球。開く口。
「かあさん」
絶命。
また、絶叫で目が覚めた。
「記子」
今夜の恵は反応が早かった。いつもは低血圧で、そして私のせいであまり寝起きは良くないのに。
「手」
自分でも意外なほどに、彼女の接触が、肌触りが欲しい。夢のあとに、人に触れたくなるのは初めてだった。
無言で時間だけが過ぎる。握った手だけが現実感を帯びている。
カーテンの向こうが明るくなってもそのままでいた。
「あ~、タカノリ先生。おはよー」
「おはよう」
囀る学生の一人に手を振る。朝の空気は清冽とは言えず、早くもじっとりとした空気がかろうじて残った夜の残り香を運ぶ。もう夏も近い。少しづつ垂れ込む雲の気配は、天気予報の的中を示唆していた。
駅のホームで二人並ぶ。ここはいつも私が使う車両で、彼女も普段は時間こそ違えど同じ場所から乗り込むのだろう。朝から教師と同じ電車だなんて、私が学生だったら気が滅入る。それでも彼女は、
「タカノリ先生と同じ電車って珍しいですねー」
などと呑気な声を上げる。教師受けのいい子だった。正真正銘のいい子なのだろう。太陽の代わりに彼女の顔が眩しい。
「あれ? 今日は朝練の日じゃなかったの?」
ふと浮かんだ疑問を問うてみる。
「あ、今日はちょっと」
他愛のない話のさなか、人身事故のナレーションが駅のホームに響き渡る。
「時間、掛かりそう……」
「月曜日から迷惑な話」
そのまま待ちぼうけ、立ちぼうけを食わされるホームの中の人、人、人。皆ざわざわがやがやとそれぞれの人生を生きている。薄氷のようなコンクリートから下に転がり落ちてしまえば、それこそ終わりだ。迷惑な話になってしまう。
「そういえば」
どうしようもないことを考えていた私に、無邪気に声をかける雛鳥一羽。
「先生って、どんな男の人と結婚するんですか?」
屈託のない笑顔。興味津々と言った眉毛。上気した頬は暑いからだけではないだろう。こういう話が、彼女たちは大好きなのだ。
「ここの車両にこの時間は乗れない人」
一瞬だけのフラッシュバック。コンクリートに押さえつけられた腕。捲られる服。あの日も曇り空だった。
「他の人には内緒にしておいてくれる?」
できるだけいたずらっぽく表情を作ったが、上手くいったかどうか。
「きったないねぇ、全く」
老婆はその肉の塊を、骨の混じった血溜まりを持ち上げる。ぼろりと歯が、眼球が、脳症が零れ落ちる。嫌気の差す表情を隠さず、編んだ籠に放り込む。
そのまま重たい遺体を抱え込み、じっとりと湿った夜気を掻い潜りながら川岸へと降りていく。そして
「よっこいせっと」
ごみを捨てるかのように、その生ごみを籠ごと川へと捨て去った。
「やれやれ」
布で手を拭き、携帯端末の表面を撫でる。
「あたしだよぅ。ようやく終わった。さっさと交代しとくれ」
老婆は伸びを一つして、ゆるゆると病院の中へ消えた。
私は産まれる。しかし生まれたことは一度もない。
此度も産まれた。そして倦まれて、膿まれて、生まれずに征く。
今瀬もまた。
舟はしばらく川を下り、そのうち沈んで夜に溶けた。
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