むすばずの街
くろかわ
地下鉄
目を覚ました。
眼が醒めた。
言葉の意味としては同じものであっても、それは全くの別物で、今の私の状態として最も相応しい言辞は前者だ。
目を覚ました。
視界に飛び込んでくる明かりは黄色っぽい色合いで、古ぼけた光りが目に鬱陶しい。どことなく白々しく映る中吊り広告の文字は頭に入って来ず、なんだか異国の文字に見えた。日本語、なのだろう。シルエットはよく見知ったものだ。丸く、四角く、ハネやはらいがある。生まれてこのかた日本から離れたことのない私にとって、馴染み深いはずの文字。
寝入っている間に無理な体勢になっていたのか、体の節々が悲鳴を上げている。おまけに口の中まで乾いて、舌が水分を求めている。欠伸ひとつついて、口を閉じる。言葉が出ない。音が干からびている。まるで真夏の昼間にコンクリートの上で死んでいる蚯蚓だ。拒絶の渇きに身体が潤いを求める。
ここはどこだろうか。
ここはどの駅だろうか、ではない。ここはどこなのか。その問は目を覚ますことと眼が醒めることの違いに近い。
(とりあえず、何か飲もう)
車輪の止まっていた電車からホームへ、のそりのそりと歩を進める。
電車は止まっていた。ずっと止まっていたのか、それとも止まったから私が目を覚ましたのか。
酷く曖昧で、しかし今の私にとってはどっちでも変わりは無いようにも思える。
かたりと古びたコンクリートを踵で踏む。靴。いつもどおりの靴。普段使いの革靴。
地下にある巨大な筒は生温い風がうねり、湿り気を帯びてどことなくよそよそしさを感じる。
ここは、どこだろうか。
立ち止まった私を無視して、動く気配の見えなかった電車が走り出す。
置いてきぼりを食らった気持ちだが、それはとても慣れ親しんだもの。
去ってしまった地下を動く箱を尻目に、自分の居場所を確認した。コンクリート。配線。レール。ホームに置かれた灰皿。蛍光灯ではなく白熱灯。橙色の地下世界。澱んだ空気。饐えた匂い。そして舌は水分を求めている。
ここからではどこにも人が見当たらない。孤独。寂寥よりも清々しさが強い。がたごとと音。別の階層で電車が過ぎ行く振動だろうか。ホームに響くそれは、人の存在を示唆するもの。だが、今は誰も欲しくない。置いてきぼりの空僻が心の欲する距離感だった。
水分を求めて辺りを見渡せば、ホームの中ほどに直方体とそれに描かれた見慣れないロゴ。自動販売機だろうか。丁度良い。もつれる足でふらふらと近寄る。疲れているのか、それともまたいつものことか。
凹凸のある黄色いタイルに足を取られながら自販機らしきものの前に着いてみれば、先客が一人。
少女だ。
和服のような出で立ちだが、手足や首など肌のほとんどは黒い布で覆われている。顔だけは布地ではなく、髪でその半分を隠している。流行りだろうか。若い子のファッションはわからない。そういえば最近は仕事に追われ、お洒落する余裕もなかった。いつもスーツにシャツだ。代わり映えの無い自分。少し、彼女が羨ましくなる。
そんな彼女は、自販機に向かって険しい表情を作っている。半分だけ。
迷っているのだろう。
後ろに並ぶ。急ぐ用ではない。ただ、渇く。
不意に。半分だけの笑顔がこちらに向く。
「縺薙s縺ォ縺。縺ッ」
聞き慣れた音のようで、初めて聞いた言葉のようでもあった。なんと言ったのだろうか。
見つめてしまう。彼女は表情を変えた。恐らく、私も同じ貌をした。驚愕。
散瞳。視界が昏い眩しさに包まれて、全ての理解を投棄していく。
固まる私をよそに、彼女はもごもごと口を動かし、
「こんにちは」
聞こえた。耳鳴りではない。脳が理解を拒否していたわけでもない。今は受け入れられた。さっきは、
「あの、お願いがあるんですが」
「えっ……あっ、はい」
驚いて固まっていた私。落ち着いた少女に誘われて、正気を取り戻しつつある。
どことなく人懐こい瞳に変わった少女。くるくると、ネコ科のような。それでいて何も映っていない海のような。
「ボタン、押してもらってもいいですか?」
あぁ、と情けない息を漏らした。舌がまだ湿り気を取り戻せない。ホームはこんなにじっとりと湿って、私の手も汗ばんでいるというのに。
彼女は手が届かないのだろう。みれば随分と小柄で、幼い頃の妹を思い出させる。
「どれ?」
最低限の音。最大限の努力。喉の奥で潰れて掠れて消えてしまった言葉はしかし、彼女にだけは届いたようで、
「一番上の一番左を」
見る。光るボタン。数字だろうか。上手く認識できないのか。ただの数字ではないか。うねうねと複雑な文字ではない。シンプルな、それでいて記憶に無い、けれどどこか見覚えのある、文字。数字。多分。きっと、また症状が出ているだけだ。昼の薬は飲んだだろうか。メモを見なければ思い出せない。それとも食事はまだだったか。曖昧で、足元が、揺れ、
がこん、とペットボトルが落ちた音。現実に帰る。指に感触の残滓だけが存在する。全ての行動を自動的に行えるよう努力してきた長年の結実。現実感のない現実。
「はい」
手に取り、渡す。冷たい。指先は現実にいつまでも残っていた。否、思考だけが惑っていた。ここはどこだろう。私は何をしているのだろう。答えるものも応えるものもいない。
居るのはただ、少女だけ。
「ありがとうございます」
にこりと。片方だけの頬を上げて。
「じゃあ、はい」
手渡したペットボトルが清冽さを保ったままに再び私の手に帰ってきた。
「え?」
「喉、乾いてませんか?」
渇いているのは喉ではなくて、
それでもさっきまでよりは、
言葉が
ふらふらと
ぐらぐらと
「ありがとう」
自動的に声が出る。掠れて消えずに音になる。誰かから何かを渡される経験はあまりない。だからだろうか、消失してしまうものも確かに形になって、音の波紋は彼女に届いた。
言いたいことは言葉にならない。言葉は言葉になった瞬間嘘になる。なぜなら言葉は真実ではなく言葉だからだ。だからこれは、ただの音でしかない。
「大丈夫ですか?」
よく聞けば、上背の低さ相応の見目にしては低い声だ。空気を削る音。不思議な喉はやはり黒い布に覆われている。昏い布が彼女を覆っている。
「うん、大丈夫、じゃないかも」
よろよろとへたり込む。
彼女は視線を合わせて、
「座りましょうか」
私の手を取り、ベンチへと誘う。
しばらく硬い安楽椅子の上で過ごした。何本かの電車が過ぎ去ったが、この駅に降りる者は誰もおらず、ここからどこかへ行く者もいなかった。彼女はずっと私の横にいた。黒で覆われた足をぶらぶらとさせ、イヤホンを片耳にだけ差して、両手で携帯端末をいじりながら。そして、空いたもう片方の耳と瞳は時折私の様子を伺うことも忘れなかった。
「あの」
どれだけ経ったかわからない。喉は乾いていたが渇きはもう覚えていない。椅子に座る少し前から、渇いてはいなかった。
「歩けそうですか?」
ざりざりと時空を削っていく不思議な声。声? 声。
「はい、すいません……」
「よかった」
コンクリートの床ばかり見ている。視線を交わす努力は放棄した。きっと、それでもいい。そう思わせてくれる不思議な包容力が彼女にはあった。
「あの」
「はい」
「お返し、しますよ」
立ち上がる。結局お茶を奢ってもらった形になっている。半分ほどの歳の、しかも見ず知らずの女の子に出会い頭にお茶を買ってもらった、などというのは情けないことこの上ない。
「あ、」
と口を開いた彼女。同時に財布を開き、百円玉を自販機のスリットに投入する。かちゃん、と空虚が響く。
「え」
同じような音が溢れる。単体では意味をなさない音。それだけでは価値のない財布。必要なのは中身。けれど、音の意味も市場経済においてのみ価値ある紙も金属の塊も、何故かその自販機は受け付けなかった。
「あ、あれ?」
焦って何度か試す。
かちゃん。かちゃん。かちゃん。
紙幣も同じだった。入れた口から吐き出される偉人の肖像画は、私の焦燥を嘲笑う。笑う声が聞こえる。聞こえるはずのない声が。
嫌な汗が吹き出す。再び視界がぐるぐると廻り始める。世界がゆらゆらと揺れ始める。まるで錨を失った小舟が荒波の夜に放り投げられたかのような感覚。
それを、
「ありがとうございます」
ひんやりとした手で、目路を固定される。
「いいんですよ、気持ちだけで」
じっとりと体に張り付く嫌気が、囁き一つで霧散した。言葉とは裏腹に、その手は怜悧な感触を残した。左手の薬指だけ黒い布はなく、そこには指輪が嵌っている。
少し何か食べましょう、と言われて手を引かれる。コンクリートでできた階段をよたよたと登り、彼女に追いすがる。彼女は一段一段ゆっくりと踊るように歩く。誘われるように、上へ、上へと下っていく。
やがて、街に出た。勿論地下鉄のホームから上がれば街がある。当然だ。当然のはずだが、何かが喉の奥につかえたような、どこかで大事なものをなくしてしまったかのような、そんな凝りが微かに残った。理由は見つからずじまいで、必死に階段を登っていくうちに消えてしまったが。
日頃の運動不足が祟る。足を止め、彼女を呼び止め息をつき、ぬるくなってしまったペットボトルの蓋を初めて開ける。声を掛けるまでもなく彼女はそこにいた。口をつけて下を潤そうとする私をじっと見ている。目が合う。喉に液体が滑り込む。最初に異臭が、そして妙な苦みが舌先を麻痺させる。驚いて思わず咽る。ごぼごぼとペットボトルの液体に溺れる。涙目になりながら彼女を探せば、半分だけの苦笑いでこちらに手を差し伸べ、
「大丈夫ですか」
背中を擦られる。何度めかの『大丈夫ですか』の問い。頷きを返し落ち着くまでのしばし背中の陶磁のような手のひらに身を委ねる。
「大丈夫です……酷い味ですね……」
苦笑を返される。残った泥のような味の液体を彼女は持っていた。
顔を上げれば頬に熱気を感じる。人の熱。街の熱。営みの熱。当然だ。街なのだから。
星空はどこにもなく、代わりに電球や提灯が濃い暖色を発して街路を彩っている。左右の建物は大きく空へとせり出し、ところどころアーチにすらなっている。正面を見れば出店と人混み。やはり印象は赤、黄、橙。どぎついネオンが色を添え、極彩色で視界がちらつく。まるで夏の屋台通り。
随分長いこと駅のホームにいたようで、真っ暗な空。それに、こんな場所が都内にあっただろうか。疑問が形をなす前に
「ほら」
手を引かれる。まるで、気のおけない友人のように。
「あっ待っ」
声が意味を結ぶ前に奥へ奥へと、ひらりひらりと蝶のように舞う。誘蛾灯を目指す虫のように後を追った。
「いらっしゃい」
出店の前で彼女は止まった。なんとなく芳しい匂いがする。そういえば、と忘れていた空腹を思い出した。
「繝√Ι繧ウ繝舌リ繝�、二つください」
まただ。聞こえない言葉。
「はいよ、チョコバナナ二つ」
「え?」
にこにこと半分だけの顔で笑う彼女。聞こえた音。意味を結ぶ声。
「でも、お金……」
「なんだ、持ってねぇのか」
店主がチョコバナナ二つを手に、呆れ顔でため息をつく。
「ま、しょうがねぇな」
仕方ないのか。困惑のまま、思わず受け取る。
「この人、お願いしてもいいですか?」
少女は無邪気に問う。恐らく私はこの世の終わりのような顔をしていたのだろう、二人は別々の表情で笑う。
「取って食ったりしねぇよ。ほら、タダ飯食うのは嫌だろ。食ったらこっちこい」
手招き、手を振り、取り残された。
「あの、私こういうの初めてで……」
そりゃそうだ、とそっけなく返される。
「教えてやるから、バナナ代くらいは稼げ。なに、やってみりゃ簡単だ。それと、」
手元を指さされ、
「まずは食ってからだ。な」
にかりと、彼女とは違った、しかし人懐こい笑みを向けられた。
口に入れたチョコバナナは刺すような苦味を発したが、次第に濃厚な甘さが口腔を支配していった。
「美味いか?」
迷う。もう一口。甘い。だから、
「はい」
もう、苦味は無くなっていた。
がたたん、がたたん。電車が通る。
ホームの屋根の上に座る少女。和服のような出で立ちだが、手足や首など肌のほとんどは黒い布で覆われている。顔だけは布地ではなく、髪でその半分を隠している。曇天に舞う鴉。鳥。カラス。輪を描いて少女と戯れる。弧を描いて指先へ。唯一黒い布のない、左手の薬指へと止まった。
携帯端末が震える。
「あら、あなた」
空気を削るような音。
「頑張って。私は千人殺すのよ。あなたは千五百人産むんでしょう?」
女の笑みに風が薙ぐ。めくれ上がった髪の下には、火傷の痕が生々しく刻まれていた。
―――○○線は只今、人身事故の影響で運転を見合わせております――――
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