みみ。

 僕は彼の低く甘いテノールを左耳で聞く。右耳は、彼の左手にやわく弄ばれる。小さく身をよじって、彼の左の耳朶を食んだ。

「君の声はいつも僕を惑わせる。君には、きちんと恋人がいるというのに」

 囁く声が低くなる。テノールからバスへ。

「今そんなこと言うな」

 く、と息をのむ。勘違いしそうになる。僕は、彼のたまの遊び道具でしかないのに。近づいてきたのは彼の方だったけれど、特別な感情を抱いてしまったのは僕の方だった。普段は高校からの友達。けれど、ときどき気まぐれで同性の僕を抱く。そのときだけ、僕に愛を囁く。僕はそれに心地好ここちよく沈んでいく。

「俺は、お前が好きだよ」

 知っている。 ただ、それが僕の好きとは違うというだけ。親友、だものね。彼の耳元で、聞こえないように呟く。

 なんて寒々しい響きだろう。そんなもの在りはしない。在りはしないと、僕は身をもって知ったのだ。


「  」

 あの日、僕の耳に囁かれたのは知らない女性の名前だった。素肌を擦り合わせたあとに、現と微睡まどろみのあいだを行ったり来たりしているときだ。ふと、身体があたたかいものに包まれるのを感じて、目をあけた。目の前には肌色しかなかった。はたはたと二度瞬きをして、状況を把握する。僕は彼に抱きしめられていた。抱き枕のようにしっかり抱きすくめられ、身動きがとれない。何とか首を動かしてよく眠る彼を見上げる。どんな夢を見ているのだろうか、幸せそうに微笑んでいる。ふ、と笑んで彼に頬を寄せると、彼は呟いたのだ。

「  」

 その瞬間、幸せな気持ちは僕の中から一瞬で消え失せ、ざあっと身体が冷え渡った。

 それは、恋人の名前? 僕が欲してやまない、君の恋人という立場の女の子の。

 あぁ、君はやはり、恋人がいちばん大切なんだね。

 だけど、ごめんなさい。今だけは。

 彼の日に焼けた肌に耳を寄せる。どくん、どくん、と規則正しい鼓動が耳に心地好い。

 今だけは、この鼓動は僕のものだ。

 どくん、どくん。

 どくん、どくん。

 しゃ、と鼓動に衣擦れの音が混じった。彼が寝返りをうったのだ。あぁ、僕の身体から腕がほどかれていく。待って、行かないで。僕を置いて遠くへなんて。こんなわがままが許されないことはわかっている。だけど、君に抱かれたこんな日には、自分に歯止めがきかなくなる。

 彼を追って近づき、耳元へ口を寄せる。

「好きだよ」

 ごめん。君が寝ているときくらいは、声に出すことを許してほしい。

 耳にかかる息がくすぐったかったのか、彼は小さく呻くと、うっすら目をあけた。僕と目が合うと、ふ、と優しく笑んだ。

「おはよう。何で泣いてんの?」

 そう言われて初めて、自分が泣いていることに気がついた。

「……何でもないよ」

 君の、いちばんになれないからだよ。

 その言葉を飲み込んで、涙を拭って、笑った。彼はまだ寝惚け眼な顔のままで、

「……何か、嫌なこととかあったなら言えよ。何でもいいから」

 と言った。

 こんなときだけ優しいところとかだよ。

 それもやっぱり言えなくて、僕は黙って笑っているしかなかった。


「どうした? ぼーっとしてるけど」

 左耳にまたテノールが聞こえてきて、僕は我に返った。

「あ、ごめん。少し、考え事をしてた」

「何考えてたんだよ?」

 君と僕のことだよ。明るい未来の見えない、君と僕の。……何だか、君には本当に言いたいことを黙ってばかりだな。

 思わず苦笑した僕を見て、彼は珍妙なものでも見るような、不思議な表情をした。

「……変なやつだな」

「悪かったね、変で何考えてるかわかんなくて」

 むっとして答えると、彼は楽しそうに笑った。

「違うって、そういうとこも好きってことだろ」

 そう。僕が今聞きたいのは、その言葉だけだ。恋人のことなんて忘れて、僕を見て、僕のことを考えていてほしい。


 刹那いまだけでいい。この一瞬だけでいい。どうか、僕の耳に、僕だけの愛を囁いて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る