みみ。
僕は彼の低く甘いテノールを左耳で聞く。右耳は、彼の左手にやわく弄ばれる。小さく身を
「君の声はいつも僕を惑わせる。君には、きちんと恋人がいるというのに」
囁く声が低くなる。テノールからバスへ。
「今そんなこと言うな」
く、と息をのむ。勘違いしそうになる。僕は、彼のたまの遊び道具でしかないのに。近づいてきたのは彼の方だったけれど、特別な感情を抱いてしまったのは僕の方だった。普段は高校からの友達。けれど、ときどき気まぐれで同性の僕を抱く。そのときだけ、僕に愛を囁く。僕はそれに
「俺は、お前が好きだよ」
知っている。 ただ、それが僕の好きとは違うというだけ。親友、だものね。彼の耳元で、聞こえないように呟く。
なんて寒々しい響きだろう。そんなもの在りはしない。在りはしないと、僕は身をもって知ったのだ。
「 」
あの日、僕の耳に囁かれたのは知らない女性の名前だった。素肌を擦り合わせたあとに、現と
「 」
その瞬間、幸せな気持ちは僕の中から一瞬で消え失せ、ざあっと身体が冷え渡った。
それは、恋人の名前? 僕が欲してやまない、君の恋人という立場の女の子の。
あぁ、君はやはり、恋人がいちばん大切なんだね。
だけど、ごめんなさい。今だけは。
彼の日に焼けた肌に耳を寄せる。どくん、どくん、と規則正しい鼓動が耳に心地好い。
今だけは、この鼓動は僕のものだ。
どくん、どくん。
どくん、どくん。
しゃ、と鼓動に衣擦れの音が混じった。彼が寝返りをうったのだ。あぁ、僕の身体から腕が
彼を追って近づき、耳元へ口を寄せる。
「好きだよ」
ごめん。君が寝ているときくらいは、声に出すことを許してほしい。
耳にかかる息がくすぐったかったのか、彼は小さく呻くと、うっすら目をあけた。僕と目が合うと、ふ、と優しく笑んだ。
「おはよう。何で泣いてんの?」
そう言われて初めて、自分が泣いていることに気がついた。
「……何でもないよ」
君の、いちばんになれないからだよ。
その言葉を飲み込んで、涙を拭って、笑った。彼はまだ寝惚け眼な顔のままで、
「……何か、嫌なこととかあったなら言えよ。何でもいいから」
と言った。
こんなときだけ優しいところとかだよ。
それもやっぱり言えなくて、僕は黙って笑っているしかなかった。
「どうした? ぼーっとしてるけど」
左耳にまたテノールが聞こえてきて、僕は我に返った。
「あ、ごめん。少し、考え事をしてた」
「何考えてたんだよ?」
君と僕のことだよ。明るい未来の見えない、君と僕の。……何だか、君には本当に言いたいことを黙ってばかりだな。
思わず苦笑した僕を見て、彼は珍妙なものでも見るような、不思議な表情をした。
「……変なやつだな」
「悪かったね、変で何考えてるかわかんなくて」
むっとして答えると、彼は楽しそうに笑った。
「違うって、そういうとこも好きってことだろ」
そう。僕が今聞きたいのは、その言葉だけだ。恋人のことなんて忘れて、僕を見て、僕のことを考えていてほしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます