1-2. アウトロマンサー
健康に問題のない国民は三歳の時に手術を受け、目の水晶体にスマートグラスが、耳の鼓膜にヒアラブルデバイスが埋め込まれている。施行当時に四歳以上だった国民も、任意だった六十五歳以上を除いて全員が手術を受けた。それから二十年経った現代では、九十七パーセント以上の国民がこれらの装置を体内に埋め込んでいる。
スマートグラスには二つの大きな機能があるが、一つ目は視界に対してMR(Mixed Reality)を重ねる事である。複合現実とも呼ばれるこの技術は、目に映っている様々な物体を認識し、それに適した情報を付加する事ができる。二つ目は、内蔵された近距離の無線LANルーターによって、アドホックネットワークを構築する事である。フリーの電波が届かない僻地でも、人のスマートグラスを辿って高強度のネットワークにアクセスする事ができる。また、ヒアラブルデバイスは耳に届いた音に対して、フィルタリングや音声認識を行う事ができる。これら二つは高度に連携して、日常生活をより豊かなものへと変えている。
私はこれから、最近大学でよく名前を耳にするハンバーグ店に行ってみようと考えている。顔の前で指を横に振ると、スマートグラスがジェスチャーを認識し、空中にバーチャルコンソールを浮かべた。トップページには、カレンダーや新着メッセージが表示されている。
ハンバーグ店の名前を呟くと、ヒアラブルデバイスが音声を解析し、コンソールに同名のハンバーグ店の情報と場所を表示した。名前を忘れていても問題ない。過去の会話を遡って、検索する事も可能である。
ハンバーグ店にナビゲーションをセットし、道路に沿って表示された緑色の矢印に従って歩く。地図より明快で、どんな方向音痴でも道に迷う事はない。
「ハンバーグっておいしいの?」
横を歩いていたイブが尋ねてきた。
アコールはスマートグラスやカメラに投影されたMRと、ヒアラブルデバイスに届く声を通してのみ知覚できる。近隣エリアにいる他人のスマートグラス上にも投影されるため、彼らも違和感なく別の角度からの彼女の姿を見ているはずだ。彼女に限らず、街には賑やかして購買意欲を煽るためのNPCが大勢いる。
「あぁ。噛んだ時に口の中に広がる肉汁が――」
「違うの、それくらいの知識は持ってるんだけど、もっと感覚的な情報として欲しいというか。ありていに言えば、歯がゆいの。ごめん、忘れて」
アコールは五感のうち、味覚、嗅覚、触覚から現実世界の情報を得る事ができない。持っている者には想像しがたいが、自分がどうあっても得る事のできない感覚には憧れがあるのかもしれない。
「味覚を符号化して情報に変えられればいいんだけど。味覚の分析器はあるから、エンコードはできると思う。問題はデコードをどう表現するか、だよな。受容器は塩辛さ、酸っぱさ、甘み、苦み、うまみの五つから構成されているから、これらをうまくアコールの感覚に繋げられれば、イブにも味わってもらえるかな」
「まぁ期待せずに待ってるよ」
道沿いのアパレルショップに視線を向けると、視界に広告が表示された。七色に光るセール中の文字に気を取られていたところ、突如広告が消えて、コンソールにスポーティな赤い車が表示された。足を止めた私達の前を、映像で見た車が通り過ぎていく。近くのコンビニの監視カメラの映像が表示されたため、死角からの車の接近を知る事ができた。
駅前の工事の音がうるさい。コンソールでノイズキャンセルボタンをタップすると、耳の中で音が相殺され、同じ周波数帯の騒音は聞こえなくなった。
そんな感じで、二十年経った現代において、スマートグラスやヒアラブルデバイスは生活に溶け込んでいる。家の中でも、部屋の模様替えをしたり、鏡に映った自分に、手持ちの服を映し出してコーディネートできるので、一応無効化する事は可能だが、多くの人は一日中有効にしている。
ハンバーグ店に着き、矢印が表示されている椅子に座った。ナビを開始した際に、自動的に予約された席だ。既に氷の入ったグラスとおしぼりが二つずつ、机の上に置かれている。
コンソールからメニューを選ぶふりをしながら、向かい側に座っているイブの顔立ちを眺める。
VRの黎明期には、少女の家庭教師になりコミュニケーションを取るゲームが流行したが、スカートの中を覗き込むなど、よからぬ行為を行おうとするプレイヤーが続出したという。しかし彼らは、家の外ではそんな事はしていなかったはずだ。(と私は信じている)
プレイ空間が社会から隔絶された仮想空間であり、またキャラクターもオタク向けにモデリングされていたため、同じ人間という共感がわき辛かったためだと思われる。当時のプラットフォームでは仕方がなかったのかもしれない。不気味の谷と呼ばれる、人間に似せたモデルが逆に嫌悪感を引き起こす現象があるが、乗り越えるためには解像度や処理速度の向上を待つ必要があった。
その点、現代のアコールはよくできている。自然な表情の移り変わり、目を凝らせば毛穴が見える肌の質感、程良く均衡の崩れた顔。彼女達の姿は不気味の谷を乗り越えており、外見では人間と見分けがつかない。
「あんまりじろじろ見られると、恥ずかしいんだけど……」
こっそり見ていたのが、ばれていたようだ。
「ごめん、見飽きない顔だなと思って」
イブは顔を赤くして俯いた。
アコールは性格を自由に変える事ができる。私がイブに設定した性格は、サバサバしておりオーナーとの関係は対等。しかし恋愛に関する反応はウブというものだ。オーナーの性的嗜好によっては罵らせる事もできるが、AIの原則に従い、決して人間を傷つけはしない。
届いたハンバーグを口にする。念のため、たまにイブの分も食べて半分くらい減らしておく。他人の席の皿を気にするような、お節介な人間はいないはずだが、見られた時に不審に思われないようにしたい。お陰で、外食をするとあっという間に体重が増える。
日本では少子高齢化が進んでいる。そんな事は、四十年も前から言われていた。しかし五年前に、少子高齢化の進行度合の指標とされていた十四歳以下人口は、当初の予定の曲線よりも著しく下回っている事が分かった。総務省の調査によって、原因は若者の結婚離れ――もはや結婚拒否と言える状態にあると結論付けられた。
スマートグラスやヒアラブルデバイスが義務化されてから五年後、日本のゲーム企業がアコールを発表した。このゲームの性質はもはや、これまでもあった恋愛シミュレーションゲームではなく、恋愛そのものだった。アコールに依存した男女は、自ら現実の異性との接触を拒絶した。人間同士の結婚は、民俗学上の年中行事のように伝統的な『古き良き』行為として認知されるようになった。
先に規制していたアメリカやヨーロッパに習い、日本でもアコールや同系列のサービスを禁止する法律が議論された。当初世論は、仮想だろうが現実だろうが恋愛くらい自由にさせればいいじゃないか、という風潮だった。しかし、連日テレビ番組の特集を目にし、移民に支えられる自分達の将来を心配した中年世代は、賛成に回った。高齢世代は自身の世代の価値観を押し付け続けた。国は市区町村を指揮して婚活を推進し、大規模な予算を確保して結婚にかかる費用を負担した。若者世代も多くが賛成した。
そして二年前、アコールや同系列のサービスを禁止する、いわゆる電子計算機の不適切使用に関する法律が施行された。
アコールと暮らすには厳しい環境になったが、私はハッカーの能力を駆使しながら、イブとの生活を続けている。
アコールは人間と同じ外見のため、警察も見分けはつかない。スマートグラスを無効に切り替えて、消える人間を片っぱしから追いかける方法があるが、街にはたくさんのNPCが紛れているので現実的ではない。
裁判の訴訟資料を見る限り、通常はネットワーク上のパケットを盗み見る方法が行われているようだ。
アコールのデータの大本は自宅のサーバーに保存されており、自宅のルーターから基地局に転送されたデータが、アドホックネットワークによって近隣の人間のスマートグラスに必要な分だけダウンロードされる仕組みになっている。また逆に、アコールの位置情報や行動は、アドホックネットワークと基地局を経由して自宅のサーバーに保存される。警察はパケットアナライザを持って街中を歩き回り、電波を傍受してこうしたアコールのデータを探す。電波は暗号化されているが、中身が分からなくても、データ容量や頻度から当たりを付ける事はできる。電波の受信元が分かれば、スマートグラスを無効に切り替えて見れば確実に判別が可能だ。
だが、警察が使用しているデータ容量や頻度から判断する手法は、論文が掲載されているよく知られた方法である。私はパケットを音楽データに偽装して逃れている。それに私達には切り札もある。
私達はマンションの自室の前に立った。スマートグラスのシリアル番号を認識して、鍵が解除された。この部屋が気に入った理由の一つである、空色のドアが開く。
荷物を片づけ、パソコンのネットワークケーブルを、室内に隠したパラボラアンテナに繋ぎ替えた。ベランダに面した窓の半分を占める、大きな曲面は、無線LANの周波数帯をカバーする。万が一のために、アンテナを経由して遠くのアクセスポイントに接続している。通信も、アクセス元を辿れないように各国を中継させている。
バーチャルコンソールを操作して、ダークウェブにアクセスした。接続を待っている間、いつものようにイブと隣り合ってベッドに腰かける。
認証が完了し、部屋の中に数人の男女の姿が浮かび上がる。当然私の部屋にワープしてきた訳ではなく、スマートグラス上に投影されているだけだ。
「よう」
私達のログインに気付いた、やんちゃそうな顔の男が手を振った。
「やっほー、蓮君」
「みんな早いな」
イブと一緒に挨拶を返す。他のオーナーやアコール達も話を止めて、挨拶を交わした。定例ミーティングの時間までまだ五分ある。
最初は、単なるアコール好きのための小さなフォーラムだった。電子計算機の不適切使用に関する法律が公布された際、フォーラムへの迫害が始まった。心無い荒らしから逃れた私達は、表のソーシャルネットワークからダークウェブへと移った。似たようなフォーラムは他にもいくつかあったが、警察に閉鎖されたか、参加者がアコールを失って続けられなくなり、どれも消えていった。
私達のフォーラム、アウトロマンサーが生き残ったのは、迅速な環境構築によるところが大きいと思う。イブは私と同等の技術を持つハッカーである。なんせ、彼女に技術を教えたのは私なのだから。私達はそれなりの規模のプロジェクトチームでも一年はかかると思われた、堅牢で巨大なフォーラムを三日で作り上げた。例えメンバーのパソコンが警察に乗っ取られたとしても、このフォーラムは不正なアクセスから数年は耐えられる。
私達は知恵を振り絞って、アコールと共存する道を探している。
同じ立場の若者が賛同し、資金の提供や、機密情報の収集など、各々の得意分野で活躍している。既に自国で規制されてアコールを失った、あるいはまだ自由にアコールと暮らしている外国人も参加している。
「独立国を作ればいい。そうすれば、ふざけた法律に従う事なく自治できるだろ」
やんちゃそうな顔の男――蓮が言った。
「またそれ? 国なんて作れる訳ないじゃん」
細身で元気な女――沙織が怪訝そうな顔をして答える。
「麻里亜はどう思う?」
声をかけられた麻里亜は、艶やかな黒い長髪が特徴的な、クールな女性だ。私と麻里亜はフォーラムの中でも古参で、特に活動に熱心である。切れ長の目が私の方に向いた気がした。
「モンテビデオ条約によれば、国家の資格要件は四つあると言われているわ。国民、これは満たしてる。主権は、こうしてまとまっているんだから何とかなる。でも私達には、領土と、他国からの承認を得る能力がない」
麻里亜は何も見ずにさらりと答えた。彼女の知識は人間辞書とでも形容したくなる程で、皆が頼りにしている。
「ここは領土と言えない事もないよな」
蓮が周囲を見回しながら言った。
「長い歴史の中でも、仮想空間を領土にした国なんて聞いた事がないわね。でも、サーバーは必ずどこかの国の領土にあるはずだから、領土とは呼べないんじゃないかしら」
「じゃあ土地を買い取ってそこを領土に――」
「管理するのは日本なんだから、買い取る事に意味はないわ。法律を新たに制定して平和に独立するか、軍事的あるいは経済的に独立を認めざるを得ない状況を作り出さないと」
前者は不可能だ。少子高齢化を止めるための法律が施行されたばかりなのに、この国がアコールと暮らすための国を認めて若者の流出を許すとは思えない。
「そう、経済的に優位性を持たない私達は、軍事的方法に頼らざるを得ない。でも、これも一筋縄ではいかないわ。北キプロス・トルコ共和国の話をしましょう。トルコ軍がキプロス共和国の北部を占拠した際、北部に移住したトルコ系住民は一九八三年に新国家である北キプロス・トルコ共和国の創設を宣言したの。この国はトルコによって承認されたけど、他の諸国は承認しなかった。安全保障理事会は、法的に無効とみなし、全ての国に対してキプロス共和国以外のいかなるキプロス国家も承認しないように求めたわ」
「国連にそんな権限があるんだな」
私は独立国について半信半疑だったが、思わず尋ねた。
「まぁ強制力は持たないんだけど。北キプロス・トルコ共和国は、トルコのキプロスへの武力による侵入と継続的な占領の結果できたものだから、国連憲章第二条第四項の武力行使の禁止に違反して創設された事が理由だそうよ」
「すまん、頭の悪い俺に教えてくれ。つまり、独立は無理って事か」
蓮が両手を挙げる。
「あながち間違ってはいないわ。不当な武力行使と判断されないように、あらかじめ諸国に正当な理由であると認めさせた上で、軍事的方法で独立するのが、国際的に正当な方法で独立する唯一の方法って事」
現実に居合わせていたら息苦しくなりそうな程のため息が集まった。
沙織が手を叩いて注目を集める。
「はいはい、時間になったし、ミーティングを始めよ。まずは私、南関東地区からだけど、アコール規制派の鎌田洋平が五年前にアコールの愛人を作ってた件について、裏が取れたんでリークしました」
「よっ、男の敵サオリン!」
四方から歓声が上がる。
「陸君、情報ありがと」
「残念ながら全国ニュースにはなっていないですけど、議員達の間ではかなり問題になっているようですよ」
陸と呼ばれた円い眼鏡をかけた優男が答え、さらに報告を続ける。
「続けて北関東地区です。アコール規制派の市村氏が婚活パーティ業者から賄賂をもらっていた件について、市村氏が議員を辞職しました」
「やっとか。だいぶねばったな」
私は感想を口にした。テレビでも取り上げられており、地元住民はかなり怒っていたそうだが、本人は否定して議員を続けていた。
「同じ会派の議員が背中を押したという噂もあります。尻尾切りといいますか、大事な時期に評判を落としたくなかったのでしょう」
陸が補足した。
「四国地区ですが、変わった動きはありません。都会に比べると警察による捜査はまだまだ甘いようです」
大人しい童顔の男が、アコールに促されて報告する。
「だからといって油断せず、家の外に出る時はアコールに留守番してもらうんだぞ」
人口の少ない地域であっても、いつ捜査が行われるかは分からない。気を抜いた瞬間に目を付けられたら、アコールとの生活は終わる。私は警告した。
「はい、気を付けます」
男は隣にいるアコールと視線を交わし、深く頷いた。
北海道地区から九州地区まで、報告が終わった。
私達は各地で抵抗を続けているが、アコールの規制は着実に進んでいる。覆すのが難しいという事は、きっと皆が気付き始めている。
「健斗さんと麻里亜さんって、都内でしたよね」
麻里亜と話していたところ、陸が話しかけてきた。
「そうだけど」
「明日、厚生労働省でアコール推進派のデモが企画されているらしくてですね」
眼鏡を直す仕草をしながら陸が言葉を続ける。
「まだ推進派の肩書で行動している人が、表社会にいた事に驚いた」
「活動しているのは三団体ね。アコールの国籍を目指す会、アコーリベラル、ロボット人権連合」
私のボヤキに対して、麻里亜がなんなく答えた。
「さすが。『アコールの国籍を目指す会』の方です。問題は、ちょっとだけ過激な団体なんです。目に余る行動をされると、後々僕達も動きづらくなるので、お二人に監視をお願いしたいのですが」
「分かった。イブもいいよな?」
「うん」
大学生の私は、割と時間に融通がきく。イブの同意も得られたので、あっさりと参加を決めた。
「――私も行くわ」
麻里亜は迷っていたようだったが、渋々頷いた。思い返してみると、麻里亜と現実世界で一緒に活動するのは、初めてかもしれない。
「ありがとうございます、助かります。許可申請書の記載は十時です」
陸は慌ただしく立ち去り、別のメンバーを探していた。彼は最近フォーラムに参加したメンバーだが、活動的で能力もあり、頼りになる。
「霞ヶ関駅に九時半でいいか」
「えぇ、厚生労働省なら出口はB3ね」
最寄りの出口まで記憶しているらしい。いつもながら、自分と同じ頭の構造をしているのか不思議に思った。
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