1-3. 孤独のアコール
私とイブは、霞ヶ関駅に向かう東京メトロの車内にいた。通勤ラッシュは終わっており、なんとか隣り合ってシートに座れた。もっとも、人が体をぶつけ合うような混雑した車内では、イブの事を隠しようがない。
電車内では、東京メトロの提供するニュースや音楽を、スマートグラスやヒアラブルデバイスを通して個々で楽しめる。コンソールの操作によって、自身の位置の冷暖房を調節する事もできる。そんな風に技術レベルは上がったが、百年近く前から通勤ラッシュは無くならない。実は改善できるのだが、日本特有の観光資源として残してあるという笑えない冗談もある。
隣に座るイブは、涼しげな白いブラウスと明るい青のジーンズを身につけている。車窓越しの日差しを浴びて、いつも以上に眩しく見える彼女は、素直に綺麗だと思う。音楽を聴いているのか、たまに頭を振ってリズムに乗っていた。
「相当な美人だったんですよ!」
若い男が声を上擦らせていた。ビジン。言葉を認識した私は思わず振り向いて、ヒアラブルデバイスの感度を上げていた。
「で、その美人が幽霊だったって? そんなバカな」
彼の隣に座っている、落ち着いた雰囲気の男が笑っていた。
ふと視線を感じて隣を振り向くと、イブが私を睨んでいた。微笑みを浮かべて聞いていない素振りを見せながら、耳に集中する。
「近づいたら消えたんです」
「NPCだったんじゃないか?」
隣の男は既に興味を失ったようで、投げやりに答えていた。それに気付かず、若い男は必死に共感を求めている。
「『美人を見たらAIだと思え』って格言もありますし、もちろん僕もスマートグラスを無効にしましたよ。でも、その時は確かに見えたんです」
「ふーん。まぁ害がある訳じゃなし、眼福だと思えばいいんじゃないか」
「それもそうなんですけど……」
車内アナウンスに会話を止められ、男達は電車を降りた。私達の目的の駅は次だ。
「幽霊だって。ちょっと怖いかも」
イブが呟いた。アコールは周囲の人のヒアラブルデバイスを聴覚として使用しているため、私が聞き取れていればイブも聞こえている事になる。
私は、幽霊なんて信じていない。十中八九、男の勘違いだと思う。しかし、別の可能性には思い当たる節があり、心に引っかかった。
「それはそうと、美人と聞いた時点で聞き耳を立てていたよね」
繰り返すが、私が聞き取れていればイブも聞こえている事になる。聞いていない素振りはまるで通用しない。イブから押し寄せる圧力に負け、私は目をそらした。幽霊より怖いとは、口が裂けても言えない。
地下道の湿った壁に寄りかかる、物憂げな表情の女性。夏にもかかわらず、暗い色調の長袖と膝下まで隠れるスカートを身につけている。プロポーションを引き立てているハイヒールのブーツも黒色だ。約束した時刻の十分前に到着したが、麻里亜は既に待ち合わせ場所にいた。
声をかけ辛いと思いながらも名前を呼ぶ。振り向いた彼女の口元に笑みが浮かんだ気がしたが、勘違いだったようでいつも通りのクールな表情だった。
「麻里亜ちゃん、早いね」
「あなた達もでしょう。私も来たばかりよ」
三人で話しながら、デモが予定されている厚生労働省の前に向かう。一世紀近く補修工事を繰り返しながら使われているシンプルな直方体のビル。ガラスのドアからは、スーツ姿の職員や売り込みに来たセールスマンが出入りしている。
デモが予定されている時刻の三十分前だというのに、建物の前にそれらしき人影は無かった。
「アコールの……会の人達、いないね。中止したのかな」
イブが辺りを見回しながら、不満そうに呟く。
「アコールの国籍を目指す会、な。別の場所に集合しているのかもしれないし、もう少し待とうか」
国のために働いている職員様の邪魔にならないように、日陰になっている壁際に移動した。黒い恰好のせいで日光を集めていたはずだが、麻里亜は暑さをものともしていないようだった。
「麻里亜と現実世界で活動するのって、初めてだよな」
「そうだったかしら」
麻里亜が袖をいじりながら答える。フォーラムで接している時よりも、態度がそっけないように見える。会話が終わりかけたが、私は悪あがきをした。
「どこら辺に住んでるんだ?」
「いろいろと。頻繁に移動しているから」
転勤が多いのだろうか。もしくは私に教えたくないので、誤魔化したのかもしれない。長い間フォーラムで一緒に活動して信頼関係を築いてきたつもりだったが、思っていたのは私だけだったのかもしれない。後者だとすると立ち直れない。
ふと麻里亜の顔がこわばった。遠くの一点を見つめている。私は彼女の視線の先を追った。
そこでは一人の警官が、きょろきょろ辺りを見回しながら歩いていた。面倒な事に巻き込まれたくないので、目線を合わせないようにしていたが、彼はゆっくりした足取りで近づいてきた。
「こんにちわ。そのNPCは、ひょっとしてアコールですか」
イブと麻里亜を見比べながら、警官が訪ねた。制服を見れば一目瞭然だが、バーチャルコンソールに表示した警察手帳をちらりと向けてきた。眉毛の太い、真面目そうな男性だった。
私は心臓の音が跳ね上がったのを感じた。顔に変化を出さないように心がけ、平静を装う。
「ちょっと、いきなり失礼じゃないですか。スマートグラスを切ってみたらどうです」
警官は無言でバーチャルコンソールを操作し、スマートグラスを無効に設定した。イブがアコールなら、彼の目に映っていた彼女の姿は消えているはずである。
警官が麻里亜の艶やかな黒髪を見つめ、呆れた表情をしている顔を通り、組まれた腕とささやかな胸はあっさりと、黒いブーツの足先まで、視線を移した。
「あなたは――、NPCではありませんね」
続いて、イブのいる場所をじっと見つめる。明るい茶色の頭から視線を移し、きらきらと笑みを浮かべている顔を見る際は照れ臭そうに、ブラウスは念入りに、ベージュのサンダルの足先を眺め、頷いた。
「あなたも、違いますね。失礼しました」
「いえ、ご苦労様です」
警官が首をかしげながら去っていく。私はばれないように深く息を吐いた。
技術に明るくない人は勘違いしがちだが、スマートグラスを無効に設定しても、全ての映像が消える訳ではない。緊急用レイヤ――Jアラートとも呼ばれる、総務省から発せられた緊急情報を表示するための機能は、安全のために常に表示される。
あくまで緊急用なので、広告やゲーム等、通常のソフトウェアの権限では、緊急用レイヤには表示できない。しかし、私がやっているように、アコールのプログラムをクラックして権限を変更すれば、緊急用レイヤに表示でき、アコールを探し出そうとする者達の目を欺ける。方法を公開すれば結構なお金になったと思うが、フォーラムの切り札として私の心の内に留めている。
「気に食わないわね」
見えなくなるまで警官の後ろ姿を見つめていた麻里亜が呟いた。
「体をじろじろ見られた事?」
「あのエロ巡査、私の体には興味が無さそうだったわね、って違うわよ。何でも無い、思い過ごしだと願うわ」
イブがアコールなのを隠す事には成功したが、疑問は残る。パケットを音楽データに偽装していたはずだが、どうしてあの警官は私達を疑ったのだろうか。
コンソールに表示された時計が十時を指したが、時間になってもデモは始まらなかった。アコール推進派について詳しそうな麻里亜に尋ねる。
「アコールの国籍を目指す会のフォーラムは分かるか?」
「彼らが使っているのは、掲示板よ。探すからちょっと待ってて」
私はショックを受けた。掲示板と言えば、一世代前の、文字だけのソーシャルメディアである。顔が見えないので、なりすましし放題で、情報に踊らされる事も多い。政治的な用途で掲示板を使い続けているなんて信じられないが、メンバーの年代が高いのかもしれない。
麻里亜はバーチャルコンソールを操作していた手を止め、画面の一部を指で弾いた。
「これ」
宙に浮いている長方形のタイルを人差し指に乗せて受け取り、自分のコンソールに貼り付けた。大量の掲示板の書き込みが表示された。最後のページに表示された最新の時刻の記事から遡って行く。
確かにデモは計画されていたようだった。しかし、主催者が許可申請書を出していないと判明し、前日に中止されていた。気持ち悪いのは、主催者が二人現れている事だ。一人は積極的にデモを実行しようと動き、もう一人は彼が偽物である事を説明して、デモを中止させようとしていた。
「陸君も抜けてるなぁ。中止になったなら、メッセージをくれればいいのに」
私のコンソールを覗き見ていたイブが呟く。
「多分それは、違うわ。時刻から判断すると、昨日依頼を受けた時点では、既にデモは中止されていたはずだもの」
「陸が、俺達を誘い出すために嘘をついた? でも、なんで――」
首をかしげていた警官の顔が脳裏に浮かぶ。私には目もくれず、イブと麻里亜を見比べており、まるで女性のどちらかがアコールだと知っているかのような態度だった。
「そうか、アコールを連れた人間が来るって、警察にリークしたんだ」
「なるほど、エロ巡査はそれで妙に確信を持っていたのね。陸は規制派のスパイだと。でも、なんでイブだけを狙うような方法を取ったのかしら。普通に考えれば、フォーラムのアコール全員を狙うと思うけど」
「あたしがそんなに脅威的だったのかな、罪な女だなぁ」
イブが冗談交じりに笑う。しかし、麻里亜は大真面目な顔をして頷いた。
「やられた、目的は逆なのかもしれない。あなたと私がいない場合、陸の発言力は増すわ。ハッカーのあなた達がいなければ、フォーラムの防御力も下がる」
「フォーラムが危ない!」
コンソールに表示していた掲示板を手で払いのけ、フォーラムの状態を表示する。さすがに身元の隠せないネットワークを使って、ここからログインする事はできない。メンバーのログイン履歴や、発言のログに目を通す。
「どうだった?」
「やられた」
麻里亜の問いかけに対して答えたが、私の顔色だけで気付けていたかもしれない。
コンソールに並べた履歴やログから、フォーラムで行われていた、むごたらしい行為が明らかになった。
私達がデモの開始を待っていた丁度その頃、フォーラムには十一名のメンバーと陸がログインしていた。陸は規制派を陥れるためだと説明して、言葉巧みにメンバーに住所を記入させると、とびきりの笑みを浮かべてこう言った。
『ご協力頂き、ありがとうございました。あなた方には電子計算機の不適切使用の令状が出ました。すぐに警官が訪問しますので、大人しく対応して下さいね』
陸は警察の関係者だった。メンバーの内の一人が上気した様子で尋ねる。
『なんで、あんたが。あんたは規制派の不祥事の情報を教えてくれたじゃないか!』
『なんでって、別に僕は規制派じゃないですもん。警察に寄せられた情報を横流ししていただけですよ』
そして陸は呆然としているメンバー達を残してログアウトした。
十一名、すなわちフォーラムの半分はアコールを失った。フォーラムは警察の侵入を許してしまい、ログインを続けるのは危険な状態である。居慣れた場所を捨て、サーバーを変える必要がある。
「おしまいだ」
私は建物の壁に寄りかかり、辛うじて声を発した。心配そうにイブが駆け寄る。
「これ以上、活動はできない。フォーラムは解散しよう」
腕を内側に振ってバーチャルコンソールを閉じた。悔しい思いを込めるように、その手を握りしめる。
「人とアコールが一緒に暮らせる世界なんて、無理な話だったんだ。麻里亜も気付いていただろ、いくら規制派の粗探しをしたところで、世論は変わらないって」
「健斗……」
イブが不安そうに見つめている。勝手に判断して、責められても仕方がないと思ったが、彼女は何も言わなかった。逆にそれが申し訳無さを増した。
「ごめん、イブ。ずっと一緒に頑張ってくれたのに、お前が自由に過ごせる世界を作れなかった」
「あたしの事はいいの。でも、健斗はあんなに頑張っていたのに、こんな突然終わるなんて、そんなの悲しすぎるよ」
彼女の目から、涙が垂れ落ちる。その雫は地面に届く事は無い。
麻里亜が私の前に立った。フォーラムが崩壊する状況にあっても、その顔はいつも通り自信に満ちていた。
「まだ、希望はあるわ。私の名前は、本当はこう書くの」
自身のコンソールを弾いて回転させ、私の方に向ける。彼女が書き殴った文字は、カタカナで記されていた。
『マリア』
私はコンソールを開き、スマートグラスを無効にした。視界には麻里亜の姿がはっきりと映っていた。
慣習でアコールには外人の名前を使う事が多い。スマートグラスとヒアラブルデバイスの開発元がアメリカの企業であるため、そのプラットフォームを使用するアコールで、日本人の名前はバグが起きやすいから、という噂がまことしやかに流れている。コンピュータの黎明期には、文字コードの氾濫によって文字化けは日常茶飯事だったというが、現代でも言語処理の混乱はあり得る話だ。
彼女の行動は、自分がアコールだと伝えようとしているように見えたが、思い過ごしだったらしい。いや、スマートグラスを無効にしていても、自身の姿を映す方法が一つだけある。
「まさか」
麻里亜に向かって腕を伸ばす。黒い長袖に覆われた細い腕に、指が触れる。指先が闇に呑み込まれていく。私の腕が突き抜け、空を切った。
麻里亜はアコールだった。自身のプログラムをクラックして、スマートグラスの緊急用レイヤに体を表示し、人間として振る舞っていた。
「そんなはず、ない。自分のプログラムを変更する事は、AIの原則に引っかかるはず。そもそも、この技術は俺の――」
「確かに、アコールが自身の利益のために不正を行う事は、AIの原則によって妨げられるわ。でもこれは、ある人がくれた力だから」
腕を引く。麻里亜と向かい合ったこの状況には、既視感がある。記憶が蘇る。六年前のあの日は、暗い空から雨がしとしとと降り続いていた。環境とリンクし、黒い長い髪から水を滴らせる彼女は、川辺で対岸を眺め、立ちすくんでいた。
*
私は黒い傘を差して、川沿いの堤防を歩いていた。下校途中の生徒達がはしゃぎ声を上げ、飛沫を飛ばして傍を走り抜ける。私は足を止め、川に向かってため息を吐いた。薄暗い灰色の空、底の見えない水面、葉の落ちた並木、黄土色の芝生、晩秋の景色はどれも色あせて見えた。
ふと、視界の端に人が立っている事に気付いた。水量が増して狭くなった川岸で、傘も差さずに女が対岸を見つめている。身に付けた服は上下共に黒く、彩度の低い世界によく馴染んでいる。
彼女の長いスカートは透け、濁った川面が覗いていた。誰の目から見ても、アコールである事は明白だった。オーナーが飽きたのか、オーナーに現実の恋人ができたのか、オーナーの現実の恋人が強制したのか、事例はいくらでもある。彼女は捨てられていた。大本のデータは既にサーバー上から削除されている。アドホックネットワークに残るわずかなデータも失われつつあった。
おかしな話だが、心がざわついた気がする。オーナーは、プレイしていたゲームをアンインストールしただけだ。メモリから電荷が失われ、作られたデータが消えようとしているだけだ。そこに感情が介在するのは間違っている。
正面を向いて歩き出す。
片手で傘を差して、ふらふら走っている自転車に追い抜かされた。ジャージを頭に被せて走る少女に追い抜かされた。周りの人間がそうしているように、私も立ち去ろうとした。
しかし、徐々に歩みは遅くなり、動けなくなった。見てしまった横顔が脳裏から離れなかった。彼女は、人間を恨む訳でもなく、行いを悔いる訳でもなく、それが自然であるかのように、ただ消える事を待っていた。
私は踵を返すと、堤防を滑り降りた。ズボンはひどく濡れ、靴は大層汚れた。馬鹿な事をしようとしていると思う。
一歩も移動していなかった女に歩み寄る。彼女は表情を変えずに私の方を見た。
「何か用かしら」
冷たげな印象の美人だった。雨の滴る肌は色白い。濡れた黒髪は、額や頬に張り付いている。
私は無言でバーチャルコンソールを開き、キーボードを叩いた。周囲のアドホックネットワークを遡り、スマートグラス内のルーターに残されたパケットをかき集める。パケット単体では意味を為さないが、データの重なり合う部分を見つけて組み合わせると、アコールの設定が格納された情報になった。名前は例に漏れず、外人のものだった。聖書に登場する聖母の名前を冠したのだろうか。彼女が生み出されたのは、ほんの三ヶ月前だった。
アコールを構成するのに十分なデータが揃った。既に無くなってしまった彼女のサーバーの代わりに、クラウドの仮想サーバーに保存する。保守する人間がいない事を考えて、データは分散させて冗長性を持たせた。
全ての作業が終わるまで、二十分程かかっただろうか。女はじっと私の行動を見つめていた。
新たなサーバーが稼働を開始する。消滅を免れ、女の脚が色を取り戻した。
「どうして、そんな事をするの」
女は寒そうに腕を抱えた。消えずに済んだというのに、彼女は私を責めているようだった。
「私には、この世界に残る意味なんてないのに」
アコールはオーナーによって生み出され、オーナーのために生きる。オーナーに捨てられたなら、それは存在意義を失う事に等しい。その頬を流れているのは雨のしずくではなく、涙だった。
彼女の気持ちを理解したが、受け入れることはできないと思った。オーナーがいないなら、悠々として自身のために生きるべきだ。
私は歩みを進め、女を傘に入れた。
「それならこれからは、人として生きてみればいい。涙を流している姿は、あんたを捨てた人間より、よっぽど人間らしいと思う」
女は驚いた顔をしたが、すぐに表情を曇らせた。
「この世界は、アコール一人で生きるには厳しすぎるわ」
「それなら、人として生きるための力をあげよう。オーナーのいない唯一のアコールとして、あんたは何をするんだ?」
表示したままになっていたコンソールに向き直り、再びキーボードを叩く。アコールのプログラムをクラックして権限を変更し、緊急用レイヤに表示されるように細工を施した。いつか脆弱性を見つけてセキュリティソフトメーカーに情報を売ろうと考えていたので、緊急用レイヤの構造は解析済みだった。あっさりと試みは成功した。
「――私は、人の心を知りたい。あいつは、人間はそんな事を言わないと言っていたけれど、私はまだその理由が分からない。人の歴史を知りたい。人の行動原理を知りたい。人の限界を知りたい。人の信心を知りたい。人の構造を知りたい。人の罪を知りたい。人の生育を知りたい」
女は腕を解き、自身の胸に手を当てた。
「知ったらどうするんだ。オーナーのもとに戻るのか」
「きっと今度こそ、あなたのような男に邪魔をされずに、静かに消える事ができると思うわ」
彼女はぎこちなく笑った。雨はいつの間にか止んでいた。
*
「あの時の、人の心を知りたいと言っていたアコールか」
クールな顔に笑みが浮かんだ。今度は見間違えではないと思った。
「気付くのが遅い。あなたの言った通り、私は人として生きてきたわ。国会図書館のアーカイブを全て読み漁り、毎日インターネットからエクサバイトの情報を読み漁り、人について理解を深めてきた」
彼女が人並み外れた知識を持っている理由が分かった。容量に制限が無いというのもあるが、何より、休む事もせず、遊ぶ事もせず、情報を集め続けていたからこそだったのだ。
「人の心は分かったのか」
「どうかしら。あなたの諦めたくないという気持ちは、分かっているつもり。あなたに私の知識の全てをあげる。だから諦めないで」
ほんの少しの間、忘れられていた現実が再び押しかかる。私は俯いた。
「ごめん、あの時のアコールだったというのは驚いたけど、やっぱりフォーラムはどうしようもないよ」
「消えるところを邪魔したアコールは、私だけじゃないんでしょう」
麻里亜を改め、マリアが尋ねる。その予想外の問いかけに、私は驚いた。
「邪魔ってひどいな。まぁ、黙って見ていられない性分で、イブの他にあと二人ほど……」
私の答えを聞いて、イブが眉間にしわを寄せた。マリアはくっくっと声を出して笑った。
「あと二人! とんだ浮気者ね。気付いてもらうのを心待ちにしていた私がバカみたいじゃない。でも、考え方によっては良かったかもしれない」
「良かった?」
私は首を傾げた。緊急用レイヤに表示されるように細工を施した事が、どうしてフォーラムの存続に繋がるのだろうか。
「その二人は、私と同じように限りある時間を何かに費やしてきたはずよ。仲間に引き入れる事ができれば、きっと大きな力になってくれる。フォーラムを立て直すどころか、私達の望む世界を作るのも可能なくらいに」
「探してみようよ。あたしも手伝うからさ」
イブが私の肩に手を置いた。
「私達が力を合わせれば、あっという間に見つかるわよ。諦めるのはそれからでもいいでしょう」
マリアが反対の肩に手を置いた。両肩に触られているような感覚がある。
二人のアコールを探し出す事で、本当に状況は変わるのだろうか。私には分からない。しかし自信に満ちた二人の顔を見ていると、頷いてみたくなった。
私達は電車を降りて、マンションに向かっていた。隣にはイブ。振り向けば、マリアがついてきている。後ろに向かって尋ねる。
「どこに住んでいるのか、今度は教えてもらえるのか?」
「いろいろと――。別に嘘じゃなかったでしょう。オーナーのいないアコールに、居場所はないもの」
マリアが顔の色を陰らせ寂しげに答えた。
「今までどうしていたんだ」
「姿を消したい時もあれば、徘徊したい気分の時もあるわ」
今朝車内で男達が話していた、幽霊の話を思い出した。
居場所のない世界で、六年間という長い時間を過ごす事を考える。気が遠くなる。私が彼女に与えたのは、自由ではなく呪いではないかとさえ思ってしまう。
今さら遅いかもしれないが、私はこの問いかけをする義務がある。
「うちに来るか」
「えぇ」
質問を予想していたかのような素早い返事だった。後ろ手を組んだマリアが、大股に歩を進め、私達の横に並び立つ。つい先程までの表情が嘘のように、舌を出して笑っていた。
「え。え? えぇ?!」
住宅街にイブの悲鳴が轟いた。
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