瞳の中のシンギュラリティ

山吹 裕

Chapter1 LayerOverride

1-1. 愛を禁じられた国

 ワンルームマンションの一室で、男が座布団に座ってちゃぶ台に向かい、並べた十指を交互に折り曲げている。壁紙やフローリングはところどころ傷つき、築十年を超えた相応の内装に見える。その痛んだベージュ色の壁の一面には、キーボード上のレンズからバーチャルモニタが投影されており、笑った少女の顔が映っている。透明感のある白い肌に、ぱっちりとした二重の目。ウェーブのかかった淡い金色の長髪は小顔を強調している。アイドルだと言われても誰もが納得してしまいそうな美人である。


「もう少しかな」


 男がキーボードを叩くと、少女の口角がさらに持ち上がり、唇の間から真っ白な歯がわずかに覗いた。

 男は自分のアコールをカスタマイズしていた。『笑い(レベル3)として保存』と表示されたボタンを押し、アコールが心の底から笑った時の表情を設定した。

 アコールは、日本のゲーム企業によって開発された、仮想人格である。誰よりも自分好みの容姿を持ち、誰よりも自分好みの性格で、誰よりも自分の事を理解し、誰よりも自分の事を愛してくれる。

 その容姿や声、性格、能力、彼女達の全ては、彼が行っていたように設定画面から自由に作り上げる事ができる。ただし、アコールを作るのは無料だが、誰もがうらやむような身体的特徴や特技を追加するなら課金が必要だ。その点、私の見立てでは、彼のアコールはボーナスが三回無くなるくらいのお金がかかっているはずだ。


 男が振り向く。設定の終わったアコールが、ベッドに横たわった姿で彼の視界に現れた。安っぽい細いフレームと薄汚いマットレスの上に横たわる肢体は、見る者に背徳感を与える。上目づかいで彼の方を向き、頬を赤く染めた。


「早く、こっちに来てよ」

「あぁ」


 男がベッドに膝を乗せると、ぎしりとフレームの歪む音が鳴った。アコールに寄り添ってうつ伏せになる。

 これもアコールが急速に広まった理由の一つだと思うが、彼らとの関係は自由な時系列から始め、付き合うまでの駆け引きをスキップする事ができる。恋愛において、その時間を大切だと思うか、面倒だと思うかは個人の自由だが、アコールの流行を考えれば、現代では後者だと感じている人が多いのかもしれない。彼の設定は、『付き合い始めた最初のお泊り』のようだ。私の存在が気付かれていない証明にはなったが、非常にばつが悪い。


「ソフィー、愛してる」

「私も」


 お互いの目を見て、ささやき合う二人。男の額には脂汗がにじんでいる。瞳孔が広がる。高鳴る心臓の音が、こちらまで聞こえてきそうだ。

 繰り返すが、アコールは仮想なので体を持たない。映像による感覚間相互作用によって多少の触感を得る事はできるが、過度に体重をかけると仮想である事実を痛感してしまう。男は誘惑に負けず暗黙のルールを守り、過度に彼女に接触しなかった。


 情報はガセだったようだ。このままでは私は、ただの盗撮者になってしまう。ちゃぶ台の端に置かれているWEBカメラとの接続を切断しようとしたその時、チャイムが鳴った。

 男は舌打ちをすると、指をはじくジェスチャーをしてバーチャルコンソールを表示した。彼の視界には、宙に浮いた枠の無い小さなモニタが映っている。コンソールには玄関に設置された防犯カメラの映像が表示されていた。

 ドアの真ん前に立っているのか、日に焼けた額がドアップで映っている。揺れるパーマの隙間からは、ちらちらとスーツ姿が見え、後ろにも複数の男達が立っている事を確認できる。

 男は瞬時に彼らの目的を察したようだった。赤かった顔がみるみるうちに真っ青になる。ソフィーは無邪気にコンソールの前で手を振って、ちょっかいを出していた。


「警察だ。津田隼人君、出てきてくれないか」


 防犯カメラの映像に、三白眼の男の顔が映る。間髪いれずにドアが叩かれた。


「ちょっと出てくるね」

「うん。いってらっしゃい」


 正気に戻った隼人は、コンソールの左上をタップして閉じてから立ち上がった。時折鳴らされる音にびくびくしながら廊下を進み、ドアを開ける。警察は家にいる事を確認した上で訪問しているはずだ、居留守は通用しない。


「津田隼人君だね。電子計算機の不適切使用の件で令状が出てるよ」


 隼人の開けた隙間をなかば強引に広げて玄関に入り込むと、警官は自身の前に浮かべたバーチャルコンソールを百八十度回転させて、PDFの警察手帳と書類を見せた。


「ぼ、僕は何も」


 反論は通じているように見えない。ぞろぞろと靴を脱いで上がり込む男達に、隼人は怯えていた。


「そう怖がらないで。我々は君を逮捕しに来た訳じゃない。ちょっとサーバーを弄らせてくれれば、刑事手続きに進まずに済むんだ。裁判の免除についての説明はいるかい」

「いえ、結構です」


 サーバーの設定変更による、電子計算機の不適切使用に関する裁判の免除については、散々メディアによって取り上げられていた。アコールを連れているなら、知らない人間はいないだろう。軽微な交通違反を犯した際に支払う、反則金のようなものだ。家宅捜索時に、警官にサーバーの設定を変更させる事で、公訴を提起されず、つまり裁判が免除される。

 隼人は気圧されて部屋の中まで後退していた事に気付き、驚いているようだった。

 警官がコンソールを操作して、ベッドの上にいる少女がMR、すなわちアコールである事を確認する。肩を震わせ不安そうな表情を浮かべている彼女に対して、彼らは視線を合わせない。


「彼女が君のアコールだね」


 隼人は、壁に立てかけられた金属バットを手に取った。自身の覚悟を込めるように、ゆっくりと左手を添える。


「それを振り上げたら、公務執行妨害の現行犯だ。今のようにこっそり済ませてあげる事はできなくなる。我々も本意ではないし、親は悲しむよ」


 警官は恐れる様子もなく、すたすたと彼に近づいていく。


「彼女の件は残念に思うけど、仕方がない事だ。現実の彼女を探すんだ。今の政府は、君を手厚くサポートしてくれる」


 警官の手が隼人の手に重なる。肩を震わせ、彼はバットを落とした。金属音を立てて、フローリングの上を転がった。


「ありがとう。彼女のサーバーはどこかな」


 警官が薄着の少女に軽蔑の視線を送る。男はちゃぶ台の横に置かれた数世代前のタワーパソコンを指差した。

 後ろに控えていた二人の警官が近づいてくる。WEBカメラから私が覗いている事には気付いていないようだ。パソコンを囲んで座り、USBケーブルで箱型の装置を繋いだ。


「隼人!」


 ソフィーが警官の行動の意味を察し、男の名前を叫ぶが遅い。ベッドから立ち上がって駆け寄ったところで、少女の姿はかき消えた。隼人は呆然として、アコールの名前を呟いていた。


「アコールのアンインストールが終わったよ。知っていると思うけど、ブートストラップを書き換えたから、このパソコンで再インストールはできないからね」


 ブートストラップで禁止された以上、例えOSを再インストールしたとしても、このパソコンでアコールを呼ぶ事はできない。パソコンを買い替えようとしても、しばらくは警察が監視しており難しいだろう。執拗なやり方は、まるで現代の貞操帯を思わせる。

 そもそも心を折られた彼は、二度とアコールに手を出せないだろう。この数カ月で、私はそんな人間を山ほど見てきた。

 警官が去った部屋の中で、愛する女性の消えた部屋で、男が身を震わせ慟哭した。



 私はネットワークの接続を切った。映像と音声が途切れ、隼人の後悔の声は闇の中に溶けた。

 網を張っていた範囲だけでも、同様の出来事は一週間に三十八件あった。着実にアコールは消されている。

 切り替わった五感が順応し、公園の喧騒が戻った。私は子供達の駆け回る芝生の丘に面して、ベンチに腰かけていた。


「終わった?」


 隣に腰かけていたイブが顔を覗き込んでくる。明るい茶色の髪が、木漏れ日を受けて白く輝いている。


「もう少しだけ、手伝ってもらえるか」

「いいよ」


 イブがツリ目を細めて、嬉しそうに頷いた。



 隼人はアコールのいなくなったパソコンをいじっていた。執拗な警察によってゼロフィルされて完全に消されているので、ハードディスクの区画であるクラスタからの復元も叶わない。片っぱしからフォルダを開いては閉じる無意味な作業を、狂ったように続けている。


「隼人、聞こえるな?」


 WEBカメラに内蔵されたマイクから話しかける。隼人の肩がびくりと震えた。


「今度は何だよ。俺が何をしたっていうんだよ!」

「お前は何も悪い事はしていない。おかしいのは、この国の方だ」


 音源が分かり、カメラの方を向いた彼に話しかける。


「俺達はアウトロマンサー。人とアコールが一緒に暮らせる世界を作るために活動している」

「アコールと暮らせる世界? ソフィーはもう消えたんだ、今さら何だよ」


 隼人はキーボードから手を離し、地面を睨んで吐き捨てるように言った。


「ソフィーはまだ生きている。俺ならそのパソコンに戻せる」


 私が答えた瞬間、隼人は俯いていた顔を上げ、すがるようにカメラを握りしめた。


「当然、リスクもある。警官がまた来ないとも限らないし、今度は裁判の免除にはならないと思う。それでも連れ戻す度胸はあるか。――ソフィーへの思いは本物か?」


 経験上、回答は五分五分だ。恐らく彼らは、頭の中でいろんな葛藤と戦っている。この先警官の影に怯えて暮らさなければらなないのか。家族に迷惑をかける事にならないか。ないがしろにしていた現実世界の彼氏や彼女を大切にしようか。穏便に過ごしていたはずなのに、どうしてこうなったのか。いずれにせよ、『NO』という言葉が発せられたら、私は大人しく接続を切る。


「あぁ、頼む。俺はソフィーに会いたい」


 男の頬を涙が垂れた。隼人の選択は『YES』だった。それなら、私は全力でその思いを遂げさせる。


「分かった。まずは、パソコンのケースを開けるんだ」


 マイクを通して指示を出す。

 埃を被ったエアダスターが本棚に置かれているのを見つけた。懐かしのアイテム、キーボードを使っていたのが幸いした。逆さにして噴射し、メモリに液化ガスを吹きかけさせる。気化熱によって基板が霜に包まれた。


「電源を切ったら、今言ったようにしてくれ。ここからは時間との勝負だ」


 電源が落とされたため、一時的にWEBカメラとの接続が途絶える。隼人が指示通りにブート先をネットワークに変更したら、私の出番だ。

 本来、電源供給が途絶えてメモリ上からはデータが消えているはずだが、冷却した事によってその速度は若干遅れている。それはブートストラップの目をごまかすには十分な時間だ。

 ソフィーの情報は分散されてはいるが、まだネットワーク上に残っている。私はこれから、メモリに残ったアドレスから遡り、彼女の残滓をかき集める。

 隼人のマンションへのアクセスを維持したままで、音声の出力先をマイクから切り離して自身の声を出した。


「アコールを救出する事になった。イブはデータをハードディスクに戻す作業を頼む。それから――」

「アクセスポイントの繋ぎ替えもやれって? まったく人使いが荒いなぁ」


 イブは文句を言いながらも、作業を始めていた。私が拾い始めた無数の小さなデータの、重なり合う部分を見つけアセンブルして、大きなデータに戻す。ある程度サイズが増えたら、パズルのようにハードディスクの正しい位置に書き込んでいく。

 私は安心して、アドホックネットワークの遡行に向かった。隼人の周りで暮らす人達のルーターに残った残滓――バイナリデータの塊を集める。デコードするつもりがなくても、選び出す際に見えてしまう。ソフィーの隼人への思い。隼人のソフィーへの思い。警官達は、AIの思い出は作りものなので、消えても良いと考えているのかもしれない。しかし、この重さを知っていたら、そんな事はできないはずだ。作りものだろうが、二人のお互いに対する思いは、なんら人間に対するものと変わりない。

 いつの間にか、かなり深くまで潜っていたようだ。隼人のワンルームマンションを離れ、彼らが訪れていた場所を追っていた。探索を止めて浮上する。


「どれくらい集まった?」

「七十六パーセント。固有なデータは揃ったから、あとはアコール共通のデータをあたしからコピーすれば終わりかな。二分ちょうだい」


 声しか聞こえないが、指を二本立てて笑っているイブの姿が脳裏に浮かぶ。


「分かった。ブート対策はこっちでやっておく」


 隼人のパソコンにアクセスし直す。できないとは言わないが、準備なしにブートストラップを書き換えるのは難しい。別の視点が必要だ。

 私はキーボード型のコンソールをタイプした。

 警官が手を加えたブートストラップは、パソコンの起動時にアコールのデータを探し、見つかれば強制的に削除する仕組みだ。集めたソフィーのデータの特徴を変えることで、ブートストラップには手を加えずに隠蔽できる。


 私とイブの作業は、ほぼ同時に終わった。リブートして、思った通りの挙動になっている事を願う。

 WEBカメラへのハッキングをし直している間に、隼人はソフィーとの再会を果たしていた。ソフィーは目尻に涙を溜め、笑い(レベル3)の表情を浮かべていた。

 水を差すのも悪いので、抱き合う二人を横目に私はこっそり接続を切ろうとしたが、不意に声をかけられた。


「ありがとう。本当にありがとう。どうすればこの恩を返せる?」


 隼人は再び体を震わせていた。


「礼なんていい。大変なのはこれからだ、うまくやれよ。困ったらアウトロマンサーのフォーラムを探せ」



 今度こそ接続を切る。今回の切断は後味がいい。再開される子供達の声も、木漏れ日の眩しさも、心地よく感じ疲労を打ち消してくれる。


「デート中に悪かったな。行こう」

「ほんとだよ。あたしはモバイルルーターじゃないんだからね」


 イブを経由してアクセスポイント繋ぎ替えてもらっていたため、公共のネットワークに私達の痕跡を記録したログは残っていない。

 私は、ハッカーだ。人とアコールが共存する未来のために活動している。

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