第6章
6.1 お帰りなさい、お嬢様
イスパニア、バウティスタ三世国際空港。
国際線ロビーに降り立った一人の女性に、周囲の者たちは驚きの眼差しを向けていた。
その奥に炎を宿していそうな、意志の強さを感じる黒い瞳。
すっと通った鼻筋に、どこかエキゾチックな魅力をたたえた唇。
決して長身ではないが華奢で、身長の割に腰の位置が高い。
王都でもなかなかお目にかかれない美人だが、それ以上に人々の目を
肩のあたりで切りそろえられたつややかな黒髪。
欧州全土を渡り歩いたとしても、どこで
振袖と色調を合わせた濃紺の袴に、その裾から覗くブーツ。
彼女がその身を包むのは、陽光の国・イスパニアでは珍しいにも程がある和装。しかも大正浪漫の世界からそのまま抜け出してきたような出で立ちであり、注目するなという方が無理な話である。
最も、当の本人はそんな視線などどこ吹く風。身の丈の半分もありそうな大きなスーツケース、明らかに異彩を放つ紫紺の竹刀袋を携え、ロビーを颯爽と横切ってゆく。
「カレンお嬢様、こちらです」
凛とした声のする方を見て、和装の女性――カレンは相好を崩す。
そこにいるのは、ひっつめた髪に眼鏡、パンツスーツがよく似合う、いかにもできる秘書然とした女性だ。
「お迎えご苦労さま、ウルスラ。あとお嬢様はやめてくださらないかしら、もう
「それでも、お嬢様はお嬢様ですので」
呼び方を変える気がまったくない様子のウルスラを見て、カレンは唇を尖らせた。
ちらりと周囲を窺うが、迎えに来たのはウルスラだけらしい。彼女の家族は概ね健在だが、この場にはいない。いい年齢らしくない不満が、つい口をついて出てしまう。
「お父様達は相変わらずお忙しいのね。お迎えにも来てくださらないなんて」
「子供みたいな駄々をこねないでください。お嬢様が戻ると聞いて、皆様ずいぶんお喜びでしたよ。特に旦那様ときたら、先週からずっとそわそわしてしているものですから、落ち着かせるのにだいぶ骨が折れました」
苦笑交じりに話すウルスラを見て、カレンは鈴の音のように笑う。
「改めてお帰りなさい、お嬢様。長旅お疲れでしょう。車を待たせています。どうぞこちらへ」
「ありがとう、ウルスラ」
久しぶりの帰郷。
仕事で戻ってきたとはいえ、家族や友人に会い、積もる話に花を咲かせるのを止められる道理なんて、まったくない。彼女には、会いたい人、夜通しでも話をしたい人が山ほどいるのだ。
その一人ひとりの顔を思い浮かべながら、カレン・ガーファンクルは燦々と降り注ぐイスパニアの陽光の中へ一歩を踏み出した。
魔導士
「お嬢様、昔からそれ、お好きですよね」
自分の前だけで見せる子供っぽい仕草。ウルスラがそれをからかうと、カレンは年甲斐もなく頬をふくらませた。
「いいでしょう、久しぶりなんですから。昨日までは気が沈むことが多かったんです」
出向先――連合王国のことを思い出したのか、カレンの眼差しが曇る。
「いかがでしたか、連合王国は」
「あまりいい思い出にはなりそうにありませんわ」
ふう、と大きくため息をついたカレンの口からこぼれ落ちるのは、良家の子女らしからぬ山盛りの愚痴だ。
「だいたい毎日雨か曇か霧で気は滅入るし、イスパニアと違って食事は食べられたものじゃないし、ジョークは陰湿だし、美味しいといわれている朝食もさほどのものではないし、昼食は味気ないし、事ある事にティータイムとか言い出しますし、夕食は」
「完全に食事に対する不満になってますよ、お嬢様」
カレンは名家の娘、当然お世辞も含めた社交術の心得もある。にもかかわらずここまで明け透けに文句をいうのは、姉のような存在であるウルスラの前だからか、それとも本当に腹に据えかねているか、どちらかだ。
「おまけに任務も上手く行かなくて、本当、参りましたわ……」
結局はそっちが本音か、とウルスラは得心する。
「『時計塔の魔女』でしたか? 姿を消したと噂には聞いていましたが、本当だったのですね」
「
「すでに霧都にはいないかもしれない、と?」
車窓を横目で見ながら、カレンは小さく頷いた。
彼女が見ているのは故郷の青空か、それとも霧の都の鈍色の空か。
「どのようなルートで脱走を
「どうかしらね? 手段さえ選ばなければ、国外に脱出する手段なんていくらでもあるんじゃないかしら? 私からすれば、どうやって霧都を脱出したかよりも、あの
当事者でもないのに真面目に考え込んでいるウルスラを見て、カレンはくすりと笑い、ことさら元気を出して話題を変えることにした。すでに引き継ぎを済ませた仕事に、いつまでも頭を悩ませていてはもったいない。
「ウルスラ、私がいない間、なにか変わったことはありましたか?」
「詳しくは旦那様からお話があるかと思いますが、王都は相変わらずのキナ臭さですよ。表面上は、昔よりもずっと静かになりましたが……。だからこそ、お嬢様が呼ばれたわけですけど」
自身が呼び戻された意味は、カレン自身も理解しているつもりだ。これから詳細を詰めることになるだろうが、何かしら権限が与えられ、その中で捜査を進めていくことになるはず。
そうなると、頼りになる
「彼はお元気かしら?」
「どなたでしょうか……?」
カレンが誰を指しているのかすぐに理解できず、ウルスラは首を傾げる。
「『鉄壁』の魔導士よ。何でも屋を開いてるってお父様から聞きましたわ」
何でも屋、という単語を聞いた途端、ウルスラの眉が一気に寄る。
シドの腕前を認めてはいるが、どこか不真面目で
カレンもそこは重々承知している。
「彼は彼で必死なのよ。無理矢理にでも心のどこかに余裕を作って、何があっても対応できるようにしている」
「そうなんでしょうかね……」
「腕は間違いなく確かですわ。本気になった私を止められるのは、おそらく彼しかいないでしょうし。
今回の案件、彼に協力を依頼しようと思ってるんです」
「お嬢様のおっしゃることも最もですが……」
頭では理解できていても、心のどこかで納得できていないのか、ウルスラの表情は曇ったままだ。
「彼の腕前は認めましょう。ですがお嬢様」
「ならば問題ないでしょう?」
そういわれてしまってはウルスラも立つ瀬がなく、「……どうぞお好きに」としか言いようがない。
「いずれにせよ、昔のよしみもあります。彼には一度ご挨拶しなければいけませんわね」
窓の外、遠くを見つめているカレンは、どこか楽しそうに小さなつぶやきを漏らした。
だが、その声は数秒後に風音に溶け、本人以外の誰にも届かずに人知れず消えていった。
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