第20話 救われる心

『ぐおぉぉ!!』



 大蜘蛛がぐらつく。深々と刺さった矢に続き、ゼノは二矢を同時に打ち込んだ。そして後方へ飛びのく。一瞬後に大蜘蛛の足がゼノがいた場所を薙ぎ払った。走りながらも、ゼノは矢を射る。外すつもりはなかった。そして外れる気すらしなかった。八つあるはずの大蜘蛛の目の半数が、ゼノの放った矢によって刺し潰される。


「その体! 先代の補佐人の物だな! すでに限界が来ているのだろう!?」


 大蜘蛛は精霊であり悪霊である。それを心に宿す依り代が必要であった。一般的な人間であれば、その重圧に耐えきることができない。幼少期から補佐人の候補が守護霊の霊木を持たされ続けているのは耐性を高めるためであり、大蜘蛛が宿ったとしても崩壊しない体を作り上げるためであった。ゼノはリンの使役が終わったとたんに質量を帯びた大蜘蛛を見て、この事に気が付いた。


『貴様っ!』


 大蜘蛛の足が横に薙ぎ払われる。ゼノのすぐ隣にあった樹が折れた。しかし、大蜘蛛の足の先も吹き飛んでしまった。


「やはりな!」


 走りながらさらに矢を打ち込む。二十年以上も使役した先代の補佐人の体では大蜘蛛を維持する事が難しいのだろう。だからと言って、リンのような者に宿るには制限があるに違いない。

 大蜘蛛が腹から糸を吐いた。かろうじて避けることができたが、次々と放射状に測吐かれる糸によって逃げ場がなくなっていく。


「いままで何世代の補佐人たち、北の大地の人間を騙してきたんだ!?」

『数えたこともないな。今までは我を疑うものは皆無であった。南人よ、お前が最初だ』


 なおも糸を吐き続ける大蜘蛛に対して徐々に逃げる範囲が狭まるゼノ。しかし、彼が諦めるはずがなかった。


『うぐおっ!!』


 ゼノの放った一矢は大蜘蛛の腹に突き刺さった。丁度糸が噴き出る穴が矢で塞がれる。しかし代償も大きかった。それで、矢が尽きたのだ。ゼノは弓を捨て、剣を抜く。



 大蜘蛛は依り代の世代を重ねるごとに自由を奪われていた。当初、人の一生を十分に憑依することのできた程度の力は徐々に強くなり始め、気が付くと数十年と耐えられないのである。大蜘蛛は考えた。それは依り代となる人間を選別するのではなく、依り代になるべき人間を育てたほうが効率が良いのではないかと。歴代に依り代を輩出し続けた家系は騙されているとも知らずにそれを名誉と考えた。そして代々「補佐人」という仮の名前を継承し、大蜘蛛の宿主となり続けたのである。

 宿主がなくなった精霊がどうなるかを、大蜘蛛は知らなかった。

 それは「死」に対する恐怖である。太古の昔に宿主を失った同胞はいまだに再会することができていなかった。やはり精霊にも「死」があると考えるのが妥当であった。

 そして代を重ねるごとに大蜘蛛の精霊としての力は増していった。それは大蜘蛛が望んだことではなかったが、それによって幼少期から大蜘蛛を憑依させる訓練を積んだはずの補佐人の体ですら、耐えきれなくなり負担がかかるものとなってきていた。最近の世代は、一世代を持たせるのが精いっぱいである。


 先代の補佐人であり、ロトフの父親であるロイの体は崩壊寸前だった。それはさきほど大蜘蛛が大樹をなぎ倒した際に足の先が吹き飛んでしまった事からも明らかである。

 そして、大蜘蛛はこの壊れ切った体で、今まででもっとも脅威となりうる者と対峙していた。焦りが大蜘蛛を包む。先ほどから大蜘蛛のすることはほとんど全て、この南から来た男に防がれてしまっていた。先ほどの一矢で、糸を出すこともかなわなくなっている。大蜘蛛の脳裏に「死」がちらつき始めた。大蜘蛛はここに来た数多の補佐人たちに比べて心が弱かった。太古の昔より現世にこだわり、縋り続けた精霊が「死」を受け入れられるはずがなかった。


 すぐにでも、次の宿主が必要だった。だが、ロトフはまだ次の世代を残していない。そしてこの場にはいなかった。だが、大蜘蛛はなりふり構っていられるわけではなかった。いくら醜くとも、生きるためには全てを行うつもりなのだ。悪霊は、次の依り代を探した。


「リンっ!!」


 大蜘蛛がリンへと近づく。腹の糸を出せなくなったことで、自暴自棄になったのであろうか。それとも別の目的があるのかもしれない。とにかく、リンに危害が加わる可能性が高かった。ゼノは走る。そして後ろから大蜘蛛の左後ろ足を切り払った。若干ではあるが平衡をくずす大蜘蛛、その間にゼノはリンの元へと駆け寄る。


「リン、起きろ!」


 少女を担いでゼノは駆けた。周りの樹々が大蜘蛛の巨体が迫ってくるのを防いでくれる。だが、大蜘蛛は樹々の間を器用にすり抜けてゼノたちを追って来た。


「うっ……」


 ゼノの肩でリンの意識が戻ってきた。


「リン、いまちょっとまずい事になっている。体はどうだ、動けるか」


 リンを担いで走りながら、それでもゼノは方角を見失うことはなかった。


「うん、ちょっと痛いけど大丈夫。リンも走れるよ」

「よし、じゃああっちへ向かって逃げてくれ、俺はちょっとあいつに止めを刺してくる」


 使役されていた際の記憶があるのだろう。リンは無言で頷いた。そして言われた通りの方角へと走って逃げる。


「ゼノ、死なないでよっ!」

「生きて帰れたら……。生きて帰るから、俺の妻になれっ!」

「……約束したよ!」


 大蜘蛛が迫ってくる。樹々を押しのけて残った六本の足に体重がかかる度にメキメキと樹が折れる音が響いた。口から粘液を飛ばす。おそらくは毒だろう。その粘液の触れた箇所の雑草があっという間に枯れ落ちるのが見えた。リンは後方に走っていく。


『邪魔を、するなぁぁぁ!!』

「お前こそが邪魔だ」


 毒が避けられたために大蜘蛛はゼノを直接捕まえようとした。巨大な足がゼノへ近づく。だが、ゼノはその足を切り払った。関節から先が吹き飛ぶ。


『ぐはぁぁ!!』


 しかし、大蜘蛛は巨大であった。そのまま体をゼノの方へと倒す。避けきれずに、ゼノは下敷きにされてしまった。足がつぶれる感触がした。


「ゼノォォ!!」


 リンが叫んだ。地響きがしたために振り返ったらしい。


『少し、そこで寝ていろ』


 ふっと巨体が浮いた途端に大蜘蛛の残った足がゼノの右肩を貫く。


「あがっ」


 利き腕を刺されてゼノは剣を取り落とした。巨体に潰された時に足の骨も折れたのだろう。


「ゼノ!」

『娘よ、ロトフがここに来るまでの間、我依り代となってもらうぞ』


 大蜘蛛がゼノをその場に放置し、ゆっくりとリンに近づく。


「リン、逃げろ……」

「やだよ、ゼノ!」

『もはや、我からは逃れられん』


 満身創痍ではあるが、大蜘蛛はいまだにリンを捉えるだけの動きができた。対して力の負担で全身に力が入りにくいリンに、肩と足をやられたゼノでは絶望的である。


「リンは、リンはどうなってもいいから、ゼノを助けてよ!」

『お前たちにはすでに選択権はない。我の秘密を知った者を生かしておくはずがない』


 ゼノを殺し、リンに憑依し、ロトフを待つ。ロトフを宿主にしてしまえばリンの体は壊れるだろう。ロトフに子がおらず、次世代の補佐人の候補がいない状況であるが、そこはシオンあたりを操れば良かった。守護霊の村にはまだ人がいる。伝承が伝わりさえすれば、補佐人はいくらでも作れるはずだった。


『さあ、体をもらうぞ』


 悪霊が、リンに近づいて行く。もはや、リンは逃げ出すこともできなかった。



「リンに憑りつく必要はない。直接、俺に憑りつけばいいじゃないか」


 そんな言葉が聞こえた。そして大蜘蛛の腹の一部が吹き飛ぶ。それは皮肉な事に、守護霊の力を借りたロトフが振るった守護霊の霊木による一撃だった。己の力で、腹を吹き飛ばされた大蜘蛛は瞬時にロトフへ流していた力の流出を止める。残った足でロトフを払うが、それは霊木で防がれた。霊木が折れるが、ロトフは美味い具合に衝撃を受け流したようだった。だが、力の反動で体は動かしにくそうである。


「ロトフ……」

「ゼノ、リン、済まなかった。全ては俺の心の弱さが原因だ。責任はとるよ」

「馬鹿野郎、逃げろ」

「逃げるわけには行かないと教えてくれたのは君だ。」

『ロトフゥゥ!!』


 大蜘蛛が怒り狂う。腹の一部と足の半数が吹き飛ばされてもなお、悪霊は襲い掛かってきた。


「だめだ、俺はお前も救いに来たんだ」


 ゼノが叫ぶ。だが、ロトフは微笑むだけだった。


「ありがとう、ゼノ。テレンに謝っておいてくれ」

「自分で言え!」


 ゼノは残された力で剣を投げつけた。だが、利き腕ではない上に体は思うように動かない。最後まであきらめることはなかったが、力は及ばなかった。


『残念だったな! これで我は新たな体を手に入れる!』


 大蜘蛛がロトフを喰らった。そのように見えた。


「ロトフゥゥ!!」

「馬鹿野郎!!」


 大蜘蛛の巨体が光出す。そして、新たな体が生えて来たようだった。それは神々しく、不思議な光景である。脱皮するかのように内側から蜘蛛の巨体が出て来た。そして光が収まると、そこに一人の男の遺体が現れた。右手と左足がなく、そして片方の目がつぶれているが、おそらくはロトフの父親である先代の補佐人であろう。ロトフに似ていた。


「ロ、ロトフ……」


 ゼノは絶望した。親友を、助けられなかった。そして自分たちもこれから殺されるのだろう。抵抗する方法が思い浮かばなかった。


『はーっはっはっはっは!! 良い! 良いぞ! 歴代のどの補佐人の体よりも馴染む!』


 大蜘蛛が高らかに笑ったようだった。その巨体はさきほどの大蜘蛛よりも一回り大きい気がする。


『さあ、南人よ。まずはお前の想い人が我に食われるのを見ているがいい。お前はその後だ!』



 その時、大蜘蛛が動きを止めた。口調が変わっている。まるで、ロトフのように。


『父が、何を考えていたのかを詳しく知ったのは守り人の集落についてからだったんだ。本当は、守護霊の村にいた時から準備をしておくべきだったんだけど、ばれるかもしれないと思うと、どうしても危険は冒せなかったんだよ』


 大蜘蛛の体が崩壊していく。


『き、貴様、まさか……』


 先代の補佐人であるロイは、いや代々の補佐人たちは徐々に守護霊の正体に気づき始めていた。確証が得られるまでに何世代経ったのかは分からない。だが、着実にそれを確かめ続けて来た。

 先々代の補佐人でありヒナタの夫となった人物は守護霊の体は補佐人の体が崩壊してしまえば保つことができない事を突き止めた。守護霊が催促してくるのをできる限りねばったのである。そして崩壊寸前の守護霊を見て、確証を得た。あとはこれを伝えるだけだった。彼は最後の言葉を伝えさせて欲しいと守護霊に頼み込み、それには暗号を使った。

 夫の遺志を継いだヒナタは次の世代の補佐人と候補者たちに薬草の知識を学ばせた。実際は、薬草ではない。毒の知識である。蜘蛛の毒には耐性があっても、毒草のものに耐性があるとは思えなかった。そして先代の補佐人であるロイは次世代の補佐人であるロトフに守護霊の支配から逃れるために、頻繁に守護霊の力を借り、抵抗する力を蓄えさせる事にしたのである。この事はヤルタを通じてステンがロトフに伝えた。


 世代を通して準備された大蜘蛛の暗殺計画である。だが、大蜘蛛が宿主を変える事を必要とする時期が分からなかった。それにそこまで弱らせる必要もあった。ゼノがこの場についてきた事で計画は遂行できないかに思われたためにシオンは苛立った。だが、ロトフはゼノならば大蜘蛛を弱らせることができると考えていたし、実際にそうだった。ロトフは、ゼノたちにおそいかかる大蜘蛛を確認した時点で毒を飲んだ。おそらくは数分しかもたない状態で、大蜘蛛に食われた。


「ゼノ、リン。ありがとう。君たちのおかげで歴代の補佐人たちの仇を取ることができた」

『貴様らぁぁぁ!!』

「テレンには謝っておいてくれ。本当はゼノの言うように俺も死なずに済む方法があれば良かったんだけど、どうやら無理だったみたいだから」

「ロトフ……」

「ありがとう。この旅はとても楽しかった。ゼノがいてくれて良かった」

「俺たちを、残していくのか」


 全てを救いたかった。自分に「生きる」事を教えてくれた全てに恩を返したかった。その中にはもちろん、リンがいて、ロトフがいて、テレンやユーリがいて、守護霊の村の皆、守り人のシオンやヒナタ、それにこの北の大地で関わった全ての人達がいた。だが、ゼノの手のひらからロトフがこぼれていく。それは傲慢な考えかもしれなかったが、ゼノには我慢できなかった。


「ゼノ、君には救われた。命はだめだったかもしれないが、俺の心が救われたんだ。ありがとう」

「待て、ロトフ。行くな」


 大蜘蛛の体がボロボロと崩れていく。すでに大蜘蛛の意識はないのだろう。さきほどまで叫んでいた声は聞こえなくなっていた。そして、徐々に小さくなっていく大蜘蛛の体までゼノは這って言った。必死でその体を掴む。だが、大蜘蛛の体はさらに崩れていく。最後はロトフの体が残った。地に横たわっている。


「ロトフ……」


 いつのまにか泣いていた。後ろからリンが抱きしめてくれた。だが、ロトフは動かなかった。


「ロトフ……」


 親友の死が受け入れられなかった。彼を救いにここまで来たのではなかったのか。そしてそれをして初めてリンの心が救われ、そしてゼノ自身の心も救われるはずだった。ロトフは心が救われたと言った。本当にそうだったのだろうか。

 すぐ近くにはロトフの父親の遺体があった。彼の顔は微笑んでいるようだった。



 しかし、ゼノの視界に鮮やかな夕日の色が写った。


「ロトフ!!」


 そこにいたのはユウヒウマドリに乗ったシオンとテレンである。


「テレン、急ぐわよ!」

「はいっ!」


 二人がなにやら鞄から取り出している。ゼノは、ここまでしか覚えていない。血を失い過ぎた彼が目覚めるのは一週間後、守り人の集落でだった。

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