第十五話[痛みに逃げる]
鎮痛剤はあまり効かない。雨音がぱちぱち聞こえる。全部雨のせいってことにしておこうかな。指先から骨の髄まで、ぜんぶに痛みが詰まっている。あたしが痛みそのものなのかなとも思う。目が覚めると勝手に目じりが濡れている。寝返りが辛くて床ずれになりかける。こんな状況だけど意外と悲観はしていない。
左手があたたかくなる。小さくて柔らかい手が添えられている。ゆっくり視線をめぐらせて状況を確かめた。緊張した顔のお姉さんが枕元にいる。ここ一か月くらいよく見かけるボランティアの大学生。小ぎれいな服装や持ち物とか、こういう活動ができる余裕とか、あたしとは大違いだ。学校でも家でも人との関係はうまくいかなかった。お母さんには怒られてばかり。お父さんは酔うとすぐ暴力をふるう。兄ちゃんはあたしを蔑んでいて、目が合っただけでも鼻で笑ってくる。学校ではしょっちゅう物がなくなる。無視される。大人が見ていないところでは蹴りを入れられたりもする。成績は底辺。先生の助けも期待できない。運動神経も悪い。どんくさい。
だから、あたしは逃げられたことが嬉しくて、ぼろぼろの身体にすら安心してしまう。もう戻らなくていいってことに。家族からも学校からも離れて、優しくいたわられていることに。あたしの価値は若くて可哀想だって部分にある。代わりならたくさんいる。たまたま拾ってもらえて運が良かっただけ。ならしっかり噛みしめなくちゃ。清潔なベッドに柔らかい布団。黙っていても食事が出てきて、食べなかったら心配してくれる。本も買ってくれるし部屋には絵まで飾ってある。なんて恵まれているのだろう。
浅い息では眠れない。指を伸ばして携帯端末を取る。いちばん軽くて小さい機種。それでもあたしにはちょっとだけ荷が重い。お姉さんが察して、握らせてくれる。お礼を言ってみる。ひどくかすれた声だけど。
「何、見てるの」
画面にゆっくりと指を這わせるあたしに訊いてくる。
「SNS。写真とか、絵とか、文章とか」
吐息と変わらない音量でも、お姉さんは穏やかに笑って答えてくれる。
「そうなんだ、わたしも見たいな」
端末を差し出す。目を走らせる動きがとても機敏。エネルギーがあるんだ。自覚はないんだろうけど。
「フォローしていい?」
「……つまんないですけど」
「えぇ? きっとつまんなくなんてないよ」
だって、自分じゃ発信しないし。コレクションみたいなものだ。だれかの作品をそっとしまっておく場所。お姉さんの名前を小さく呼ぶ。なぁに、と弾んだ声。
「あたしが病気じゃなかったら、関わらなかったでしょ?」
自嘲気味に言う。あたしに価値なんて本当はないんだって。みんな気づかないのかな。それとも気づいていて、だから作り物みたいに優しいのかな。
「それは、もしもの話でしょう? こうして出会っちゃったんだから確かなことは言えないけど。でも私は楓ちゃんと会えてよかったしもっと仲良くなりたいよ。本の趣味も似てるし。元気だったらもっとお話できるなって思っちゃうよ。どうにもならないってことはわかってるけど」
また困らせた。お姉さんは怒ったりなんてしない。あきらめもしない。あたしが自分を嫌いになっていくだけ。完璧な優しさと余裕。それはあまりに眩しくて、涙が出る。あたしも何か作れたら良かったな。好きな作家さんの中には同じ病気の人もいっぱいいて、そちらもやっぱり眩しい。
「痛む?」
短く、不安げに訊かれる。ゆるゆると首を振った。特別痛くなんてない。ただ情けないだけだ。雨音はまだ続いている。
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