第十話[痕跡]

 就活生かなっていう黒スーツの女の子を見送って一息つく。腕時計をチェックすると、もう午後四時を過ぎている。ろくに水も飲めずにこの時間。早く辞めたいなぁと思ってしまうのはこんなとき。結婚しちゃえばいいんだけどね。正直、寿退社がいちばん丸く収まる。どっちみち相手がいなくちゃどうしようもないな。

「休憩行ってきていいですか?」

 本日の相棒、麻衣さんにお伺いをたてる。職場では後輩で、年齢は上で販売員歴も上というねじれた関係。お互いに敬語で距離感は常に微妙な所でゆらゆらしている。

「いいですよ。やっと落ち着いてきましたね。ご飯食べたら交代でわたしも休憩入れさせてください」

「了解です」

 自分はさっき食べたくせに、と顔に出さないように心の中で毒づく。目と唇で営業用スマイルを作って、バックヤードに引っ込んだ。コンビニのサンドイッチをかじりながら書類を整理する。顧客リストはいまだにアナログで、いろんな人の筆跡が並んでいた。今週中に出すレターの宛先をメモ用紙に書き出す。それから古い情報の削除。バインダーから抜き取ってシュレッダーにかけるだけの簡単な処理だ。その中の一枚に目が留まる。一年にわたって来店のないお客様の名前が懐かしい字で書かれている。もう辞めてしまった先輩の、端正な文字。硬筆のお手本か、手書き風のフォントなんじゃないかっていうくらいの。私にとっては初めて出来た職場の先輩であり、たった数か月の付き合いだったとはいえ影響はそれなりに受けたと思う。

 先輩はいつも、なんだか遠い目をしていた。仕事は優しく教えてくれたけれど、業務の外では会うことがなかった。だからプライベートなことを知る機会は少なかったはずだ。稀に一緒に休憩を取った時や締めの作業の合間にちらっと雑談をするくらい。先輩は社員ではなくて派遣さんだった。店長から聞いたところによると、来月にはいない可能性のある人、だったらしい。実際やめる時はいきなりだった。深い事情があったから、致し方ないことではあったのだけど。病気、それも死に至るもの。自然と欠勤は多かったし、薬を飲んでいるところも見ていた。融通は利かせなくちゃならなかったし、しわ寄せは来ていた。だけど憎む気にはなれないのは先輩の人柄かもしれず、身寄りがなくて働かざるをえない状況を知っていたからかもしれない。最後に手を振って別れたとき、普通に歩いて元気そうにしていた。日の暮れた道できらきらとした粒子をふりまきながら、穏やかに笑っていた。連絡先も残ってはいなくて、今も生きているのかどうかすら知らない。私にとっては長いはずの人生のほんのひと幕にすぎないわけで、なのに忘れられそうにないのはなぜだろう。

 ぱらぱらと顧客リストをめくる。日々更新されているから、古いものはどんどん消えていく。先輩の痕跡もだんだん薄くなっている。やめてしまうと聞いたときは、この先やっていけるのかただ不安だった。やめてしまったあとは、あちこちに残っているメモの筆跡や先輩のお客様への対応で、もう居ないことを強く感じた。先輩に関わる業務が減ってきても、ふとした拍子に声が耳によみがえったりする。それだけの爪痕を残してくれたのに、このお店にはもうほとんど先輩の存在が残っていない。人の痕跡ってこんなに簡単になくなってしまうのだろうか。怖くなる。私も友達も、あるいは同僚も、たしかに生きてここにいるのに、きっとすぐに忘れられてしまう。深い付き合いのあった相手にだけ思い出を残して、世界には何の痕も残らない。それはすごく寂しい事なんじゃないだろうか。人はみんな違うのに、死んでしまえばそこに誰かがいたことだけが確かで、細かな情報は次々に抜け落ちてしまう。行かなくなった場所への道順があやふやになるように。

 手が止まった。もっと必死に生きなくていいのかな。でも、どんなに頑張ったって死んだら一緒なのかな。考えるのが面倒になってくる。もともとそんなに頭がいいわけじゃないし。ごちゃごちゃになった心の中で浮き上がってきたのは、一人の友達のことだった。先輩と同じ病気の子。たまにお茶しに行くんだけど、好きだったケーキもパフェももう食べない。たぶん食べられないんだ。先輩に似た遠い目、確かめるようにゆっくりと口に運ぶストレートの紅茶。骨の浮いた手の甲、夏でも露出の少ない服装。体が悪いのがはっきりわかる。それなのに私に時間をさいてくれる彼女。応えなきゃ、とどこかで焦っていた。救いにならなきゃならないと勝手に悩んで、最近は気が重くなりはじめていた。でも、それはきっと違う。完璧じゃなくてもいいから、そばにいて記憶を新しくしていけばいい。いずれ忘れてしまうとしても、思い出のストックは多い方がいい。色褪せた写真でも、アルバムを開けばちゃんと当時が浮かぶから。勢いが消えないうちにメッセージアプリを立ち上げる。彼女へのお誘いの言葉を打ち込んだ。

「近いうち、会えない? 久しぶりにお茶しようよ」

 会えるのは生きているうちだけだから。今しかないから。ひとつでも多く声を交わそうよ。ひとはみなやがて光となって散る、彼女が教えてくれたフレーズが浮かんだ。こうして無条件に未来を信じている私だって、少なからず光になる可能性を秘めているのだ。

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