第五話[遺影]

 タイムカードを切って、エプロンを外す。焼け石に水なのはわかっていても、ちょっと高いハンドクリームを念入りに塗る。生花の香りは好きだけど、コスメならシトラス系の方がしっくりくる。

「お疲れ様です。先上がりますね」

「あい、お疲れぇ。明日はゆっくり休んでねぇ」

 軽くてちょっとチャラいし、まあまあなおじさんなんだけど、まだ働けているのはこの店長のおかげ。急に休んでも怒らないし、業務中もちょいちょい気にかけてくれる。通院もあるし生活はかつかつで、それでもなんとか親に頼らなくても暮らせるのは嬉しかった。別に仲が悪いわけじゃないけど、できることは自分でしておきたい。気をつかわせるのも嫌だし。

 自転車をこいで家に帰る。髪をなびかせる風が気持ちよかった。空があまりに青いので、自分の存在の小ささをなんとなく悲しく思いながら上を向いて走る。事故ってもいいや、と半分やけになっているのは笑っちゃうくらいひどい自己中心的な考え方。でも本当に、あっさりあっけなくバカみたいな死に方をしたかった。湿っぽいのは嫌。

 帰り道のケーキ屋さんで苺のタルトを買った。ワンルームは一応のところ小ぎれいに片付いているし、まずまず女子っぽいインテリアと食器類でそれっぽい感じにはなる。窓を開けて風を取り込む。レースカーテンがふんわりと広がった。つまるところ舞台のセットと同じなのだ。近いうちに部屋を残して消えるだろう私を飾り立てるもの。あの子らしいよねと言ってくれるようなわかりやすい物語。ゆっくり淹れた紅茶と、ひと粒三百円のチョコレート、それから宝石みたいな苺の載ったタルト。ファンタジーのお姫様みたいな夕食を終えて、早々にベッドに潜り込んだ。夜は嫌いだった。自分の不具合が目に見えてしまうから。

 昼過ぎに目を覚まして、寝ぐせのついた髪へ指を雑に通す。平日のこの時間は静かで平和。何をしようかな。じっとしているのは深く考えすぎてしまうから危険だ。ノートPCを立ち上げて、動画サイトで目に付いたクラシックを流す。検索履歴も綺麗なままに。頭の悪そうなタイトルには触らないようにする。目玉焼きとトーストとベーコン、解凍したブロッコリーで朝食にした。単純にして完璧な色合わせの、型通りの献立。思考も時間も手間もそんなにかけなくて済んで、見た目はきちんと見えるから好きだ。

 雑誌を流し読んで、サボテンに水をやる。完璧な休日。出てくるゴミはコンビニのお弁当のカラとかではなくて、おしゃれな表紙の雑誌や流行りのコスメのパッケージ。演じるのはうまくなったな、と我ながら感心する。意外と取り繕った暮らしが好きだってこともわかってきた。歯を磨いて顔を洗う。ピカピカの鏡に水滴が跳ねる。タオルでさっとふき取って、ふいに自分と目が合った。少し痩せたな。顔の輪郭が鋭くなった。顔色がいま一つ冴えないのは食事のせいか病気のせいか。指でフレームを作って澄ました表情を作ってみる。遺影って誰が選んでくれるのだろう。母かな。だとしたらいつの写真を使うのだろう。短大を出た時のは不細工だったし、成人式もどっこいどっこい。どっちも五年近く前だから今の顔とはちょっと違うし。それなら撮りに行っちゃおうかな。どうせ暇と言えば暇なのだ。子どもの頃のお年玉にはいまだ手を付けていない。預金残高は十分、に違いなく。お化粧をして家を出る。目的地はもう決まっていた。お宮参りも七五三も撮ってくれた地元のホテルの写真室。あの時の愉快なおっちゃんはさすがにもういないかな。カレンダーを見たら仏滅だったけど、そんなことは知らない。思い立ったが吉日だ。自転車に乗れば簡単に風になれた気がして、鼻歌まじりに進む。平穏すぎてびっくりするくらい。ドラマチックに死を待つなんて、やっぱり私には荷が重いのかも。

 平日、それも仏滅のホテルは静かだった。写真室の受付に立っていたお姉さんも暇そう。とはいえ遺影を撮りたい、なんていう暗い要望にも穏やかに答えてくれる。さすがプロ。せっかくだから着るものにもこだわってしまおうと、ひとまず衣装を調達することになった。成人式以来の振袖。不覚にもわくわくした。衣装室も図書館並みにしんとしている。部屋のヌシめいて貫禄のあるおばちゃんが迎えてくれた。

「どのような感じになさりたいか、ご希望はありますか」

「あまり派手じゃない方がいいです。成人式っぽくなりたくないし。あとは暗くならない感じで。ただでさえ葬式なんて暗いのに、もっと気分落ちるのは嫌なんで」

「そうですね。では柔らかめのお色味で、お顔うつりの明るい色に致しましょうか」

 その人は深い事情にわずかも踏み込まないで、優しく雑談をしながら幾つも着物を合わせてくれた。お花みたいに色とりどり。ピンク、クリーム、オレンジ。

「柔らかい色がお似合いになりますね」

 淡いサーモンピンクの振袖ににぶい金色の帯、小物は若緑色。ガーベラの花束を思い起こすような姿で鏡の向こうの私が微笑む。悪くなかった。

「あの、ありがとうございます。これでお願いします」

 決めてしまってほっとしたのか、血の気が引く感覚が起こる。目の前が白っぽくなった。何か、言わなくちゃ。唇が動くより先に、差し出された椅子に座っていた。帯が、着物が外されて、身体が解放される。ゆられるような眩暈はまだ続いている。でも、安心した。ひどく迷惑をかけることも無さそう。ううん、ひょっとしたらすでに迷惑なのかも。本当ならお祝い事のために使われる衣装のはずなのにね。

「お客様、奥で少しお休みになりますか?」

「いえ、大丈夫です。帰れます。お邪魔でなければこのままにさせてください。ご迷惑をかけてすみません」

「そんな、とんでもございません。お車をお呼びしましょうか」

 自転車を置いて帰るのは後で面倒だとは思ったものの、ちょっと休んだくらいじゃ動けないのはわかっていた。お願いします、とだけ答えて目をつぶる。世界はまだ不安定に揺らいだままだ。

「ごめんなさい。縁起悪いですよね、こんなの。お祝いのときに着るものだし、来る場所なのに」

 でもやっぱり許してほしかったし、綺麗な写真で残されたかった。こんなにわがままだったかな。私は。

「気になさらないでください。私たちはただ、どのお客様にも綺麗になってほしいだけですから。お手伝いしか出来ませんけれど、どうかそれくらいはさせてください」

 声は限りなくあたたかい。やっと手足の先まで血がめぐる感覚が戻ってきた。息を深く吸う。大丈夫。自転車は無理でも家に帰れる。明日もちゃんと働ける。言い聞かせるように何度も念じた。

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