第7話 蚊帳と夜



人混みの中を歩く時、私はいつも、自分が背景になっているのを感じていた。


すれ違う人々は、私のことなど見ていない。私の名前も考えていることも何も知らない。彼らにとって私はアスファルトの壁と同じ。そして私にとっての彼らも同じ。


その感覚が、私は嫌いではなかった。圧倒的に孤独で、恐ろしいほどに自由で。人混みを歩きながら、その感覚に酔いしれていた。

すれ違う人、一人一人に人生があると思うと不思議な気持ちがした。皆大事な人に胸を焦がしているし、誰にも言えない苦しみと毎日闘っている。私はすれ違うサラリーマンの人生を一生知ることはできないし、彼も私の人生を一生知ることはない。それはひどく哀しくて、ひどく美しいことのように思えた。


けれどどこかで思っていた。今ここで、私が大声を出して泣き崩れたとしたら。彼らは壊れた背景をどんな目で見るのだろうかと。誰か、手を差し伸べてくれる人はいるのだろうかと。


そんなことあるわけないか。だって私は背景だから。私の人生がどんなだって、みんなには関係ないのだから。



***




この街では、外はいつまでも夕暮れのままだが、「夜」という概念がないわけではなかった。

「お風呂いってらっしゃい」、そう言って下着とパジャマを差し出してきたおばちゃんに勧められ、私はお風呂に入った。決して広くはなかったが、「おばあちゃんち」のような雰囲気のお風呂で、湯加減も丁度よかった。身体は思っていたより疲れていたらしく、私はお湯の中でがちがちになっていた肩をもみほぐした。

お風呂から上がると、居間におばちゃんとみさとちゃん、雅人くんの姿がなかった。どこだろう、お礼を言わなきゃ、そう思ってうろうろしていると、二階からばたばたと物音が聞こえた。おばあちゃんちを思い起こさせる階段を見つけ、私は二階に上ってみた。

「あー!優ちゃん、お風呂上がったんだね!」

上がってすぐ、雅人くんがばたばたと私のところに駆け寄ってきた。

「今ね、蚊帳作ってるの!優ちゃんも一緒に作ろ!」

「かや……?」

「ほら早く!」

彼に手を引かれて、私は一つの部屋に入った。そこは畳の部屋で、障子に昔ながらの電灯があしらわれており、おばちゃんとみさとちゃんが部屋の真ん中で「蚊帳」を張っているところだった。

初めて見た。蚊帳なんて、昭和を題材にしたドラマでしか見たことがない。少し驚く私に気付き、おばちゃんは「あら優ちゃん、湯加減は良かった?」と聞いてきた。

「とても良かったです。ありがとうございました」

「良かった。今、蚊帳張ってるんだけどね、ここが私たちが寝る場所になるんだよ」

「この中で、ですか?」

「狭そうに見えるけど、意外と快適なんだよ」

みさとちゃんがにかっと笑った。

私は内心戸惑った。彼らとは初対面。急に私が一緒の空間で眠って良いものなのだろうか。どんなに「家族」として過ごして良いとは言われても、どのように距離感を掴めば良いのか、私はまだ図りかねていた。

「とりあえず優ちゃん、手伝ってくれる?」

「あ、はい!」

私は生まれて初めて蚊帳を触った。繊細なのに頑丈で、こんな薄いものが私たちの眠りを包んでくれるのかと思うと不思議な気がした。外は相変わらず夕暮れが続いているはずなのに、この部屋はどこか夜の気配が濃くて、夏休みの夜のような匂いがした。




***




その夜、私は中々眠れなかった。身体は疲れているはずなのに、頭は冴えてしまっていた。

色々なことがあった、と思った。色々な人と出会った、とも。そして今は、出会って二十四時間も経っていない人と同じ空間で横になっている。すごく変な感じがした。そわそわして、落ち着かないのに、どこか心地よくもあった。変なの、私は誰にも聞こえないような声で呟いた。

こっそり、私は蚊帳から抜け出した。障子を閉めて電気を消すとこの部屋はだいぶ暗くて、圧倒的に夜だった。けれど、障子を少し開けてみると、空はまだ朱色をしていた。本当に、ずっと夕方のままなんだ、と実感せざるを得なかった。

「優ちゃん、眠れないの?」

不意に声をかけられ、私はびくりとした。気づくとみさとちゃんが起きていて、私の隣に立っていた。

「やっぱり、急にこんなことになったら、ぐーすかなんて寝られないよね。私もそうだったし」

みさとちゃんはそう言って笑った。メイクを落として髪をほどいて、寝巻き姿の彼女は、制服姿の彼女よりもどこかあどけなく見えた。

「みさとちゃんは」

私は気づいたら尋ねていた。


「どうして、死のうと思ったの?」


みさとちゃんは格段驚いた素振りも見せなかった。なんでもないことのように「あぁ」と頷いて、「そのことね」と言って笑った。

「聞きたい?」

「いや、話したくなかったらいいの。ただ、気になって。だってみさとちゃんは、自分から死を選ぶようには見えないというか、言葉が正しいかわからないけれど、"普通"の女子高生に見えるから……」

「私、そう見えてんだね」

そう言ってみさとちゃんはまた笑った。彼女はよく笑う。けれどその笑顔は、暗がりだからかもしれないが、どこか陰っていて寂しそうだった。

「そっか、それなら私は、大分演技派なんだな」

すやすや、雅人くんとおばちゃんの寝息だけが部屋に響いていた。月明かりなんてないはずなのに、それらしい光が射し込んでいるような雰囲気が、この部屋にはあった。

「いいよ、話すね」

みさとちゃんはそう言った。

思わず姿勢を正す私を見て、彼女はやだなぁ、と笑って言った。


「自分の自殺志望理由を話すのなんてさ、修学旅行の夜に恋話するみたいな感覚じゃないとやってられないって」


そして彼女は話してくれた。彼女が屋上から空を飛んだ理由を。

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