第5話 昼夜の間が夕方ならば
匂いというものは何故、強く記憶に刻まれるのだろう。
覚えていない景色に懐かしさを覚える時、それは匂いのせいであることが多い。刈ったばかりの芝生の匂いは、小学校の夏休みを想起させるし、住宅街に流れるカレーの匂いは、幼い日の帰り道を想起させる。夏の匂いはいつかの青春と温もりを。冬の匂いはいつかの別れと始まりを。
けれど、匂いで懐かしさを覚えても、それが何の記憶か思い出せないことがある。靄がかかったようで、手を伸ばしても届かない。遠い、遠い記憶。忘れてはいけなかったような、でも、それさえも思い出せない。
私は夕暮れの匂いで、いつも何かを思い出す。その何かがわからないまま、私は夕焼け色に染まる街を眺めるしかなかった。
いつか、どこかで、私は――。
***
よく煮込まれて濃い色をした肉じゃが。湯気を立てる具だくさんの味噌汁。みずみずしく光る真っ赤なトマト。若い緑色が眩しい枝豆。そしてほかほかの白いご飯。氷入りの冷たい麦茶。
ちゃぶ台に並んだ夕ごはんは、昔ながらの家庭と夏を感じさせるものだった。あまりに美味しそうで、私はお腹がきゅるると鳴くのを感じた。
さっき、みさとちゃんから衝撃的な言葉を受けた私は、何を言えばいいかわからず、ただ呆気にとられて彼女を見つめることしかできなかった。呆然としている間に料理が運ばれて、私はいつの間にか、ちゃぶ台の前に座っていた。
この街は、ずっと夕方。
頭の中は激しく混乱していたが、美味しそうなご飯と、今にも餌に飛び付きそうな犬のように目をきらきらさせている雅人くん、そして「美味しそ!」とスマホでトマトの写真を撮りだすみさとちゃんの前で、色々と質問する気にはなれなかった。
「はいはい、お待たせ。いただきましょ」
おばちゃんが、ゆで上がったとうもろこしを持って居間に入ってきた。またそれも黄金色に輝いていて、私の食欲を刺激した。
「いただきまーす!」
みんなの声につられて私も手を合わせ、夕ごはんの時間になった。
こんな時に、と自分でも呆れるが、おばちゃんのご飯はとても美味しかった。こんな温かくて美味しいものを食べたのは久しぶりのような気がした。私は記憶を無くす前、どのような食生活をしていたっけ、と思い出そうとしたが、美味しい食事をしながらそんなことを今考えるのは無粋だ、と思った。
「今日は四人だけだけどね、本当はもう二人、住人がいるのよ」
おばちゃんが言った。
「最近みんなで集まってないねー」
みさとちゃんが枝豆をつまみながら言う。
「おばちゃん、おかわり!」
雅人くんがご飯粒を口につけたまま言う。はいはい、とおばちゃんがお茶碗を受け取って笑う。
日常。
私は自分の知らない日常を見ていた。映画のワンシーンのように、彼らの食事風景が目の前に映った。微笑ましさと同時に、ひどく寂しくなった。私は、そこに溶け込めていない。
「優ちゃん、麦茶、おかわりいる?」
おばちゃんの声で私は我に帰った。
「あ、お願いします……」
「はいよ」
私は俯いた。ごめんなさい。部外者がこんなところにいて、ごめんなさい。みんなの日常に混ざってしまって、ごめんなさい……。突然の寂しさは瞬く間に私の胸を覆った。
「優ちゃん」
顔を上げると、おばちゃんが私の目を見つめていた。
「このコップは、優ちゃん用だからね。これからいつでも好きに使いなさい」
「え……?」
「あのね、優ちゃん。突然知らない家に連れてこられて、戸惑いも不安もあると思うわ。でもね、ここは優ちゃんが自分で選んで来た場所なの。だからもっと伸び伸びしていいの。疎外感とか申し訳なさとか、感じる必要なんてないのよ」
私の心の内を見透かしたかのようなおばちゃんの言葉に、私の胸がとくんと鳴った。そして、一つ、聞き捨てならない言葉を拾った。
「私が、自分で選んだ……?」
ここに来ることを?
「おばちゃん、今それ話すの?」
みさとちゃんが心配そうな顔で私とおばちゃんを交互に見ているのがわかる。視界の隅では雅人くんがとうもろこしにかじりついている。オレンジ色の日差しに畳が焼かれている。時計の針の音。
「教えてください」
私は口を開いた。
「私は、どうしちゃったんですか?」
口から出た最初の質問は、あまりに情けなかった。でも、一番怖くて、一番知りたいことだった。
「優ちゃん、あのね……」
「優ちゃん、死んじゃおうとしたんだよ」
雅人くんだった。彼は空になった枝豆のさやをいじりながら、何気ない口調で言った。
死んじゃおうと、した?
「雅人!」
みさとちゃんが雅人くんを咎めた。けれど雅人くんはきょとんとしている。「何か悪いこと言った?」とでも言うように。
「どういうことですか……?」
絞り出した声は掠れていた。おばちゃんは視線を雅人くん、みさとちゃん、夕陽の順に写して、最後に私を見た。そして少し間を置いて言った。
「この街はね、自殺未遂をした人が暮らす街なの。生の世界と死の世界の狭間にある、昼と夜の狭間の夕方がずっと続く街」
ぼーん、ぼーんと時計が鳴った。それは、私の中に何か恐ろしいものを思い出させる合図のように響いた。
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