第4話 長い夕方

「随分遠くまできてしまった」


そんな感覚に陥ることがある。

例えば、道を歩いていて、後ろからランドセルを背負った少年たちが走って追い抜いて行った時。ブランコに腰掛けアイスを食べながら話をしている制服姿の恋人たちを見た時。「まま、今日ね、幼稚園でね」と楽しげに話す少女と、その手を引いて微笑む母の後ろを歩いている時。

そういう時、私は、自分と彼らの間には圧倒的な距離があるように感じる。もうそこに戻ることはできない、と感じる。

それは形容するならなんと言えばいいのだろう。切なさとも懐かしさとも虚しさとも少しずつ違う。

一つ、確かなことがある。そういった感覚に陥る時、空はいつも夕焼け色をしていた、ということ。それは嫌になるくらい綺麗で、いつも私の胸を抉った。



***




ただいまの声と共に居間に姿を現したのは、セーラー服姿の女の子だった。彼女は私の姿に気がつくと、ぺこりと会釈した。

「あら、おかえり」

おばちゃんが台所から顔を出した。

「みーちゃん!」

雅人くんが彼女にたたたっと駆け寄った。みーちゃんと呼ばれた彼女はにかっと笑い、くしゃっと雅人くんの頭を撫でた。

「ただいまー!雅人」

「優ちゃん、紹介するね。この子はみさと。高校二年生で、うちに居候してるのよ」

「初めまして、みさとです!」

おばちゃんの紹介を受けて、彼女はまたぴょこんとお辞儀した。私も慌ててお辞儀を返す。

「あ、私、月岡優って言います。道に迷ってしまって、ここに連れてきていただいて」

「あー、そうだったんだー!てか、優ちゃんって年いくつ?同じくらい?」

「私、二十歳です。大学一年生で」

「えっ、じゃあ先輩じゃん!同い年くらいかと思った!」

みさとさん(ちゃん、でもいいのかな)はそう言って笑った。その笑顔は眩しくて、それほど年は変わらないはずなのに、すごく若さを感じた。

「そんな、変わらないですよ」

「なんで優ちゃんが敬語使ってるの~!優ちゃんがよければタメで話そうよ」

「あ、私は大丈夫です、あ、いや、大丈夫」

「緊張しすぎだよ~私なんてそこらへんにいる女子高生だよ?じゃあタメにしよ!これから一緒に住むんだしさ」

屈託ない彼女の明るさに押されるように、私は頷いていた。なんて人懐っこいのだろう。私が高校生の時は、こんな風に人と話すなんてできなかった……ような気がする。きっと、友達も多いんだろうな。私はなんとなく思った。

それにしても、と私はまた胸がざわめくのを感じた。「一緒に住む」という言葉が妙に引っかかる。迷子になった人を預かる時、普通そんな風に言うだろうか。あと、もう一つ。みさとちゃんはこの民宿に「居候」していると言った。彼女はおばちゃんの親戚なのだろうか?じゃあ、雅人くんも?この民宿の住人の関係は、どうなっているのだろうか?

考え出すと漠然とした不安に襲われた。私はこれからどうなるのだろう。記憶を失って、知らない街の民宿に連れて来られて。わからないことばかりだ。

「優ちゃん?どうしたの、顔色悪いよ」

みさとちゃんに顔を覗きこまれて、私ははっとした。

「ううん、何でもない、大丈夫」

「ほんと?なんか、すっごい不安そうな顔してたよ?」

「う……」

「なんか心配なことあったら、僕たちに聞きなよ!!僕たち、優ちゃんよりここの先輩だからね!」

雅人くんが、私とみさとちゃんの間に入って得意気に言った。もう、調子乗ってー、とみさとちゃんが笑う。

「でも、雅人の言うとおりだよ。そんな心配そうな顔されて放っておくほうが無理だよ?」

「……」

何と言えばいいか、わからなかった。私は何者なの?ここは何なの?私はなぜここにいるの?これからどうなるの……?言葉だけが頭の中でぐるぐるして、口から出てくれない。

「優ちゃん」

おばちゃんがいつの間に私のそばに来て、肩にぽんと手を置いた。

「色々聞きたいこと、あるわよね。急に連れて来られたんだもの。あなたたちもそうだったでしょう?」

おばちゃんの言葉に、雅人くんとみさとちゃんは神妙な顔をした。

あなたたちも、そうだった?

「あの、それってどういう」

「優ちゃん」

おばちゃんは私の目をまっすぐ見つめて言った。

「後で、ちゃんと話すわ。色々訳のわからないことばかりで、頭が追い付かないわよね。始めはみんなそうなの。でも、この話は、ここに来るひとたちにとってすごく重いものになるから。まずは休んで欲しくて、すぐには話さないことにしてるのよ」

カナカナカナ……とヒグラシが鳴いている。カァカァ、と遠くでカラスが鳴いている。おばちゃんの言葉の意味を図りかねる私の耳に、それらの声がやけに大きく響いた。

「とても大事なことだから、ちゃんと話さなければいけないわ。でもね、その前に」

ぐぎゅるるるる。大きな音が鳴った。雅人のお腹の音だった。

「夕ごはんにしましょ。お腹、空いてるでしょう?」

雅人のお腹の音と「夕ごはん」の言葉の響きで、私のお腹が急にぺったんこになるのを感じた。こんな時にもお腹が空いてしまうなんて、人間って単純だな、なんて思う。

「夕ごはん!!腹減ったー!!」

「今準備するわね。みさと、準備手伝ってくれる?」

「はーい!」

「優ちゃんは、先に座って休んでて。ほら、雅人も跳び跳ねてないで手伝って」

「はーい!」

私は大人しく、居間の真ん中のちゃぶ台の前に腰掛けることしかできなかった。すると、みさとちゃんが、不意に私に耳打ちした。

「さっきのおばちゃんの話、ほとんど意味わからなかったでしょ。私もそうだったよ」

「私もって、それって」

「ご飯食べたら、話があると思うんだけど、すぐに受け入れなくてもいいよ。てか、受け入れられないと思うし。だから、そんな思い詰めた顔しないでよって」

みさとちゃんはそう言って、台所に向かおうとする。

「待って!」

私は思わず呼び止めた。

「ここは、何なの?」

みさとちゃんは少し言葉に迷ったようだった。どこまで私から言っていいのだろう、と考えているように見えた。少しの沈黙の後、彼女は口を開いた。

「優ちゃん、今日、やけに日が長いなって感じることなかった?」

思いがけない問いに、私は急には答えられなかった。けれど、それは確かに感じていた。ずっと夕焼けの景色のまま、一向に暗くならない。でも、それが今の状況とどういう関係があるのだろう……?

「それは、感じたかも」

「そう。私から言えるのはこれくらい」

「え?」

「んーと、まぁ、簡潔に言っちゃうとね」

みさとちゃんは縁側から見える夕陽に目を細めた。


「この街は、ずっと、夕暮れのままなんだ」



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