第3話 スイカと住人と縁側


人間は、どうしてどうでもいいことばかり覚えているのだろう。


例えば、幼い時に母親の車で流れていた昭和の名曲とか、休みの日に父親が作ってくれた焦げ目つきの炒飯の匂いとか、鯨の形をした雲が出てくる物語のこととか。


もっと大事なこと。覚えていなければいけないことはたくさんあるはずなのに。夏休みの課題の締め切り。大事なメールの返信。ケーキの賞味期限。そういったものはいつの間にか記憶から漏れて、何でもない回想に耽っている間に、どこで落としたかわからなくなる。


でも、どうでもいい記憶は案外、思い出した時に心地よいものが多い気がする。淡い色を纏ったような。ほんのり甘い匂いがするような。それを懐かしさと呼ぶのなら、きっとそうなのだろう。


私にも残っているだろうか。

どうでもいい記憶が。

懐かしさで胸が抉れるような記憶が――。



***




外ではもうヒグラシが鳴いていた。

私は知らない街の民宿の縁側に腰かけて、ぼんやりとオレンジ色に染まっていく街を眺めていた。

おばちゃんは、台所で何やらがちゃがちゃやっている。私に、「スイカ出すから、ちょっと涼んで待っててね」と言ったきり、中々帰ってこない。時間的に、夕飯の支度で忙しいのだろうか。身体を捻って居間の掛け時計に目をやると、既に六時近かった。

大分、日が長いな。夕焼けを眺めながら、私はぼんやりと思う。六時なのに随分と明るい。私が知らない公園で目覚めてから、空の色が全く変わっていないような気さえする。


がらがら、ばたばたばた。


突然、玄関の扉が開く音と、騒がしい足音が聞こえた。誰か来たようだ。ここに住む家族か、お客さんか……?考えてるより先に、その誰かが居間に駆け込んできた。


「ただいまーー!おばちゃん、腹減ったぁぁ」


少年だった。小学校低学年くらいに見える。半袖半ズボンからこんがり焼けた肌が覗いており、髪の毛は汗でびっちょり濡れていた。外で遊んでいたのだろうか。

「あら、雅人、おかえり。カブトムシ、見つかった?」

「今日も見つからなかったんだよー。セミはいっぱいいるのに。どこにいるんだろー。それよりおばちゃん、腹減った腹減ったーー!」

「はいはい、今ご飯作ってるからね。スイカなら冷えてるよ、食べる?」

「食べるーーー!」

「じゃあ、優ちゃんと一緒にお食べ。今出すからね」

「優ちゃんー?」

少年はそこで初めて、縁側にいる私に気づいたようだった。私は慌てて軽く頭を下げた。

「こ、こんにちは。えと、私、道に迷ってしまって、ここに……」

「お姉ちゃんが優ちゃん?迷子さん?僕、雅人!ここに住んでるんだ!よろしくね!!」

少年は屈託ない笑顔を私に向けた。その笑顔があまりに無邪気で、私も思わず頬を緩めてしまった。

「雅人くん、だね。よろしくね。優です」

「スイカ!!一緒に食べよー!」

雅人と名乗った少年は、ばたばたと台所に駆けていった。そして、大きく切られたスイカの乗ったお皿を持って、またばたばたと戻ってきた。

「優ちゃん、待たせたね。この子は雅人、うちに住んでるんだよ。スイカ、二人で仲良く食べるんだよ」

台所から顔を出しておばちゃんが言った。雅人、くんは、親戚の子供か何かだろうか。雅人くんは私の隣にちょこんと座り、スイカを掴んで「いただきまーす!」と言ってがぶりと大口でかじりついた。その食べっぷりに押されるように、私もスイカを手に取り、しゃりっ、と音を立ててかじった。

「美味しい……」

思わず口にしてしまった。そのスイカは記憶上(と言っても記憶喪失中なのだが)で一番美味しかった。みずみずしさと程よい甘さが口いっぱいにじゅわぁっと広がり、鼻から夏の匂いが抜ける。美味しい。隣で雅人くんが、「だろー!」と何故か自慢げに笑っている。

夏の夕暮れと、縁側と、スイカ。その景色の中にいる自分。私はどこか、懐かしさを覚えた。まただ。変な感覚。私はこの景色を、どこかで知っているような……。

でも、手に持ったスイカを早く食べたくて、私はすぐに意識をスイカに移した。もしかしたら、私はひどく喉が渇いていたのかもしれない。

「ごちそーさま!」

隣では雅人が早くもスイカを食べ終わっていた。そして、ぷぷっと口に残った種を飛ばし始めた。黒い種が宙に舞い、地面に転がる。その様子を見ながら、私も対抗して種が

を飛ばしてみた。こんな子供みたいなこと、いつぶりだろう。いつぶりとか、今の私にわかるはずもないのだけれど。

「優ちゃん、下手だなー!」

雅人くんが隣でけらけら笑う。

「雅人くんのほうが、上手だね」

「へへー!当たり前じゃん!僕のほうが、このおうちではせんぱいだもん!せんぱい!」

「雅人くんは、ここに住んでるの?」

「そうだよ!優ちゃんよりずっと前から住んでるよ!」

「ここには、何人住んでいるの?」

「うーんとねー、僕と、おばちゃんと…五人かな!いっつも出掛けてて中々おうちにいない人もいるんだけどね。でも、優ちゃんが来てくれたから六人になった!」

「え、でも、私はお客さんとしてここに……」

「お客さん?でも、迷子になってここに来たんでしょ?」

「うん」

「おじちゃんに連れてきてもらった?なんか、ぼーっとしてるおじちゃん!」

彼のことだろうか。私はたぶん、と頷いた。

「じゃあ、ここは優ちゃんのおうちだよ!」

雅人くんはそう言って笑ったけれど、私はどういうことかわからず、曖昧に頷くことしかできなかった。ここが、私の、家?迷子になった、私が連れてこられたこの民宿は、一体……?住むってどういうことだろう。

わからない。わからないけれど、無邪気に笑う雅人くんに多くを質問することはできなかった。どうしよう、と頭をぐるぐるさせていると、また、玄関のほうで物音がした。


「ただいま」


という声が、聞こえた。

私は最後のスイカの種を吐き出して、その声のする方に視線をむけた。

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