第2話 何も知らない街
すべて知っているのと、何も知らないのは同義だと思う。
すべてがあるのと、何もないのもまた、同義だと思う。
誰かがそんなことを言っていた気がする。その誰かさえ、もう思い出せないけれど。
記憶というのはどうして、大事なことから零れていくのだろう。どうでもいいようなことばかりが残る。きっと、私はもう思い出せないような大事な記憶を、どこかでぽろぽろ零してきたのだろう、と思う。
ねぇ。
それなら、記憶って、何の為にあるんだろうね。
***
知らない街で記憶を失っていた私を見つけてくれた、知らない男のひと。彼の背中を見つめ、黙って後について歩きながら、私は考える。
これからどうしよう。交番に行っても、自分の情報なんてほんの少ししか覚えていない。どこに帰ればいいのかわからない。ねっとりとした不安が、汗と共に身体から離れない。
「ついた」
彼はふいに立ち止まった。私も慌てて立ち止まり、目の前に現れた建物に目を向けた。
「ここです、か?」
そこは交番――ではなかった。昔ながらの、民宿のような雰囲気の日本家屋だった。結構な大きさで、ちゃんと庭もある。一本の木が立っており、夕暮れの風に葉を揺らしていた。
「この街で迷った者は、ここに来させるようにしている」
彼は呟くようにそう言うと、当たり前のように建物の中に入っていこうとする。私は慌てた。
「え、待って下さい、でも、普通こういう時って、交番とかでは」
「この街に交番はない」
「え?」
「入るぞ」
交番はない?そんな街があるだろうか。常識的にあり得るのだろうか。ただ、この状況がそもそも、私の日常の中において常識的にあり得ないものだったから、何も言い返せなかった。
私の、日常?
ふと、その言葉が引っかかった。何か、思い出せそうな、それなのに靄がかなってよく思い出せないような感覚に、また襲われた。思い出せないとおかしいはずなのに。どうして。
怖い。知らないひとについて、知らない家に入るなんて、怖い。
立ち止まったまま動けない私を、彼は振り返って見つめた。その目は深く、私を見ているようで、違う何かを見ているようだった。
「怖いか」
「……はい」
「そうか」
彼は格段動揺するでも、説得しようとするでもなく、表情ひとつ変えず、夕方の風に髪を揺らして私を見つめた。
「スイカは好きか」
「はいっ……?」
彼の突然の言葉に、私は変な声を出してしまった。スイカ?この脈絡で、なぜ?
「好きか、嫌いか」
「え、普通に、好きですけど……なんでそんなこと」
戸惑いを隠せないままの私に再び背を向け、彼は建物の中に入っていく。そして、玄関の扉をおもむろに開き、言った。
「おばちゃん。この子にスイカ、食べさせてやってくれ」
おばちゃん……?スイカ……?私が混乱していると、中から物音がして、一人の女性が出てきた。
「あら、兄ちゃん。その子?迷子?」
「はい。知らないひとの家に入るのは、やはり恐怖を感じるようで」
「そうよねぇ、普通そうよねぇ。迷子になったら、普通は交番だものねぇ」
出てきた女性――おばちゃん、と呼ばれたそのひとは、おっとりとした、田舎のおばちゃん、といった雰囲気を纏っていた。先ほどまで料理をしていたのであろうか、割烹着を来て、首からは手拭いを下げている。「おばちゃん」は、「兄ちゃん」と私を交互に見て、微笑んだ。
「姉ちゃん、大丈夫よ。この兄ちゃんね、無愛想に見えて優しいんだから。この街には交番がなくてね、迷子になったひとはうちに来ることになってるの」
おばちゃんはそう言うと、玄関に取り付けられていた表札のようなものを指差した。古びていて、文字がよく読めない。しかしそこには、「民宿 永井」と書いてあった。
「うちはね、この街で古くからやってる民宿なの。だから、落ち着くまで少し休んでいらっしゃいな。疲れてるでしょう。スイカが冷えてるのよ」
おばちゃんはそう言うと、私のほうに歩み寄った。
「姉ちゃん、名前は?」
「……月岡、優です」
「優ちゃんね。よろしくね」
自分の名前をひとに呼ばれることで、私は、ちゃんと私として存在しているのだと思えた気がした。おばちゃんの纏う雰囲気は、どこか懐かしくて、暖かくて、私は気づいたら、その建物の中に足を踏み入れていた。
「あの、お兄さん、私……」
振り返るとそこに、もう彼の姿はなかった。
さっきまで、一緒にいたのに……?
「優ちゃん、どうかした?」
「あの、私をここに連れてきてくれた方に、お礼を言いたかったんですけど……」
「ああ、それなら大丈夫よ。またすぐ会えるわ」
「すぐ?」
私が首を傾げた時、部屋の奥からやかんのお湯が沸く音が響き渡った。おばちゃんは、はーいはいはい、と慌ただしく駆けていく。結局そのまま、言葉の意味はわからないままだった。
どうしてだろう。知らないひとに連れてこられた、知らない家の中で、私は思う。
私はここを知っている気がするし、全く知らない気もする。この感覚は、一体、どんな名前をしたものなのだろう。
外では相変わらず、夕日が街を照らしていた。
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