夕暮れに住むひと

夕空心月

第1話 夕暮れの街



夕暮れの匂いは、何故あんなに懐かしいのだろう。

ずっと不思議だった。毎日、新しい夕暮れに出逢うのに、「この夕暮れを、私は知っている」と感じる。言いようがない懐かしさで胸が苦しくなる。

だからなのか。私は夕暮れ時になると、「帰ってきた」と感じる。自分が今までどこにいて、どこに帰るのかさえわからないのに、ただ、「ただいま」という感情を覚える。

あぁ、まただ。

また、今日も、夕暮れ時がやってくる――。




私は、ゆっくりと目を開けた。オレンジ色に染まった空が映る。雲がゆっくり流れ、鳥たちの影が視界を横切っていく。


あれ、私、どうしていたんだっけ。


横たわっていた身体を起こし、辺りを見渡した。そこは、小さな公園だった。人はおらず、遊具はブランコと小さな滑り台があるだけの、寂れた公園。私はその公園のベンチで眠っていたらしい。

その公園には見覚えがあるような気がした。ずっと昔、幼い頃に来たことがあるような……よく思い出せないけれど、どこか懐かしい感じがした。

それにしても、ここは、どこだろう。私は、何をしていたんだっけ……?

思いだそうとしたが、頭の中に靄がかかったようで、うまく記憶を呼び起こせない。寝ぼけているだけかと思ったが、段々とそれだけではないことに気がつき、私は愕然とした。

自分が今日一日、どのように過ごしていたか

の記憶が、すっぽりと抜けていたのだ。


記憶喪失?


いや、そんなはずはない。私は気持ちを落ち着かせるために、自分自身のことを口に出してみた。

「月岡優、19歳、AB型、好きな食べ物はたくあん、大学一年生で、一人暮らしをしていて、それで……」

大丈夫。自分のことは忘れていない。

けれど、と私はまた愕然とした。

過去についての記憶が、白い霧の中にあるかのように、曖昧になっていた。なんとなく覚えているような気がする、という感覚はあるのだが、具体的な出来事は何も、思い出せなかった。

途端に、激しい恐怖に襲われた。私、どうしちゃったんだろう。思わず自分の肩を抱くと、かたかたと小刻みに震えていた。

交番に行くべきか。私は混乱する頭で必死に考えた。地図で調べようと思い、携帯を取りだそうとポケットを探ったが、そこにあるはずの携帯はなかった。

また、頭が真っ白になる。どうしよう。どうしようどうしよう、どうしよう……。

その時、背後で足音がした。振り向くと、そこにはひとりの男性が立っていた。

私は藁にもすがる思いで、混乱したまま、見ず知らずのその男性に、泣きつく勢いで話しかけた。

「あの、すみません、あの、この辺りに、交番はありますでしょうか、あの、私、えっと、迷子になってしまったみたいで……」

「迷子」

男性は、明らかに取り乱した私の様子に大して動じた様子を見せなかった。ぐるりと辺りを見回したあと、頭をぽりぽりと掻いて言った。

「なら、僕が案内しよう。この街で迷子になったひとが行くべきところに」

「ほんとですか……!ありがとうございます、すみません、すみません……」

私はひたすらに頭を下げた。何もわからないけれど、とりあえず交番に行けば、どうにかなるだろう。事故か何かに巻き込まれたのだったら、調べてもらえるだろうし、ここがどこかも教えてもらえるだろう。自分の中に、検討がつくものが何もないのは、不安ではあるけれど。

「君、名前は」

男性は私に尋ねた。私はさっき自分で唱えた名前を、ゆっくりと確かめるように口にした。

「月岡、優です」

うん、間違っていない。この名前には馴染みがある。私は、すべて忘れたわけではないのだ。

「そうか、いい名前だ」

男性はそう言って頷いた。彼はとても落ち着き払っていた。年は二十代後半くらいだろうか。背が高く、低い声をしていた。ラフなTシャツとスウェットという姿で、少し煙草の匂いがした。そして、とても静かな瞳をしていた。

「あの、あなたは……」

私が言葉を継ごうとすると、彼は静かに歩き出した。慌てて私は後に続いた。

彼の髪が風に揺れて、夕焼け色に染まっていた。あれ、まただ、と私は思う。

この感じを、私はどこかで知っている……。


けれど今の私に、思い出せるはずもなかった。

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