第36話

 コーヒーを飲んで帰って来ると、最初の萩太郎さんが出番の準備をしているところだった。萩太郎さんはわたしの姿を見つけると

「初っ端だからね。緊張するよ」

 そう言っていたが、馬富さんが

「兄さんはこれが手だから、騙されちゃ駄目だよ」

 そんなことを言って笑わせてくれた

「兄さん、里菜ちゃんは小鮒っていう彼氏が居るんですから」

 そう注意をすると萩太郎さんは

「だから、俺の人なりを知って貰って、友達を紹介して貰おうと思ってさ」

そんなことを言っている。多分気分をほぐしたいのだろうと思った。そして萩太郎さんの出囃子が鳴り出した。

「じゃ行ってくる」

 そう言い残して高座に出て行った。わたしは急いで客席に戻る

「え〜今日の『若手特選会』の初っ端の高座でございます。萩太郎と申します。どうぞよろしくお願い致します」

 挨拶をして噺に入って行く。この「代書屋」というのは。今で言う「司法書士」にあたる職業で、法的な書類の他に個人的な書類の作成もやっていたそうだ。

 ある代書屋さんにワケの判らない男が、履歴書を書いて貰いにやって来て、トンチンカンなことを言う。非常に笑いの多い噺で、誰がやってもウケる噺だ。だがそこが返って難しいと小鮒さんは言っていた。本来は次々と客が来て、それぞれが無理難題を言う展開になる長い噺なのだが、元は上方の新作だったが、今や東西で演じられて古典になっている。東京では最後までは余り演じられず。最初の男だけで終わる。萩太郎さんの師匠が、かなり作り変えたのだと言っていた。

「そこかけて」

「へ?」

「かけるの!……誰が走れと言ったの!」

 こんな調子で噺が進行する。会場は爆笑に継ぐ爆笑で完全に客席が温まった感じだった。

 最後は学歴の噺になり出身の学校を訊くところがオチとなる。この先の職歴のところまであるが、今日はそこまでは行かない。

「ああ、いけねえ!」

「どうした?」

「学習院だった」

 一斉に拍手が沸き起こる。萩太郎さんは満足げな表情で高座を降りた。わたしは翠と一緒に居たいので楽屋に向かう

「あ、里菜。来てくれたんだ」

「当たり前でしょ」

 楽屋の袖からも無理すれば見えるが、ここは大人しく楽屋のモニターで小鮒さんと一緒に見ることにする。二番手の馬富さんの出囃子が鳴って馬富さんが翠の方を向いて頷いてから出て行った。翠は両方の手を胸の前で組んで祈るような表情でそれを見送った。

「青菜」という噺は、旦那の庭を剪定していた植木職人の熊さん。旦那に色々とご馳走になる、鯉の洗いから始まり、「柳陰」という珍しい酒やそうめん等をご馳走になった後に

「時に植木屋さん。菜はお好きかな?」

 と尋ねられる。熊さんは

「へえ、大好物でございます」

 そう答える。旦那は奥方に菜を持って来るように言うが奥方は

「旦那様、鞍馬山から牛若丸がい出まして、その名を九郎判官」

「そうか、では義経にしておきなさい」

 そう返事をする。これは青菜は食べてしまって無いという洒落だったのだ。これに感激した熊さんは、家でもやろうとして失敗すると言う噺なのだ。

 この噺は馬富さんの師匠の宝家圓馬師匠だと、寄席の客席が旦那の庭になってしまう現象が起きるのだ。我々聴いてるものはそう感じるのだ。今日の馬富さんもいい出来できっと客席はそう感じているのだと思う。翠は目を瞑って噺を聴いている。そうなのだ、こんな時は耳だけで聴いた方が、色々な事が判るものだとわたしも感じた。

 熊さんの女将さんが、友達の前に押し入れから汗だくで出て来て

「旦那様、鞍馬山から牛若丸がい出まして、その名を九郎判官義経」

 と最後まで言ってしまった。困った熊さんは

「う〜ん弁慶にしておけ」

 サゲが見事に決まった。翠はそれを聴くとスクッと立って馬富さんを出迎えた。

「良かったよ!」

 翠の瞳が濡れていた。それだけこの噺に掛けていたのだと判った。

「そうか、師匠譲りだからな。やり難い噺に敢えて挑戦してみたのさ」

 その言葉はきっと本音だろうと思う。翠は着替えを手伝っている。それを見た小鮒さんは

「ちょっと」

 わたしを呼んで楽屋の外に連れ出した。ロビーの椅子に座り

「ここまでの出来は二人共いい出来だね。今日はかなり水準が高い。俺も頑張らないとな」

 そう言って笑みを浮かべた。そして

「卒業したらだけど、考えておいてくれないかな」

「え、……」

 それって……しかもいきなり……なんで今日なの? 今日は噺のことを考えていたのじゃ無いの? 

「駄目かな?」

 駄目って。そんな訳ないじゃない。でも、何て言おう……。ずるいと思った。わたしが簡単には断れないと思ってだと、その時は思った。

「もしかして、それって……」

「ああ、一緒になって欲しい」

 意識はずっとしていたし、それまで交際が続いていれば、そうなるものだと漠然と思っていた。

「まだ。一年半あるよ」

「もう一年半しかない」

「食べさせて行けるの?」

「そうなるように頑張る」

 結論は出ていた。今は彼以外の人と一緒になるなんて考えられない。でもすぐに返事をしては癪だと思った。

「今日もだけど、これからもこの会に落とされずに出演出来ていたら、噺家古琴亭小鮒の女将さんになる」

「ありがとう。一度も落とされないように頑張るよ」

 高座では福太郎さんが「菊江の仏壇」をやっているはずだった。

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