第35話
五月の「若手特選会」まあこれが本当の会で今までの二回は予選みたいなものだったのだけど、その五月の会は五月十日に行われる。五月と言えば噺家や芸人にとって稼ぎ時だ。特に上旬のゴールデンウィークは寄席や落語会にも多くの人が詰めかける。だから寄席でも一枚看板の師匠をトリに持って来たり、豪華な顔ぶれの落語会が開かれる。小鮒さんもびっしりとスケジュールが埋まっていた。わたしと出会った頃はこの時期でもろくに仕事が入っていなかった事を思うと胸に迫るものがある。
翠と賢ちゃんこと馬富さんの披露宴は五月の最後に行われる。その頃なら馬富さんの仕事も一段落つくからだ。でも今年はその前に「若手特選会」があるので翠はピリピリしているみたいだ。電話でも不安や愚痴が多い。常に前向きな翠がそんなことを口にするのは余程のことなんだろうと思う。何時もは反対のことが多いからだ。
四月も中旬になると五月の「若手特選会」の演目を決めなければならない。馬富さんは案の定「青菜」だった。小鮒さんは何をやるのだろう。訊いてみたら
「俺は今回は『替わり目』をやろうと思うんだ」
「『替わり目』かぁ。冬ならともかく初夏だからねぇ」
「まあ、そうだけどさ。だから誰も選ばないと思ってさ。皆が夏や初夏の噺なら詰まらないと思ってさ」
小鮒さんは確かに今年に入って良く「替わり目」を演じていた。この噺は五代目志ん生師が得意にしていた噺で、夫婦の情愛の噺とされている。笑いの多い噺でもあり演者としては不足は無い噺だ。
「期待しちゃっていい?」
「ああ、頑張るよ」
わたしは小鮒さんがこの噺を選んだ理由を訊きたかったが今は尋ねない事に決めた。きっと回答は当日の高座にあると思ったからだ。
他の演者の演目も決まった。福太郎さんはやはり上方落語で「菊江の仏壇」。段々さんが「黄金餅」で萩太郎さんは「代書屋」と決まった。個人的な見方だが、小鮒さんや馬富さんに比べて福太郎さん、段々さん、萩太郎さんは難しい噺に挑戦するのだと思った。確か演目のリストにはもっとやり易い噺もあったはずだ。それでも敢えて難しい噺を選んだ三人はそれだけ真剣なのだと思った。決して小鮒さんと馬富さんが簡単な噺を選んだ訳ではない、小鮒さんが言うには
「賢治の奴はよほど上手くやらないと落とされる可能性があるな」
そんなことを言っていた。わたしは、その理由が知りたくて
「どうして。師匠ゆずりなら上手に出来るんじゃない」
「だからさ、上手に出来て当たり前と思われるということさ。つまり合格点が引き上げられるという事さ」
そうか、そんな事はわたしは考えていなかった。
「じゃあ余程の出来で無ければ駄目とう事?」
「そういう事だと思うよ。誰も決して楽を考えている訳では無いからね」
そう言った小鮒さんの「替り目」だって簡単な噺ではない。小鮒さんの師匠の古琴亭栄楽師匠はこの噺を秋から冬になると良く寄席で演じるという。先日小鮒さんは師匠の家に行って「若手特選会」でこの噺を演じることを告げたそうだ。その時師匠の栄楽師は
「この噺は笑わせるポイントが沢山あるがその根底にあるのは夫婦愛だ。それを踏まえていれば良い」
そうアドバイスしてくれたという。ちなみに噺家は前座や見習いは毎日師匠の家に朝顔を出して掃除や雑用をする。前座はその後ご飯を食べて寄席に行く。見習いは更に雑用をして師匠のカバン持ちをして一緒について行く。これが仕事だ。二つ目になると、それらからは開放されるし、基本的に師匠の家に、毎日は行かなくても良くなる。でもたまには顔を出さないと駄目らしい。小鮒さんは地方の仕事から帰って来るとその行き先の土産を必ず北千住の師匠の家に持って行っている。それは師匠というより見習いや前座の頃に大変お世話になった女将さんへの気遣いだと、わたしは思うのだ。
今年のゴールデンウィーク、小鮒さんは本当に忙しくて、向島の家に帰って来るのも遅くなることが多かった。大学が休みなので、顕さんが向島の家に帰る時は、おばあちゃんの許可を得て、わたしも向島の家に泊まっていた。
「里菜ちゃんが来てくれると家の掃除や家事を色々してくれるので助かるわぁ」
おばあちゃんはそう言ってくれているので、正直わたしも来やすいのだ。お風呂を沸かしておいたり、おばあちゃんや顕さんの好きなものを作っておくのだ。わたしは、たまにだが翠はこんな事をもう二年以上もしていたと思うと頭が下がる。結婚するとこれが毎日になるのだと実感した。
十日の特選会の出番が告知された。まず一番手は萩太郎さんで「代書屋」二番手が馬富さんで「青菜」仲入りが福太郎さんで「菊江の仏壇」くいつきが段々さんの「黄金餅」そしてトリが小鮒さんの「替わり目」だった。向島の家で遅い夕食を食べながらわたしは顕さんに
「ねえ今度はトリなんだね。凄いじゃない」
「違う、違う、これ持ち回りだからね」
「持ち回り?」
「そう順番なんだ。この次は俺がトップになると決まってるんだ。だからそんな点も考えて演目を選ぶんだよ」
「そうかぁ。あきまでも公平なんだね」
「まあこの会に選ばれた時点で注目されているからね。そこから先は自分次第ということさ」
小鮒さんは少しも浮かれていなかった。
向島の家では実家の傍にある「実咲公園」のような場所が無かったので小鮒さんは向島の家の近所を歩きながら噺の稽古をしていた。わたしもそれに付き合って一緒に歩く。向島は夜遅くなると人通りも少なくなるが、さすが東京だけあって街は明るい。わたしひとりでも歩くのに不安を感じさせる事は無かったので、遅くなっても心配は要らなかった。そして十日を迎えた。
その日、わたしは大学の講義が終わると虎ノ門の「ニッスイホール」に向かった。地下鉄を降りて会場の前まで来ると、大きな看板が掲げられていた
『第一回 若手特選会』
白地に黒く書かれた文字は見事だった。正式には今日が第一回なのだと再認識する。そうなのだ「特選」の文字に嘘は無い。選ばれた二つ目の噺家十人の内から更に六名に絞られたのだ。次回は遊五楼さんが入って、今日一番出来が悪かった人が次回は休みになる。その次には出られるが、そこでまた一番出来が悪いと交代の可能性もあるそうだ。常に真剣でなければならない。
会場に入って楽屋を訪れると、先に翠が来ていて馬富さんの世話をしていた。
「ああ、里菜。今来たんだ」
「うん。今日は講義があったからね」
「小鮒さんはトリだからもう少し遅くても良かったかもね」
その声で楽屋の奥から小鮒さんが出て来た。未だ着物にも着替えていない。口上が無いから出番の前までに着替えれば良いのだ。
「お茶飲もうか」
小鮒さんは他の噺家さんに気を使って、わたしを表に誘い出した。すぐ傍のコーヒー屋さんで小鮒さんは
「翠ちゃんはすっかり女将さんだね」
そう言って笑っていた。噺家の中にはあまり関係者を、楽屋に入れたがらない人も居る。今日のメンバーにそんな人が居るのかは、判らないが小鮒さんはきっと気を効かせてくれたのだろう。出番がトリという事もあると思った。
「そんな心配な顔をしなくて良いよ。大丈夫次もきっと出られるから」
小鮒さんは、わたしの表情からわたしの心配事を見抜いていたのだった。それだけ余裕があるなら大丈夫だと思った。
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