第29話

 第一回の「若手特選会」は二月十一日に行われる。東京の虎ノ門にある「ニッスイホール」というところで行われるのだ。

 ここは凡そ七百名程の会場だが、コンパクトに出来ているので良く落語会等が開かれる。この会で変わっているのは、演目が予めセレクトされており、その中から演者が選択する仕組みとなっていることだ。これは得意な演目ばかりやらないようにする為の仕組みだと小鮒さんが言っていた。要するに公平性の確保という意味だそうだ。その中で小鮒さんが選んだのは「初天神」だった。これはお正月の二十五日の天神さまの縁日に親子で参拝する様子を面白おかしく仕立てた噺だ。以前からよくやっていたが選択した理由を訊いたところ

「この噺は親子の仲の良さを描ければ成功だと思ってる」

 そんな答えが返って来た。寄席などでは団子や飴のシーンで笑わせるが、小鮒さんに言わせると「それは本意では無い」と言っていた。

 他には、萩家小艶さんが「棒鱈」、笑艶亭福太郎さんは上方落語の「親子茶屋」、桂文太吾さんは「転宅」。そして立山流の談々さんは「うどん屋」と決まった。

 選択された演目を眺めて小鮒さんは向島の家でわたしに

「『棒鱈』は萩家のお家芸だからなぁ。稽古を付けて貰う人材には困らないだろうな」

 確かに一門に演じる人が多かったら稽古を付けて貰うには不自由しなさそうだ。

「ねえ、『親子茶屋』ってどういう噺なの?」

 わたしはこの噺を聴いたことが無かった。

「そうだな。こっちでも『夜桜』って言う題で演る人もたまに居るんだけどね。これは道楽息子に説教をした父親が実はかなりの遊び人で、それを隠して遊んでいる所に表を通った倅が『なんて粋な遊びをしてる人だ』と感心して是非一緒にと言って座敷に入ったら実は父親だったというオチさ」

 確かに聴いた事が無い噺だった。

「音曲が入るからその辺も調整がいるね」

 どうやら簡単な噺ではなさそうだった。その他の噺は一度は聴いたことがあった。

「ま、ちゃんと稽古しなくちゃな」

 そう言った小鮒さんの目は真剣だった。


 真冬にバイクに乗るのは少し厳しい。特に長距離だと体が完全に冷えてしまう。ここのところ通学には天気の良い日だけバイクで通学していた。新しいバイクは調子が良く前のバイクの時よりも体の負担が軽くなっているのを感じる。

 やはり排気量が小さいと走るのに神経を使うことが多いからだ。百二十五に載っていた時は判らなかったけど、こうして倍の排気量のバイクに乗っていて初めて判った事だ。きっと更に大きなバイクに乗ればまたそう感じるのかも知れない。でも、今はこれに集中することだと思った。

 風を通さないように工夫をしてバイクに乗るのだが、やはり体は冷える。母などは

「冷えるのは良くないから寒い日は乗るのを辞めなさい」

 とか心配してくれるが、普段の使用で一番の長距離が通学だから、寒い日は電車で通っている。

 それと冬で困るのが雪の降った時だ。バイクは雪に弱く、少しでも道路に雪が残っている時はバイクに乗らないようにしている。随分前だが、かなり溶けたと思いバイクを出して走っていた時に、カーブの影に雪が少し残っていて、前輪が雪を噛んでしまったのだ。前輪が雪に乗ったと思った瞬間、コケて道路に投げされてしまった。幸い体は何とも無く、バイクのエンジンも直ぐに掛かったので大事にはならなかったのだが、それ以来雪の時は乗らないようにしている。

 二月十一日は朝から雪だった。鉛色の空からは細かいサラサラとした雪が降り続いていた。わたしは家の窓から空を見上げてため息をついていた。テレビからは交通網の情報が流されていた。わたしの街を通っている私鉄は未だ通常運転しているが、高速道路などは速度制限が掛かっているらしい。そう言えば顕さんとツーリングに行く約束をしていたが、今度の会があるので先延ばしになっていた。まあ、今は温泉よりこの「若手特選会」で、生き残ってレギュラーメンバーになって欲しいという想いの方が強い。

 会は昼の二時からだ。時間を考えると午前中にはこちらを出ていたい。顕さんは向島の家に泊まっている。数日前から、今日雪が降る予報が出ていたから、安全策を取って向島に泊まることにしたのだ。もし東武鉄道が止まっても、次の駅の曳舟か押上まで行けば地下鉄に乗れる。そうすれば虎ノ門まではワケはない。

 そんなことを考えていたら顕さんから電話が来た

「おはよう。そっちも雪でしょう」

「おはよう。都内は大分影響が出始めているよ。表通りの水戸街道は雪が無いけど、裏通りは少し積もり初めているからね」

「早めに行った方が良いかもね」

「ああ、そのつもりだけど、里菜はどう。来られる?」

「行く! 何があっても行きます! 出来れば明日講義があるから、今夜はそっちに泊まらせれ貰えれば嬉しいな」

「判った。おばあちゃんに言っておくよ。里菜が来ると喜ぶからな」

「じゃぁ、後でね」

「うん。じゃぁ」

 そう言って通話を切った。わたしは、とりあえず今夜は顕さんと一緒に過ごせると想うと、鼻歌が出るのだった。

 テレビで交通網の確認をして早めに家を出る。普段は駅までは普通はバイクで行くのだが、今日はそうは行かない。バス停に行くとかなり遅れてはいたが未だ走っていた。

 遅れてやって来たバスは満員で膨れ上がっていた。何とかそれに乗り込む。この路線のバスが、これほど混んでいるのは初めてだった。バスの揺れに身を任せているとスマホが震えた。コートのポケットからスマホを出して確認すると翠からのLINEだった。

『もう家を出た? 東京はかなり交通が乱れているから早めに出た方がいいよ』

 翠も心配してくれているみたいだった。

『もう駅に行くバスに乗っている。めちゃ混んでる』

『山手線に乗らないで地下鉄直通のに乗って、乗り換えた方が良いよ』

『判った! ありがとう!』

 多分地上を走ってる電車は乱れているのだろうと想像する。

 駅に着いてホームに出ると電車が遅れ始めていた。やはり早めに出て正解だったと思う。

 地下鉄直通の行き先の電車に乗ろうとしたら、乗り入れが中止になっていた。仕方ないので地下鉄の乗り換え駅まで行って乗り換えることにした。でも本当に東京は、雪に弱いと感じる。満員の電車の窓から外を見ると、雪は益々酷くなって来ていた。これは遅かれ早かれ止まると思った。

 乗り換え駅では、乗り換える人が多いので、改札制限をしていると車内放送があった。それを聴いてわたしは、翠には申し訳ないが終点の山手線のターミナル駅まで行こうと思った。ターミナルにも地下鉄は通っているし、虎ノ門は通っていなくても、近い駅があったと思った。スマホで地図を出して、ホールからどれぐらい離れているのか確認をすると、わたしが降りようと思っていた駅よりむしろ近い場所に駅があった。駅名こそ虎ノ門とは全く関係の無い駅名なので判らなかったのだ。

 ターミナルでは、山の手線に乗り換える人がやはり改札制限を受けていた。山手線は間引き運転をしていてホームには人が溢れていると放送されていた。わたしの乗る地下鉄も、人が大勢向かうので混んでいたが、何時もより倍近くの時間で何とか乗り換えることが出来た。

 結局会場のホールには一時半ごろに着いた。予定よりかなり遅れてしまった。席は決まっているので、まず楽屋を訪れた。顕さんこと小鮒さんは、もう着物に着替えていて椅子に座りながら目をつぶって噺をさらっていた。いつもの小鮒さんのルーティンだと感じた。 

 わたしの姿を見つけると同じ協会の小艶さんと一緒にわたしの所まで来てくれて

「雪で大変だったろう。ありがとうな」

 そう言ってにこやかな笑顔を見せてくれた。それを見た小艶さんが

「顕はこんな綺麗な彼女が居ていいなぁ」

 そう言って本当に羨ましそうに言うと小鮒さんが

「兄さん、賢治の奴なんかグラビアアイドルですよ」

 そう言って翠のことを言うと

「そうなんだよな。アイツは来年には一緒になるんだって?」

「そうらしいですよ」

「顕はどうなの?」

 小艶さんが鋭く突っ込むと

「それは考えていますよ。でも彼女は未だ大学生ですから」

 小鮒さんがそう紹介してくれたので、わたしは

「涌井里菜です。東都大学の二年です」

 そう言って自己紹介した。すると小艶さんは

「萩家小艶です。知ってると思うけどね。今度友紹介して欲しいなぁ」

 そんな冗談を言って笑わせてくれた。わたしの記憶が正しければ小艶さんは小鮒さんより一年先輩のはずだった。だから前座としても一緒に働いた期間がかなりあり、そんな関係で一門は違うが仲が良かった。

「じゃあ今度好みのタイプを伺いますね」

「ホント! 感謝、感謝!」

 あまり長居しても悪いので、奥に居た笑艶亭福太郎さん、桂文吾さん、そして立山流の談々さんに会釈をして自分の席に戻った。パンフレットを見ると、一番が文吾さんで二番目が段々さん。そして中入りが小艶さん。小鮒さんは中入り後の食いつきだった。

 食いつきというのは寄席で中入り後最初に出る場面のことを言う。何故、そう呼ぶのかと言うと仲入り後は、休憩中に弁当を食べた人が未だ食べていたり、トイレや買い物に行き未だ戻って来なかったりして、会場がざわついている時が多く、そんな雰囲気の中に出て行くのは難しいとされている。つまり小鮒さんは難しいポジションを与えられたという事なのだ。

 そしてトリが福太郎だった。今日のメンバーで福太郎さんが、一番芸歴が長いのでトリになったのだろう。仲入りの小艶さんは二番目に芸歴が長い。

 やがて時間となり前座さんが高座に登場した。この会は若手を育てる目的もあるので前座さんに経験を積ませる目的で、彼らにも噺を演じる機会を与えるのだそうだ。

 拍手に送られて前座さんが高座返しを行い、めくりをめくると「桂文吾」と寄席文字が現れた。出囃子が鳴り出して文吾さんが登場した。いよいよ「若手特選会」が始まったのだ。

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