第20話
コンテストの結果が発表された。それは、わたしと顕さんこと古琴亭小鮒さんにとって、残念な結果となった。
「次点だってさ」
大学の傍の喫茶店で二人は逢っていた。
「そうかぁ。仕方ないね。また来年だね」
「それはそうなんだけど、馬富が本選に出ることになったんだ」
顕さんはそう言って複雑な顔をした。
本選に出られるのは東西合わせて五人。東からは宝家馬富、三圓亭遊五楼、立山談々の三名。東京の落語の団体は全部で四つあり、小鮒さんや馬富さんが所属してるのが噺家協会という一番大きな団体。次が噺家芸術協会といって、これも古くからある団体。この二つが寄席を十日間交代で出演している。その他には噺家協会から分裂した、落語立山流と圓洛一門会とがある。この二つは寄席には出られないが数多くの人気者が居る。テレビ等でも顔見知りの噺家さんも多い。三圓亭遊五楼という人は噺家芸術協会の所属だ。
「西はどれぐらい集まったの?」
「俺が聞いた限りでは四十五人ほどだったそうだよ」
「そうか全部で百十五人かぁ狭き門だね」
「そうさ、その内栄冠に輝くのは一人だけさ」
顕さんはそう言ってテーブルの上のコーヒーに口を付けた。
「コーヒー苦いでしょ」
「この苦いのが良いのさ」
「西は誰と誰が出るの?」
「確か、桂文杏と笑艶亭笠松だったと思う」
このコンテストは東京と大阪で交互に開催されている。今年は東京での開催となっている。これはあくまでも噂だが、東京で行われる時は東の方から、大阪で行われる時は西の方から優勝者が出るのが恒例となってるそうだ。調べて見ると唯一の例外を除いて、そうなっていた。
馬富さんの本選出場が決まった時の翠の喜び様は激しかった。わたしに電話を掛けて来て嬉し泣きしたのだ。それも二時間もだ。わたしは本当に複雑だった。顕さんが落ちてるので、心はわたしも泣きたかったからだ。
「馬富は『大工調べ』の啖呵の部分にも手を入れてね。判りやすくしたのが評価されたそうだよ」
古典落語を演じる場合に、昔ながらのやり方で殆ど変えずに演じるやり方と、今の人に判りやすく直して演じるやり方があり、顕さんの師匠は前者で馬富さんの師匠は後者だと言う。顕さんが次点になってしまったのはその辺りなんだろうか?
「でも次点だって考えれば凄いことなんだよ」
顕さんはそう言ってにこやかな顔をしている。悔しいはずなのに……。
「来年は関西だから優勝は向こうだよね。するとチャンスは再来年か」
何気なく言ったわたしの言葉に顕さんが
「それは判らないよ。今年だって上方から優勝者が出るかも知れないしね。特に桂文杏という人は凄かったらしいからね」
「凄かったって?」
「聞いた話だけど、真打顔負けの出来だったそうだよ。尤も上方に真打制度は無いけどね」
そうなのだ。見習い、前座、二つ目、真打、というのは東京だけの制度なのだ。その昔は上方にもあったそうだが、戦後に上方落語が全滅しそうになった時に無くなってしまったという。それ以来、大きな名前の襲名がそれに代わって行われている。名前が変わったら出世したことなのだそうだ。
「ま、俺が来年の優勝を目指すことに変わりはないけどね」
そんなことがあった数日後のことだった。夜も遅くなって翠から電話が掛かって来た。
「もしもし、どうしたの?」
日付が変わろうかという時刻に電話をして来るなんて珍しかったからだ。
「うん、健ちゃんがピリピリしていてね」
「コンテストが近いから?」
「そうなの。どうもね、これはわたしが感じただけなんだけど、多分賢ちゃんは今回、本選に出られるとは思って無かったみたいなの」
「どういうこと? だって出たいから予選に出たんでしょ」
「そうなんだけど、まさか今年出られるとは思っても見なかったと思うの」
「だから悩んでるの?」
「うん。悩んでるというか、のめり込み過ぎちゃって、他の仕事にも影響が出てるんだ」
「他の仕事ってテレビなんかの?」
「うん。レポーターの仕事とかね」
わたしから言わせれば、贅沢な悩みだと思った。
わたしは小鮒さんの師匠の栄楽師匠が、小鮒さんと親子会をした時に打ち上げで語ってくれた言葉を思い出した。
『稽古というものは直ぐに身につくものもあるが、大事なものは後からついて来るものなんだ。だから今の稽古は将来の自分の為にやるものなんだ。若い時の稽古が歳を取ってから生きて来るんだ。だから稽古惜しみをしてはならないよ』
若い噺家さん達を前にして、そう言っていた。わたしは、その言葉を翠に伝える
「そうか、栄楽師匠いいこと言うわねぇ。賢ちゃんにそのまま言うわ。ありがとう」
翠はそう言って電話を切った。実は翠も必死なのだと感じた。振り返ってわたしは顕さんに何かしてあげられているだろうか? 返ってわたしという存在が重荷になっているのでは無いだろうか?
わたしは翠から掛かって来た電話で色々考えて眠れなくなってしまった。そっと寝床を抜け出し、着替えてバイクを出す。家から離れるまで押して行き、表通りに出たところでヘルメットを被りエンジンを掛ける。実は新しいバイクが欲しくてバイトを始めたのだ。今度は顕さんと同じ二百五十が欲しいと思ってる。新車が無理なら程度の良い中古でも構わない。
深夜の国道は殆ど走ってる車も無く、まるでわたし専用のコースみたいだ。すぐに実咲公園に着いてしまう。駐輪場にバイクを置いて公園に入って行く。すると公園のあずま屋にあるベンチに誰かが座っているのが判った。男の人だ。わたしは、少し後悔した。こんな深夜に一人で来てはいけなかったのだと思った。
その男の人は座って首を左右に降りながら何か話してる。あれ、これって落語をやってるの? だとしたら……。
わたしは、そっとその影に近づいてみる。シーンとして虫の声に混じって言葉が耳に入って来る。
「……旦那、待っていてくださいよ」
このセリフ聞き覚えがある! そうだ、「愛宕山」の一八のセリフだと思いだした。
「金は? ああ、忘れて来た!」
やっぱり「愛宕山」だ。すると
「顕さん?」
そっと声を出して見た。
「あれ、その声は里菜かい?」
やっぱり顕さんだ。
「稽古していたんだ」
「ああ、来年の為にね」
わたしは嬉しくなって顕さんに抱きついてキスをした。安堵感と信頼感とそして希望……。その全てが混じった感情だった。
「どうしたんだこんな深夜に」
驚く顕さんに翠の電話のことを話す
「そうか、馬富のやつ必死なんだな。圓馬師匠は『好きにやれ』って言う方針だそうだからな」
そうなのか、師匠の考え方一つでも違いがあるのだと思う。
「寝られなくなったら無性に走りたくなって」
「そういう気持ち判るな」
顕さんはもう一度「愛宕山」を通しで稽古してから
「里菜の膝枕が恋しい」
そんなことを言う。わたしは仕方なく膝枕をしてあげた。
「ああ、気持ちよいなぁ」
顕さんはそう呟いて目をつぶった。と思ったらもう寝息を立てている。わたしは暫くこのままでいようと思った。
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