第10話
駅に近づくにつれ街灯の数が多くなって街が明るく感じるようになって来た。わたしは駅のロータリーに入ってタクシー以外の車が無い一角にバイクを停めた。スマホの時計を見ると十時にはまだ少し間があった。
ヘルメットを脱いでサイドミラーにかける。シートの下のメットホルダーにはヘルメットが一つ掛かっている。そう顕さんの分だ。彼を後ろに乗せて家まで送って行くつもりだからだ。あるいはわたしが後ろでもいい。
わたしの住んでる街は東京のターミナルから伸びる私鉄が走っている。数年前から急行が停まるようになった。それまでは準急しか停まらなかったので、途中で乗り換えたりして不便だったのだ。でも急行なら乗って一時間ほどで東京に到着する。だから顕さんも噺家古琴亭小鮒として実家から通えるのだ。でも翠の彼氏である馬富さんはこの街の出身で顕さんの同級生だと言うことだけど、実家はこの街に無いのだろうか? 駅の改札口を眺めながらそんな事を考えていた。どうやら急行が到着してようだ。大勢の人が改札を抜けて街に散って行く。その中に顕さんがいた。大きなショルダーを抱えている。それを見た時にあの中に着物や扇子が入っているのだと直感した。あれを肩に掛けてバイクに乗れるだろうか? 少し心配になって来た。
「時間通りだったね」
「うん」
顕さんの顔を見ると自然と表情が緩むのが自分でも判る。
「荷物あったのね」
「ああ、商売道具さ。これがないと困るからね。それより何処かに入ろうよ。十一時までなら開いてるでしょ」
顕さんの提案で駅前のファストフード店に入った。ここは十二時まで営業してる。お腹は空いていないので飲み物だけを取った。わたしがカフェラテで顕さんがアイスコーヒーだった。二階の禁煙席に場所を取った。
「まさか今日も逢えるとは思わなかった」
そう一昨日ツーリングしたばかりだからだ。
「今度はいつ頃行けるかな」
楽しかったので次に期待が膨らむ
「うん、暑くなるまえに行きたいね」
バイクは炎天下を走るので真夏はきつい。というのも高速道路を走る場合は風を完全に遮断する格好をしていないとドンドン体温を奪われてしまうからだ。街乗りでは半袖で良くても長距離になると完全防備でなければならない。これはバイク乗りの常識だ。でも高速走行の時は良くても、信号待ちで停まった時は暑さの影響をモロに受けるので出来たら季節の良い時期に行きたいのだ。顕さんの言葉にはそんな意味が込められていた。
「中間が終わったら行きたいな」
「そうか中間試験か、勉強しなくて良いの?」
「それはそれでやってるから大丈夫」
本当は余り大丈夫とは言えなかったが、試験まではあと十日。これから始めても充分間に合うと思っていた。
「馬富さんと会った?」
わたしは、果たして翠とのことを知ってるか顕さんに尋ねて見たかった。
「ああ、今日も会ったよ。連雀亭でね」
「馬富さんて東京に住んでいるのよね」
「ああそうだよ。実家が遠くに引っ越ししたからね。仕方なく東京で部屋を借りたんだ。東京といっても住所は都内だけど、二十三区でも外れの方でね。この沿線なんだ。終点から七つほど手前の駅だよ。だからここからなら四十分もあれば着く。神田までも同じぐらいかかるけどね」
そうなのか。わたしは東京というと都心とばかり思っていたけど外れだったのか。
「じゃあ家賃もそれほど高くないの?」
「そうだね。アパートもそれほど新しく無いから世間の相場より安いらしいよ.
どうしたの気になるの?」
そうか、顕さんも何れは一人住まいする予定だから色々と詳しいのだと理解した。
「そこに土曜日、わたし達がツーリングに行った日に翠が泊まったんだって?」
このことは言うかどうか迷ったが、探りを入れて見た。そうしたら
「ああ、それね。気になるんだね。親友だしね。仕方ないよね。でもね、どう聞いたか知らないけど、本当は結構笑える出来事だったらしいよ」
「笑える出来事?」
訳が判らないという表情をしているわたしに顕さんは
「じゃあ不肖わたくし古琴亭小鮒が馬富と翠嬢の一夜の顛末をお話申し上げましょう」
顕さんは小鮒さんになってその夜のことを話してくれた
「土曜は馬富も仕事がオフだったのでデートの約束をしていたそうなんだ。それで東京に出てきた翠ちゃんと映画を見たり買い物をしたりして楽しんだらしんだ。夕食を共にして帰ろうかと駅に向かったら、あの夜は運悪く人身事故が起きて電車が停まってしまったんだ」
「あ、そういえば、そうだった」
わたしはバイクを使うことが多いから電車の事は関心がなかったのだが、電車が停まって東京から帰って来られなくなった人が大勢いたらしい。
「そこで、電車が動き出すまでということで馬富の部屋に寄ったのさ。丁度あいつの部屋のある駅の少し先まで折り返し運転していたからね」
「そこで二人だけになってムードが出ちゃったんだ」
「さにあらん」
「え」
「いくら馬富がオオカミのような男だからといって、すぐにそんな気にはならない。最初はコーヒーを飲んで会話を楽しんでいたそうだが、いつまで経っても電車が動かないので翠ちゃんが
「明日は日曜だから泊まって明日の朝帰ると言い出したそうだ」
翠ならそう言いそうだと思った。
「馬富はさすがにそれは不味いと思ったそうだが、彼女は言い出したら引き下がらないらしいね」
「うんそうなの」
「それで仕方ないと泊まって行くことを許したそうだ。そこで落語の『宮戸川』って噺にも出て来るけど、ベッドの上に線を引いて二人の領域を決めたそうだ。馬富は自分はソファーで寝ると言ったら翠ちゃんが手を繋いで寝たいと言い出して仕方なくそう決めたそうだ」
落語にそんな噺があるとは知らなかった。
「ねえ、その『宮戸川』ってどんな噺なの?」
「え、聴きたいの?」
「うん。翠と馬富さんの物語と同じなんでしょ?」
「まあちょっと似てるかな……じゃあ少しだけだよ」
そう言って小鮒さんは私服のまま落語「宮戸川」をわたしだけの為に話してくれた。
噺はお花ちゃんと半七は霊岸島にある叔父さんの家に泊めて貰うことになったのですが、あいにく布団は一組しかありません。仕方なく布団の半分に線を引いて背中合わせに寝ることになったのですが、そんな状況では寝られるものではありません。お互いにもじもじしてると夏の夜なので雷が鳴り出します。その一つが近くに落ちたと見えて、物凄い音と光がします。
「ガラガラピシャーン!」
「キャー怖い」
怖さで半七に抱きつくお花ちゃん。見ると真っ赤な緋縮緬の長襦袢から伸びるお花ちゃんの真っ白な長い脚……。
「この先は本が破れて判りませんでした」
あ、そういうオチなんだ。なんだ落語の時代の人も今の人も心の持ちようはそれほど変わらないんだと思った。
「じゃあ翠と馬富さんも同じように?」
「多分ね。馬富が言うには最高の『宮戸川』の稽古になったそうだから」
「へぇ〜」
わたしは噺を聴きながら翠だったらと妄想していた。翠は脚はそれほど長くはないが、むっちりとしていて魅力的だし、胸もあるので抱きつかれたら男の人は嬉しいだろうと思った。
「どうしたの?」
気がつくと顕さんが笑っていた。
「これは馬富が面白可笑しく脚色してると思うけどね」
まあそうなのだろうけど、結局馬富さんと顕さんは、そんな事まで言う間柄なんだと思った。じゃあ、わたしとのことも話したのかしら? そんな想いが伝わったのか
「俺は里菜ちゃんとの事は親に紹介するまで茶化しては言わないつもりだよ」
そう言った目が真剣だったので、少し安心した。それにしても顕さんはどうして、わたしの考えていることが通じるのだろう。やはり、わたしと顕さんは赤い糸で結ばれた人なのだろうか? そんなことも考えた。
十一時も過ぎたので帰ることにする
「送って行くから乗って」
「ヘルメットは?」
「用意してあるわ」
ヘルメットホルダーからヘルメットを外して顕さんに手渡す
「被ってみて、ジェットだから被れると思う」
「ああ、丁度良いよ。里菜ちゃんが前に乗るの?」
「うん。大丈夫だから安心して乗って」
わたしはバイクに跨りエンジンを掛ける。顕さんが仕方ないと言った表情で後ろに乗って来た
「しっかり掴まっていてね」
そう言ってバイクを走らせた。顕さんはわたしの胸とお腹の中間ぐらいに手を回している。後ろの手すりに掴まっても良いのだが、そうすると肩に掛けている大きなショルダーの荷物が台無しになるから前かがみの方が良いのだ。
わたしはこの時
『顕さんの手が上がって来て胸に来たらどうしよう』
とか
『まさか胸は掴まないよね』
とか変な事を考えていた。でもきっと
『お前掴まるほど胸が無いだろう』
つて言われるなぁ。とか考えていたのだ。冷静になってみればかなり変なのだが、この時にわたしは、好きな人と密着して気持ちが舞い上がっていたのだろう。
楽しいランデブーは直ぐに終わってしまった。顕さんの家の前にバイクを停める。すると家から誰かが出て来た。
「あ、おふくろだ」
「え、お母さん! どうしようこんな格好で」
「大丈夫だよ。ただいま母さん」
「顕だったのバイクの音がしたから誰かしらと思ったのよ。そちらは?」
「今度交際することになった涌井里菜さん。この前話しただろう」
「あらそう! 顕の母の和子です。可愛い娘じゃない。あなたには勿体無いわね」
「宜しくお願い致します」
そう言って思い切り頭を下げた。
「上がってお茶でもと言いたいけど、もう遅いからねぇ」
「いいえ大丈夫です」
ここは遠慮しておく。すると顕さんのお母さんは少し考えて
「じゃあこうしましょう。今度一緒に皆で食事でもしましょう。ね?」
そう言った。顕さんも乗って来て
「ああ、それはいいね。来てくれるよね」
そう言ってくれたのでまさか嫌とは言えない
「あ、はい。宜しくお願い致します」
それからは何を話したか覚えていない。
顕さんのお母さんが家の中に入ると顕さんはわたしのヘルメットの顎の紐のロックを外して脱がせると唇を重ねた。今までで一番濃厚で長い口づけだった。
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