第9話

 教室に入って自分の席にカバンを置くと翠がすぐさまやって来た。

「その顔じゃ上手く行ったのね」

 上手く行くとはどのような事なのだろうか?

「上手く行ったとは、わたしと小鮒さんが交際するってこと?」

「当たり前じゃん。どうだったの?」

 本当は大声で自慢したかったが少し意地悪をした

「馬富さんに訊いてないの?」

「だから訊いてるんじゃん」

「あのね……」

「うん」

「三回キスした」

「え、もう? わたしだってキスしたのは二回目の時だったのに」

「濡れてるわたしを抱きしめてキスしたの」

「それってファーストキス?」

「うん」

「だよね……なにか凄いね……展開が」

「結城顕って言うのが本名なんだよ。それで家まで送って来てくれた時にお母さんに紹介したんだ」

 翠は少しあっけにとられて聞いていた。

「何だか本当に手回しが良いというか、展開が早い」

「翠の方はどうしたのよ。その後」

 最初の時に一緒に東京まで行ったことは知ってるが、その後も逢ってるはずだからだ。正直わたしは自分のことに精一杯で翠の事まで余裕はなかった。

「もう三回デートしたわ。里菜がツーリングに行った土曜日に東京でデートして彼の部屋に一泊したのよ」

 恋人の部屋に泊まる。それがどのような意味を持つかは、わたしだって理解してる

「越えたんだ」

 黙って嬉しそうに頷く翠。その姿はわたしより先行してるという余裕が感じられた。正直どうでも良いとは言わないが、それは彼女の問題だからわたしには余り関係なかった。というより、わたしもいつかは顕さんと結ばれるはずだからその心構えだけはしておこうと思った。

「良かったね」

「うん」

「今は幸せ?」

 わたしの問いに笑顔で頷いた。そこまで来た時に始業のチャイムが鳴った。

「あとでね」

 軽く手をひらひらさせて翠は席に帰って行った。

 今夜、顕さんに翠と馬富さんのことを知ってるか訊いてみよう。そう思いながら教科書を出した。先生が入って来て授業が始まった。


 一時限目は英語だったのだが、今日は先生の言ってることが余り頭に入って来なかった。こんなことで己を失うなんてだらしないぞと、もう一人の自分が叱責する。判ってるって! でもこれは理屈じゃないんだよ。ちょっと連想というか妄想してしまう。あの時キスされた時に顕さんが、その気だったら、どうなっていただろうか? そのまま結ばれただろうか、それとも何も起きなかっただろうか?

 幾度も頭の中でシュミレーションしても答えが出て来ない。それはわたしにとって未知の領域だからだろうか?

「ねえ、お昼だよ」

 翠の声で我に返った。

「あ、うん」

「どうしたの今日おかしいよ」

「そうかな?」

「だってずっと何か考えているし」

 授業はちゃんと聞いていたしノートも録った。だがそれが頭に入ってるかと言うと怪しい。

 翠は自分でお弁当を作って来る。お母さんが働いているので、両親の分と三つ作るのだそうだ。弟が居るが中学生なので給食だそうだ。それだけでも母に作って貰ってる自分より偉いと思う。家の手伝いはするけど、お弁当は作って貰っているのだ。

 翠の今日のお弁当は唐揚げだった。小判型の黄色いお弁当箱の上におかず、下にご飯が入っている。サラダ菜が敷かれミニトマトが二個入っていて唐揚げが並んでいる。その奥にはチーズ竹輪が綺麗に並んでいた。彩りが綺麗だ。こんな所は翠はセンスがある。下のご飯の上には卵と鶏肉のソボロが掛かっていてこちらも綺麗だ。

「相変わらず凄いの作って来るわね」

 わたしのお弁当箱も同じように小判型だが色は青い。女子が持つ色では無いと母に言ったのだが

「じゃあこっちにする?」

 そう言って出されたのが黒い奴だった

「いいわよ青で」

 そう答えるしかなかった。母のセンスを疑った。多分、父のと一緒に買ったのだろう。

 そんなわたしのおかずはミニハンバーグだ。こちらはケチャップで炒めたスパゲッティの上に乗っている。半分がバランという良くお寿司に入ってる緑色の人工の笹みたいな奴で仕切られていてその向こうにはポテトサラダとハムが並んで入っていた。やはり二段になっていて下のご飯には真っ赤な梅干しが一つ入っていた。ありがたいのは小袋のふりかけが一緒に包まれていたことだ。ふりかけは「のりたま」だった。

「ねえ、結ばれた時ってやはり嬉しかった?」

 お昼を採りながら、およそ全く方向違いの話をしている

「それは当たり前じゃん」

「そうだよね」

「里菜だってキスされた時にどう思った?」

 そうか結局は同じことなのだと理解した。そうしたら胸にあった何かがスーツと降りて行った。


 夜になって顕さんからLINE電話が掛かって来た。

「今までお仕事だったの?」

「うん。連雀亭という神田にある二つ目専用の寄席に出ていたんだ」

 そんな寄席があるとはこの前聞いていた

「おつかれさま」

「ありがとう」

「じゃあ今は家?」

「いやこれから電車に乗って帰るところ」

「こっちから通うのじゃ大変だね」

「まあね。売れてくれば東京に部屋を借りようとは考えているんだけどね。まだ無理だから実家住まいさ当分は」

「そうか、将来引っ越す時には手伝ってあげるね」

「ありがとう。そうなるように頑張るよ」

「ねえ何時頃駅に着くの?」

「そうだね、スマホで検索すると十時頃かな」

「駅まで行ってるね」

「え?」

「顔が見たいから」

「ありがとう。実は俺も逢いたかったんだ」

 その後通話を終えてから時間を見てバイクを出して駅に向かった。夜の風は冷たかったけど、顕さんに逢えると思うと寒く感じなかった。

 街路灯に照らされた道を駅に向かって走って行く。走りながら中学の頃に翠の家で彼女のお父さんが好きだという映画の事を思い出した。確か一緒に見た「あの胸にもう一度」という映画だった。確か人妻が恋人に逢いに早朝バイクを走らせる話だった。朝と夜の違いはあるけど、似てるシュチュエーションだと思い可笑しくなった。

 やがて駅のロータリーが見えて来た。

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