Episode.22 Close to You

 あれからシンはずっとちはるの部屋に居座り、横になって寝ていたり、おやつにしたりと、なんともダラダラとした時間を過ごしていた。

 我が物顔でくつろいでいる彼は、すっかり住人のようだ。

 ちはるはそんなシンなどお構いなしに、レポートを書いたり予習をしたり、せっせと勉強に励んでいた。いちいち気にしても仕方がないと思ったのだ。


 いくらか暗くなった窓の外を見つめ、「ご飯にしようかな」と小さくこぼす。スマートフォンに視線をやっても、夕飯を作り出すには丁度良い時間でもある。

 その呟きを拾い上げたシンは、ニッと悪戯な笑みを向けた。


「俺のご飯も作ってくれんだろ」

「……どうしようかしら」


 さも当たり前だというように堂々たる態度で断言するシンに、ちはるは呆れた表情かおを向けたが、嫌な感情は無かった。

 仕方ない、なんて風を装った、どこか冷たく温かい表情は、以前よりずっと優しいかもしれない。


 そんなちはるの表情の違いに気が付いたのか、シンは一瞬隠すように下を向いて、小さく無邪気に笑った。

 その笑みは決して、いつも見せるような妖艶で何かを含んだ意地悪なものではなく。

 単純な「喜び」や「嬉しさ」を露わにした、屈託のないものだった。


 それは本当の本当に一瞬で、すぐにいつものニヤリとした笑みの下に隠れ去ってしまったけれど。


「まさか重傷のケガ人に食事も出さず追い出すなんて、そんな非情なことはしないよな。アンタがそんな奴じゃないって俺は信じてるけど」


 そう言われてしまえば、作る以外無いじゃないか。

 血でお腹は満たされたんじゃなかったの、と問いかけたかったが、自分を庇って出来た傷だ。素直に言うことを聞くしかない。


 いくぶんか良くはなっているようだが、シンがたまに痛みを堪えるような顔をすることに、まさか気付いていないわけではなかった。彼はうまく隠したつもりになっているかもしれないが、ちはるの目はごまかせなかった。

 それはベッドから起き上がる時だとか、立ち上がる時だとか、それこそ本当に些細な瞬間でのことだったが、苦い表情が何度も顔を出せば、さすがに気づかざるをえなかった。


「……作ってくるから待ってて」

「くく、さすがちはるちゃんだな。とてもお優しいことで」


 皮肉げにそう言ってくるシンを睨み、ちはるは台所へと姿を消した。

 背中に投げられる笑い声がなんとなくかんに障る――というか、すこし恥ずかしい。すべてお見通しだ、と言われている気になってしまうから。


 熱を帯びてしまった頬を恨めしく思いながら、何を作ろうかという方向に意識を強制移動させていく。

 浮かび上がったシンの顔を消し去るように、ちはるは冷蔵庫の中身を観察した。


「んー……しゃぶしゃぶでもやっちゃおうかしら。山芋に明太子とチーズで、ちょっとしたおかずにしても良いしなぁ」


 ぼそぼそと呟きながら、真剣に何を作ろうか悩む。

 まぁ、とりあえずキャベツ切って野菜作ろう。そんな考えに至ったちはるは、冷蔵庫からキャベツを取り出し、みじん切りで切り始めた。

 ざく、ざく、ざくと音を響かせながら、割と良いテンポで包丁が上下を繰り返す。


 ふと、シンの「ちはる」という呼びかけが、脳内に響いた。

 いつもは「お嬢さん」か「アンタ」、または「ちぃ」と呼ぶ彼。しかし、今日彼は「ちはる」と、その名を呼んできた。


 名前というものは強い力を持って心を揺さぶる悪魔である、なんて。そんなことを思うくらい、彼女の意識を奪っていったように思う。

 どきりと、したのだ。

 名前を呼ばれた瞬間に、自分の体内が熱をもって叫び出すような。

 自分の持つ体内の水分全てが、沸騰して暴れ出すような。

 まるでそんな感覚で、確かにあの一瞬、どきりとした。


 自分の中のすべてが騒ぎ出したのだ。

 彼を想って、嬉しそうに。


 友達や家族の呼ばれるものと、感じられる温度が違った。優しさ、そして甘さが違った。

 彼が呼んだ自身の名前が、本当に特別なものに感じられてしまったのだ。

 脳天を突き刺すような刺激的な色で。体中を持っていくような力強い甘さで。ちはるの聴覚を乗っ取っていた。

 今でも脳内を猛スピードでエンドレスエコーするその声に、ちはるは意識を持って行かれそうになる。


 ほんと、ばかみたい。

 そう感じたちはるは、落ち着けるために深呼吸を1つ。


 が、次の瞬間だった。


「っ、痛っ……!」


 ちはるは思わず、大きな声を上げた。と同時に、目の前に赤いものが映る。ぷくり、と丸いビー玉のような粒を浮かべたそれは、すこしずつゆるやかな動きで量を増した。

 重なるようにして、その部分が確かな痛みを帯びてくる――痛覚が正常に機能をし始めていく。


 包丁で指を切ってしまった。

 考え事をしていても指を切るなんてことは無かったのに――意外にも緊張していたのだろうか。

 いや、名前の持つあまりに強大な力に、自身の余裕はもぎ取られていたのかもしれない。

 指先から溢れてきた血をどこか遠い感覚で眺めながら、ちはるはガチャリと開かれたドアに視線をやった。


「、ちぃ?」


 訝しげに眉を寄せてキッチンにやってきたシンは、どこかつらそうに見えた。

 ちはるに彼のつらさが分かるはずもない。シンは至って普通に振る舞っていたし、単純に心配しているだけに見えたから。


 でも確かに今、シンは懸命に己を律していた。


 強烈なほどに香ってくる、甘い血の匂い。

 かろうじて意識を繋ぎ止めてはいるものの、少しでも気を抜けば持っていかれるくらい、シンの嗅覚と本能は「血」に反応していた。


 彼女から離れた位置にいなければ。

 そう思ったシンが、「早くバンソウコウ貼れよ」と言って去ろうとしたそれより先に――ちはるが「バンソウコウ!」と言ってシンの横を素早く通ったのだった。


「っ!」


 ――瞬間、血の匂いが風によって運ばれてくる。

 それは自身を体の奥底から刺激するもので、思わず息を呑んだ。

 同時に、ちはるのものであろうあの甘い香りが、シンの中にあった何かを一気に破壊していく。


 後ろ向きであっても匂いでわかる、ちはるとの距離──その存在。ちはるがシンを通り過ぎるその一歩を踏み出した時、シンは無意識に彼女の腕を強く掴んでいた。

 そして、常人では捉えることの叶わぬ速度で彼女を振り向き、自分の方へと引き寄せる。

 彼女の声にならなかった叫びが、息を呑む音に混じって空気に消えていった。


 シンは少し艶やかで、しかしどこか冷たい澄んだ紅を、ちはるに一直線に向ける。

 心配そうに見つめ返してくる彼女を認識はしてるものの、返ってきた目に確かな興奮を覚える。


 彼女の指をすこしだけ愛おしそうに見つめた後、彼はそれを迷わず口に持っていきそのまま舐め上げた。

 「ひゃっ、シン!」

 焦ったような困惑したような、そんな声が聞こえてきたが、それに反応は出来なかった。


 余裕が、無かったのだ。


 堪能するように少し時間をかけて舐めれば、ちはるの肩がビクリと揺れる。

 少しだけ恐怖に染まった顔。それがまた、シンの何かをそそった。

 そんな彼女の表情に目を細めて、掠れた低い声で囁く。


「たまんねぇな」


 真っ赤になったちはるの顔は、恐怖感はあるものの、どこか色を持っているような気がした。

 怖いだろう、困惑しているだろう。それでも、真っ直ぐと自分を見上げてくるちはるを見れば、シンはその瞳に隠された「色」に気が付いてしまった。


 少し潤んだ瞳、顔色を窺うような上目づかい。真っ赤に染まった表情は刺激的で、少し引け気味の腰がやけにリアルを感じさせる。

 吸った血から読み取れる彼女の心情にも、決して不快感や嫌悪感はなく。むしろ歓迎されているようなものばかりだった。


 ああ、止まらない。

 シンは理性の端っこで、そんなことを思った。


 自分に近いその色を見て、止まれるわけが無かった。

 本人に自覚は無いかもしれない。それでも確かに、自分が彼女に向ける色と同じものをその視線に含んでいる。

 元々自分は気が長い方ではない。そうとわかってしまったならば、自分を止める必要もない気さえしてしまう。


 いつものシンなら、そんな自身に苦笑の1つでも送り、皮肉なセリフで嘲笑っただろう。

 けれど、いまの彼にそのような余裕はない。

 彼の視線の先も、感情の先も、そのすべてが、ちはるに向かってしかいっていないのだから。


「もうちょっと、アンタがほしい」

「シ、ン?」

「なぁ、いいだろ」


 問いかけなんて、あって無いようなもので。拒否など許さないような、そんな力強さでちはるの頭と腰に手が添えられる。

 そして、瞬く間にシンの端正な顔が、ちはるの視界を埋め尽くした。

 ちはるの返事が発される前に、シンは自身の口でその言葉を呑みこむ。

 重ね合わさった、初めての唇。突然のことに、ちはるは目を見開いて固まってしまった。しかし、その口付けは強引で荒いのに、なんだか甘くて優しい。


 角度を変えて、何度も何度も唇を合わせる。歯列をなぞるように、シンの舌が動いていく。

 ちはるはおもわず「ん」と声を出してしまった。普通なら蹴って殴ってでも全力で拒否するはずなのに、どうしてだろう。この口付けが心地良く思えてしまう。

 そして、――シンを愛おしいと思ってしまう。


 その感情は、まるで今までフタをされていたかのように、一気に胸の底から湧きあがってきて。

 自分を喰らってしまうのではなんて、ちはるはそんな錯覚さえ覚えた。

 が、自分を喰らってしまうのは、このあふれ出るほどの「シンへの愛おしさ」ではなく、きっと――。


 歯から割り込んできた舌が、ちはるの控えめなそれと交ざり合った。

 ちはるは全てをシンに預けるように、そっと瞼を閉じる。それを確認したシンは愛おしげに目を細め、そうして自身も同じように目を閉じた。


 吐き出される二酸化炭素、それさえも呑みこんで快楽の中。交換して分け合うように、その中に沈んで堕ちていく。

 戻れないと、思った。もう、戻れないと思った。何がどうで戻れないのか、何が自分をここまでそうさせるのか。

 それはいくら考えても分かりやしない。


 ただもう。


 俺は、

 私は、


 ――戻れないと、そう思ったのだ。

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