Episode.21 Close to Me

「本当に大丈夫なの」


 そう言いながら、ちはるはシンに麦茶を出した。

 真剣な瞳でシンの様子を窺っている姿から、本気で心配していることがわかる。もちろん後ろから抱き締めたとき、いつもなら繰り出されるはずの蹴りがなかったため、確かに心配してくれているというのはわかっていたが。

 ちはるの質問に「まぁな」と軽く返す。その返答が信じられないのか、すこしムッとした顔をする彼女の様子に、自然と笑みが零れた。

 心配されるというのはこんなに心地よいものか。心のうちに芽生える温かな感情を実感し、どうしようもなく愉快な気持ちになった。


「本当の本当に? 傷、ちゃんとふさがってるの?」

「はは、心配性なお嬢さんだな。そんなに心配するほど俺が好きってんなら、回復祝いに夜のダンスパーティーなんてのはどうだ? 夜が明けるまで存分にリードしてやるよ。俺もどこまで動けるか試さなきゃならないからね」

「っシン!」


 真っ赤になってうつむいたちはるに、苦笑をもらす。その苦笑は、自分の胸の奥でくすぶる感情に戸惑いを覚えているようだった。


 シンは傷口に包帯を巻き、きちんと処置をしているようだった。一方、そうであるからこそ、傍から見ただけでは完治したかどうかは分からないため、ちはるの不安を煽っていた。

 一方、彼はここに来るまでに狩りを済ませ、血も蓄えて吸血鬼の力を元に戻している。人間より遥かに高い治癒能力を発揮できるのだから、実際に治りは早い。

 完治したわけではないため、痛むと言えば痛むが。


 真っ赤になりながらも、やはり心配らしい。困ったように眉を下げて、彼女は視線をうろつかせ始める。

 そんな彼女にニヤリと笑って、「何なら確かめてみるか」と言葉を紡いだ。そして、素直にうなずいた彼女を見留めて言う。


「じゃあ脱がせて」

「は」


 素で返してきたちはるに、おかしそうにくつくつと喉で笑う。こういう反応が返ってくると予想してのことだったが、実際にそうだと面白いものだ。細められた目が、愉快だと象徴している。

 それにムッとしたちはるは、見上げるようにしてシンを睨んだ。そんな彼女の仕草に、シンはまた笑う。


「あんま煽んなよ」


 落とされた一言に「意味がわからない」と、ちはるはさらに眉を寄せた。そのようにして睨まれると、誘われている気になるだろ。

 思ったが、言わなかった。言ってもわからないと思ったからだ。

 その代わり「あーらら」と軽い口調を投げ、すっかりシワになっている彼女の眉間にそっと指を持っていく。

 それに合わせて彼女が怖がるように片目を閉じたが、お構いなしにそこに置いた。


「な、に」

「そんな難しい顔常備してっと、どこぞのオジサンみたいに堅い人間になっちまう。元々そんなに良い顔じゃねぇんだから、アンタは笑顔忘れたら終わりだぜ」

「し、失礼よ! だいたい誰のせいよ、誰の」


 腹立たしいとでも言うように顔を歪めている彼女は、どうにも我慢がならないらしい。眉間にしわを寄せて、それこそシンの提案とは真逆の状態になっている。


「悪いって」


 そんな彼女にそう謝って、シンはちはるの頭を軽く撫でる。彼女はその子供扱いのような態度かつ触られたことにむっとしながらも、それ以上何かを言うことはなかった。

 すっかり黙り込んでしまったちはるに、再度苦笑する。そして彼はそっと視線を部屋のドアの下側へやり、1つの袋を確認した後、落ち着いた声色で話しかけた。


「ほら、この包帯をほどいて新しいやつ巻いてくれよ。アンタ、俺のために包帯買ってきてくれたんだろ」


 そう、シンが向けた視線の先には、先ほどちはるが彼のために買って来た、包帯や救急道具の入った袋が置いてあった。目ざとくも見つけたようだ。

 ハッとしたちはるが、言葉に詰まって苦い顔をした。分かりにくいが、どうやら照れているらしい。

 シンは嬉しそうに笑って、「頼むよ」とちはるを真っ直ぐ見つめた。


「べ、つに、これはシンのためじゃないわ。奥に片付けていた物を出しただけよ」

「じゃあ俺のために奥から出してくれたんだ」

「だからっ」

「あー、はいはい。分かったって。そういうことにしておいてやるから。だったら今から俺のために使ってくれよ」


 シンの柔らかい笑みに、視線をそらす。ちょっと恥ずかしく思ったからだ。

 けれどちいさな声で「うん」と一言、呟くように言うのだった。


 とはいえ、ちはるはすぐに行動を開始し、その紙袋を手に取った。包帯を取り出し、袋を外してすぐ使える状態にする。

 準備が整ったそれを手にし、ベッドに腰掛けているシンの元に向かったちはるは、一瞬だけためらうような表情を見せた。

 が、覚悟を決めたらしい。シンのお腹に巻かれた包帯を、ゆっくりと外し始めた。


 緊張したように一文字に結ばれたちはるの口元が、途端にものすごい力をもってシンの視界に入り込んだ。

 少し躊躇うように自身に触れる指先も、情事中のようで気分が上がる。俯き加減に、少し頬を赤く染めて自身に向き合う彼女の姿が、ひどく扇情的に思えてしまった。


 眼帯をしていない、シンのむき出しになったサファイアブルーが、少しだけ妖しげに光ったとき、ちょうどちはるが包帯を外し終えたところだった。

 その瞬間、ちはるが小さく息を吐きだす。斜めに入った傷もすっかり血が出ない程度には塞がっており、安堵のため息を吐いたのだ。


「本当に塞がってるのね。これなら包帯、巻く必要ないかな」


 困ったように言うちはるに、シンが薄く笑う。


「一応巻いてくれよ。アンタに巻いてもらった方が嬉しいからな」

「っ、わ、かった」


 赤い頬を少し隠してなだめるように、ちはるは手の甲を両頬にあてた。そうして熱を冷ましているらしい彼女が、なんだか本当に愛おしく思えてしまう。

 シンはそんな自分の思考に、「重症だな」とポツリと呟いたが、それを拾ったちはるが「えっ」と驚いたように声を上げたため、苦笑をもらすしかなかった。

 いったいどこに、と視線を動かし始めた彼女が本気で心配していることが見て取れた。そのことがうれしいと思う反面、やっぱり苦笑が漏れてしまう。


「あー、怪我が重傷なんじゃなくてさ。うん、ちょっとな」

「……怪我も十分、重傷だったわ」


 怪我のことじゃないと分かったちはるは、そっと息を吐いて、新しい包帯を適度に広げた。そうしてその包帯を、シンのお腹にある傷の場所に巻こうと試みる。

 より近付いてきたことにより、ふわりと彼女の持つ香りがシンの鼻を掠めた。ハッとする間もなくちはるの指が一瞬、シンの肌に直接触れる。


 その時だった。

 シンが突然、勢い良くちはるから距離を取った。

 目の前でベッドの上に膝を立てて座っていたにも関わらず、一気に離れた彼の表情は堅い。

 彼のそれはあまりにも突然のことで、ちはるは困惑したようにシンを見つめるしかなかった。


 シンを見上げながら、「ご、ごめん、そんなに痛かった?」と不安そうに尋ねる。

 自分のせいでと眉を下げた彼女は、本当に悲しそうだった。

 しかし彼は何も話さないままいつもより目を見開き、口元を手の甲で隠している。


「……本当にごめんなさい」


 ただならぬ雰囲気を──そしてなにより、いつも余裕なシンとは違う様子を感じ取って、事の重大さを実感したのだろう。申し訳なさそうに謝ってくる。

 しかし、シンはいつものように飄々ひょうひょうと流すことができなかった。


 ――喰ってやろうかと、思ってしまった。


 シンは自分の中に生まれた激しい衝動に、それこそ戸惑っていた。

 ちはるの香りがふわりと運ばれてきた瞬間、ふと、そのまま強引に引き寄せて唇を奪って、深いくらいに口付けをして抱いてやりたい、なんていう衝動に駆られてしまったのだ。抑えるには激し過ぎるほどの欲望で、そんなことを。

 さらに、彼女の躊躇ためらいがちな指先が自身の肌に触れた瞬間、見える首筋に牙を立てて「血を吸いたい」と思ってしまった。本能に任せて、湧きあがる衝動のまま、自分のものにしたいと思ったのだ。


「シ、ン?」


 不安そうに投げられた呼びかけに、シンは自身を落ち着けるようにため息を吐きだした。

 誤魔化すように、微笑んで見せる。


 落ちつけ。

 落ちつけ。

 何度も脳内で自分を制するように紡がれる言葉は、なんとかその通りにしようと作用しているらしい。


「アンタがあまりに俺のカラダを見つめるもんだからさ、俺が欲しいのかと思ったぜ」

「っな」


 ――嘘、それは自分の方だ。

 真っ赤になったちはるを見ながら、自身の冷静な部分がそんなことを突っ込んでくる。

 苦笑したくなったが、シンはなんとかいつもの調子で言葉を繋げた。


「真っ赤になっちまって可愛いな。俺が欲しいってんなら、俺が存分に鳴かせてやるから、甘い声でねだってくれよ」


 バッ、とすごい勢いでシンを見上げてきたちはる。

 そんな彼女が、真っ赤な顔のまま目に涙を浮かべたため、シンは「失敗した」とこぼし、今度こそ苦笑をもらすしかなかった。


 ――煽りを煽ってどうする。


 「何が失敗なのよ」と言うちはるの頭をなんとか軽く撫でて、シンはもう一度苦笑する。そうして息を漏らせば、少し落ちついたように思えた。

 収まりつつある自分の衝動に安心しながら、同時にシンは自分が「それ」であることを実感するほかない。

 その事実を心の奥底で恨み、そっと表情に影を落とすのだった。

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