Episode.19 Eating Rabbits

「オネエサン、美味しそうだな」


 声、1つ。甘く優しげでありながら自信を感じさせるそれは、小道にいやらしく響いた。

 オネエサンと呼ばれた女――茶色い髪の毛にウェーブを入れ、Tシャツに短いデニムのショーパンを穿いている(少し、ちはるに重なったように見えた)――は、その声に導かれるように、顔を背後へと向けた。


 右目にサファイアブルー、左目にルビー。両目に対の宝石を飾る声の主は、ぎこちなく振り向いた女に綺麗に微笑んでみせる。

 誘惑するようでありながら突き放しているとも思える笑みは、相反する魅力で女を刺激した。

 女は思わず息を呑んだが、相手が初対面であることには変わりがない。「えっと」と言葉に詰まった様子で戸惑いを露わにした。


 そして、その戸惑いを抱えたまま、声をかけてきた1人の青年を観察する。

 さらけ出した身の上から白いファーコート。ほど良く引き締まったその体躯たいくに、思わず視線がいくのも無理はない。胸元にはネックレス、耳にはピアス、黒い革のパンツがどこかクールだ。

 上げられた口角が、彼の持つ色気を最大限に引き出している。「好青年」とは程遠いが、「良い男」である、と断言するには十分だ。

 危険な雰囲気も、溢れ出す色気も、男としてとても魅力的に思えた。


 そのまま男の姿に魅入っていると、彼が突然、緩慢な動作で女の手を優しく掴む。


「きゃあっ」


 可愛い悲鳴があがった。そのことに対してだろう、くくっと喉を鳴らした男は、「良い反応」と嬉しそうにテノールを響かせた。


「俺にアンタを食べさせてくれるかい?」

「……えっ、なに、えっ!?」


 混乱を極めた女の表情かおが、せわしく変化する。


「いきなり何ですか……?」

「そのまんまの意味だが、そういうのは嫌いか?」


 ニヒルに笑んだその顔に、かすかな光が降りる。

 まだ弱々しい、。こちらの半球に顔を出し始めたばかりという様子が窺える。階段を上るように、太陽もまた、てっぺんを目指して進んでいるところだろう。

 その光が男――シンを照らすたびに、その綺麗な顔が隠すことなく露わになる。


 が、まるでシンの存在を拒絶しているとでも言うように、彼に光が注がれるたび、違和感を覚えざるをえなかった。

 光が遮断するのは眠気でも睡眠でもなく、もしかしたら彼という存在なのではないかと思うほどに。

 だからなのだろうか。女は不審さに好奇心を潜ませ、彼を見つめ続けるしかなかった。


 繋がれた手から伝わるのは、人間のものとは思えないほど冷たく寂しい体温。

 死んでしまっているのではないかと思わせる冷たさに、この人は本当に人間ヒトなのかと、バカげた疑問が浮かぶ。


「アンタ、ファンタジーは好きかい」

「へ?」


 突然こんな質問をされてしまっては、彼という存在の証明などどうでも良くなってしまう。ぽかん、とアホみたいに口を開き、しばし男を見つめる。


「吸血鬼に興味ある?」

「え、きゅ、吸血鬼?」

「そ、吸血鬼」


 目を真ん丸としてこちらを見やる女に、シンは再び愉しそうに笑いの息を吐きだす。


 彼の読み通り、この女はファンタジーの類いが大好きだった。

 吸血鬼という設定はそれこそ大好物で、作品をあちこちの本屋で漁りに行くほど。インターネットでもこまめに「吸血鬼」でキーワード検索をかけ、引っかかるものを適当に拾いながら新作や埋もれた作品をチェックしている。

 最近では吸血鬼の男の人と恋に落ちて、なんて妄想もお盛んで、女の脳内はいつも騒がしかった。

 それほどまでに吸血鬼という存在は、女の興味をそそっているのだ。この女が吸血鬼に興味が無いはずがなかった。


「なんか、初対面なのに言うのすごくあれなんですけど、でも、まぁ、そういうの大好きです」

「へぇ」


 どんな風に? そう言ったシンの言葉に、女は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。

 未だシンに掴まれたままの手が、自分だけ熱い気がした――相変わらずシンの手は冷たかったが。


「どんな風にって、……なんかでも、初対面のあなたに話すことじゃないですもん」

「いいだろ、気になったんだよ。アンタがその左手に、吸血鬼ものの本を抱えてるモンだからさ」


 確かにこの女の左手には袋があり、半透明なそれからは吸血鬼を指し示す題名と、ライトノベルらしいイラストが顔を覗かせていた。

 吸血鬼に溺れた天空の花嫁――縦につづられたタイトルの右横に、吸血鬼であろう髪の長い男と、天空の花嫁らしく背中に羽の生えた天使が抱きあっている。

 さらに、小説内のセリフから抜粋したであろう文字は「吸血鬼の俺は、ハンターの君をアイシタ」と、興味をそそるフォントとカラーで目を引いている。


 なるほどこれならどんな間違いを犯すことなく「吸血鬼」に関する小説だと分かる。

 それを見たシンが反応するのも無理はない。なぜなら彼は正真正銘の――。


「もしかして、あなたも吸血鬼に興味があるんですか!? ていうか、レイヤーさんか何かかな」

「ま、そんなとこだぜ」


 急に興奮しだした女の様子に、彼女が吸血鬼ファンであることを確信する。

 そうしてシンはもう一度、女が取り出したその本の表紙に目をやり、『第二段』と書かれた部分を確認した。

 なるほど第二段ね。誰に悟られることのない心のうちで、静かにそう呟く。

 そうときまったならばアプローチは簡単だ。彼は爽やかにもとれる笑顔で、自然なまでの動作をもってして口を開いた。


「俺もそのシリーズ持ってんだ」

「えっ、そうなの!?」


 驚いたようにシンに目を向けた女。すっかり敬語が消えているあたり、驚愕と親近感が上手く作用したようだ。

 どうやらちはると違ってずいぶん「他者」に対する警戒心が薄く、素直な人間のようだ。

 恐怖心を覚えながらも、警戒心を秘めた力強い視線を寄越してきた彼女を思い出しながら、シンはその違いに薄く笑った。


 その違いが、自分が彼女に惹かれた理由かもしれない、と。


「わーっ、うれしいなぁ。このシリーズ、今大人気ですよね! あたしは1番アークがすきです」

「……へぇ、アーク。これまたなんで」

「そりゃあ! あの物腰柔らかな雰囲気には憧れますよー。ふんわりしていて、いつも想い人であるミリアを優しく見守ってますし」

「ああー……くく、確かにそうだな」

「はい! それに、笑顔が常時装備なくせにたまに影を背負うでしょう? ミリアのことを愛しているのに、近づけないその距離を悔やんで、彼はいっつも笑顔の下に闇を隠すんですよね。その姿がすごく切なくて」


 アークなら、あたし吸血鬼とでも結婚できる! 言い切ったその女に、シンはくつくつと喉で笑った。

 笑わないで下さいよーっ、なんて少しむくれてみせる女が、なんだかおかしく思えてくる。


「でも、彼が出るたび、あたし、泣いちゃうんです」

「あー……」

「悲しくなりませんか? 自分が半吸血鬼――ダンピールであるために、純血の吸血鬼であるミリアと結ばれないことで悩んでいる彼の姿が、ほんとうに、ほんとうに、どうしようもなく切ない」

「っ!」


 一瞬、シンの表情が凍りつく。しかし、本当に一瞬のこと。

 すぐに取り払われたその表情は、いつもの余裕そうなものに変わっていた。そして、「なるほど」と取ってつけたように相槌を打つ。


「半吸血鬼であるアークは、きっとミリアと愛し合いたかったんだと思います。でも、アークは吸血鬼と一定距離近付けば、本能のままに彼女を殺してしまう」

「……」

「自分が半吸血鬼でさえ無かったら。人間のくくりにも、吸血鬼のくくりにも入れない彼の心の葛藤には、メインの主人公とヒロインの話よりも心を打たれたんです」


 そう言って、何やら感慨にふけるように目を閉じた女は、我に返ったように目を見開いた。


「ぎゃーっ、初対面の人に何言ってんだろ! でもシリーズファンに会えたのが嬉しくて、つい」


 言い訳を始めた女。

 しかし、そんな彼女を置いて、シンは少し黙り込んでしまった。

 彼女は相変わらずなにやら弁明を並べ立てているが、深く、何かを想うように目を閉じて、彼は思考の渦に入っていった。


 が、彼はふと口元に笑みを浮かべると、「じゃあさ」と言葉を紡ぐ。どうやら考えごとが終了したらしい。

 女は特に何も気にせず、先を促した。


「半吸血鬼と人間が愛し合うのって、アンタにとっては魅力的か」

「えーっ」


 いきなりの質問に、すぐには答えが見つからないらしい。そんな声をあげたあとも、「んー」と考えるような仕草をみせた。

 シンは辛抱強く女の反応を待つ。そうすれば、「まぁ」と女は口を開いた。


「その人間が仮にあたしだったとしたら、アークなら大歓迎です」


 にっこりと笑顔つきで言われたそれに、シンもふっ、と笑みを零しながら「そっか」と言う。

 実を言えばシンの期待した答えではなかったが、それでも及第点かと納得する。


「ほら、種族を越えて愛し合うのって、禁断の恋みたいで魅力的です。それに、アークもそうなんですけど、半吸血鬼って普通の吸血鬼から嫌われるみたいなんですよね。だからそんな半吸血鬼さんの心のり所になるんなら、人間もありなんじゃないかなって思うんです」

「へぇ」

「もちろん色んな問題はあるだろうし、お兄さんの言う半吸血鬼がどんな設定かってことで、またちがってくるだろうけど。でも、半吸血鬼と人間の恋っていうのもすごく良いなぁ」

「そっか」


 シンの顔に影が落ちる。そんなシンの姿をじっと眺めたその女は、ふとにっこりと笑った。


「ちはるもそう言うと思います」

「、ちはる?」


 聞きなれたその名前に、シンが強く反応する。

 そうすればその女は「あっ、ちはるはあたしの友達で!」と言って苦笑いを浮かべたのだった。やっちゃった、と顔にわかりやすく書いてあるあたり、本当に根が素直なようだ。

 そんな女に、シンは興味をそそられる。それは、決して恋愛的な意味では無く、もしかしたら、と脳内に浮かんだ1つの可能性に関するものだった。

 ちはる。その名前の表すものに、興味がある。


「その子も半吸血鬼であるアークが好きで、実は彼女に薦められてこの本を買い始めたんです」

「へぇ」

「彼女、言ってました」


 そうして紡がれた言葉に目を見開いたシンは、そっと柔らかな笑みを零し、自分の身近な「ちはる」を思い浮かべて瞼を閉じた。

 なるほど、な。そう思いながら、愉快な感情はおさまりそうにないことを悟る。


「あ、じゃあ、バイトなんで失礼します!」


 やばい、と時計を確認した女が、ぺこり、と一礼をして立ち去ろうとする。「いきなり悪かったな」と声をかければ、「いいえ!」と元気な声が聞こえた。

 そんな女の背中を見送りながら、「本当は喰う予定だったのになぁ」と一言。

 まぁ良い話も聞けたし、別の獲物を狙うかと考えたところで、シンはその長い足を踏み出した。


 さわさわと、気持ちの良い風が肌を撫でる。

 こんなにも陽の光が心地良く感じたのは、「アイツ」に会って以来かもしれない。そんなことを考えながら、靴の音を一定のテンポで鳴らす。

 そして彼は女の言葉を何度も反芻しながら、その紅い瞳で「人間」を捉えたのだった。

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