Episode.18 Like a Magic

 抱き締めたちはるごと、泉の中に倒れ込んだ二人。大きな水しぶきがあがり、ちいさな虹を描く。

 ちゅんちゅんとスズメの鳴く声を耳にしながら、シンはやっとの思いで二つの体を水から引きあげた。


 シンの並はずれた身体能力ならば、落ちる前に彼女の腕を引っ張り、回避することなど容易いはずだ。

 それができないほど、焦っていたのだろう。心臓が鷲づかみされた感覚を、彼自身忘れやしない。

 とは言え、大量出血した身であるのに、ちはるの体を抱え底から這い上がって来たのは、そうはあっても彼の身体能力の賜物たまものだろう。


 突然の出来事で気管に水が入ったらしい。彼女は水中から抜け出てきてずっと、苦しそうに咳をしている。

 眉を寄せて必死に酸素を欲している姿を、シンはじっと見つめた。

 苦しいのだろうが、歪められた表情にはそそられるものがあった。ついでに言えば、水の張り付いた身体がひどく官能的だ。


 ちはるはそんなシンの不埒な思考に反し、自身の服を不機嫌そうに見やる。

 お気に入りのワンピースだった。気分の下がりようも尋常でない。ただ、帰りをどうしようかという方が、彼女にとっては気がかりではあるのだが。

 裾をしぼって水を落とす。ぎゅ、と力を入れれば、水がぼたぼたと地面に向かっていった。滴などといったかわいらしいものではなく、地面を打ち付けるほどの量の水がしぼり出されている。


 ふと、ちはるは助けようとしてくれたらしい吸血鬼――シンを見る。

 いつもの余裕ある声色でなく、切羽詰まった勢いで自分の名を呼んでくれた。むず痒い気がしないでもないが、彼が本気で助けようとしてくれていたことはわかる。

 事実、自分が水面に打ちつけられることはなかった。


 ありがとう。そうおもって口を開こうとしたとき――ようやく彼女は、彼の異変に気が付いた。ハッとして目を見張る。

 そして、呑み込んだ息がヒュっと不自然に音を立て、喉の奥でせき止められたような感覚を覚えた。

 それと同時に。彼の異変に気が付いた彼女に、彼も気が付いたのだった。

 シンの目が途端に鋭さを帯びる。


「こっち見んな!」


 視線と同様に、鋭い声が空気を切り裂いた。その表情の険しさは、いつもの彼でないことを率直に示している。

 彼の声がちはるに届いたときにはもう遅く、彼女は確かに彼のを視覚に入れていた。


「い、や……血っ!」


 そう、シンの腹部。彼のそこは夜中の戦いにより、重傷を負っていた。

 大量の血が流れ出し、どうにもならないほど傷だらけだ。このまま血を流し続けたら目の前の人間――つまりちはるを、迷いなく食ってしまうほどに。

 シンはつらそうに膝を立てて腰をおろし、太い木の幹に体を預けた。額には汗が浮かび、いつもの余裕な表情は消え去っている。


「あっ、……うっ」


 真っ青になっていくちはるの顔に、シンが眉を寄せる。もう少し早くに忠告していればと、シンは後悔に襲われた。

 吸血鬼である自分のように血を欲する存在でも、ましてや戦い慣れているわけでもない彼女に、こんなグロテスクな姿を見せるべきではない。


 困ったな。苦笑を浮かべたい気持ちを、なんとかして抑え込む。

 チッと舌打ちをして、シンはクラリと揺れた視界に、眉を寄せて顔をうつむかせた。


 彼女の視線が自分に向かってからずっと、腹部の痛みなどどうでも良かった。

 彼女を前にして沸き起こるのは、「血がほしい」ただ一つ。このまま本能を野放しにしてしまえば、取り返しのつかないことになってしまう。

 それは、自分の希望ではない。


「、今すぐ走って家に帰りな、お嬢さん」

「っ」


 シンの冷静に思わせる声が、ちはるの聴覚に届いた。

 けれども、彼女はどうしたら良いかわからない様子で、シンを見つめ続けるのみ。シンは歯軋りしたい感情に襲われる。

 自分がもっと早くに彼女の視界からこの血を隠していれば、早くに幻覚でもみせて上手く立ち回っていれば――そんなことばかりが脳内を占めていく。

 苛立ちは募るばかりだった。


 けれど、後悔している場合ではない。

 すっかり地面に足が縫い付けられてしまっているらしい彼女を奮い立たせるには、理性をもって彼女に働きかけるほかない。


「ちぃ、頼むから」


 頼むから――ちはるの瞳が一瞬、反応するように戸惑いを浮かべる。いつもは見られないシンの姿に、混乱しているようだった。

 余裕綽々でからかうことが得意な彼の、焦燥感を浮かべた表情。戸惑うには十分な理由になる。


 けれど、その言葉どおり必死だった。

 血が不足しすぎて、吸血鬼的思考がおさまらないのだ。


 今はなんとか自身の獣を食い止めているものの、いつまで保つか分からない。いくら自分が理性ある吸血鬼と言っても、結局は「吸血鬼」。襲いかかる可能性は十分に在った。

 それに。興味以上の感情をちはるに抱き始めているらしい自分が、まさかその血を欲しがらないはずがない。断言できるほど、強い感情だった。


 吸血鬼にとって最大の愛情表現は「血の交わり」。人間がする性行為より、確かなものが互いの血を飲みあうことなのだ。

 つまりそう、彼女の血をこれでもかというほど欲している自分こそが、第一の問題点となっていた。


 困ったな。シンは再度、そう思う。

 一瞬でも気を抜けば、完全に本能に自分を持って行かれそうだ。彼女を前にすると暴走しそうになってしまう。

 ああ、けれど。ちはるを壊したくない。ちはるを傷つけたくない。

 その心が、シンの理性を働かせる。本能のままに行動できたらどれほど幸せで、どれほど楽か。


「なぁ、ちぃ」

「っ、わた、し」

「優しいアンタは俺を置いて行くなんざできねぇことは分かるがな。俺のことは気にしなくていい。アンタは早く帰んな」


 途切れてしまいそうな声をなるべく長引かせ、変な個所で言葉が切れることのないよう、シンは全力をそそいだ。元気な様を装おうとしているのだ。

 この誤魔化しもいつまでできるか。完全に時間との勝負だった。

 「ちぃ」再度促すように名前を呼ぶ。優しく見えるだろう笑みを浮かべ、視線はきっちり彼女に固定し、いつものように挑発的な様子でしっかりと。

 出された声は、確かにいつもどおりだった。


 そろそろ危ないなぁ。シンは少し表情を歪める。

 早くほしい、早く食えと、自分の中の獣がしきりに叫んでいる。だからこそ、ここで帰ってくれなければ本気で困るのだ。

 けれど、どうだ。カミサマというのはどうにも意地悪らしい。意地悪すぎて喧嘩を売りに行きたくなるほどには。


 次に聞こえた声は、彼の努力を無情にもかき消すものでしかなかった。


「いや!」

「は」


 否定の言葉。つまり帰らない、ここから離れないという明確な意志を表れだった。


「っやだ、よ! そ、んな、そんな状態の、ひと、放ってお、けな……っ」


 泣きだしてしまったちはるに、シンは目を見開いたままちょっとだけキョトンとしてしまう。

 そしてすぐに、珍しく困ったような表情を浮かべた。笑みはそのままに、眉を下げて。


 ――俺、「ひと」じゃなくて「吸血鬼」だけどね。

 かすれた声で小さくこぼせば、彼女はもう言葉が出ないのか、うろたえるばかり。放っておけないとは言ったものの、どうしたら良いのか分からないようだった。

 ぽろぽろと涙を零す。自分でも何がなんだかわかっていないのだろう。必死に手で涙を拭いながら、それでも何を言うでもなくシンにずっと視線をあわせている。


 そんな彼女が急に愛おしくなって、シンは小さな笑みを口元に置く。

 ──かわいいなぁ。そんな感想が、思わず体内を駆け巡ってしまう。

 こうして自分のために泣かれるなど初めての経験で、くすぐったいような気さえした。


 けれど、こんな可愛いことをされてしまっては、ますます帰ってもらう必要がある。視線をさ迷わせて何かを思案し始めたちはるを見やり、「ほら、早く」と紡いだ。

 が、優しくて甘いその声色に、ちはるはまた表情を歪めてしまう。そして、相変わらず涙を野放しにしたまま、彼女は震える唇を動かした。


「え、と、……し、出血、しなきゃ、」


 出血してどうする。

 混乱して真逆の処置を口にしたちはるに、反射的にツッコミを入れる。

 けれど彼女はそんなものに耳は貸さない。カバンからタオルハンカチとティッシュを取り出した。そして涙をぼろぼろ流しながら、シンの元まで走ってくる。


「ちょ、ほんとアンタ、帰った方が良い」

「だってっ」

「血、見んの嫌だろ」

「ヤだけど!」


 ちはるのことを襲う可能性が否めないから帰ってほしい気持ちが半分。そして彼女の記憶に恐怖として、このグロテスクなシーンがこびりつくのを恐れたことが半分。

 シンの「帰ってほしい」という願いは、様々な想いの下に成り立っていた──素直には言えないが。


「こんな姿、気持ちいいモンじゃないだろ。血を見慣れていないアンタにはきつい」

「でも、でもっ!」

「気にすんなって。本当にアンタ、良い子ってやつだな。俺を置いていったからって、誰もお嬢さんを責めたりしねぇよ。むしろ早く俺から離れた方が――」


 そこまで言って、シンのセリフは止まった。いや、止まらざるをえなかったのだ。


「うるっさい!」

「え」

「良いから黙ってて!」


 叫ぶようにして言ったちはるに、シンはキョトンとする。そして、おとなしく黙るしかなかった。

 気迫負けしたのだ。


 彼女は素早く立ち上がり、騒がしい柄のハンカチを泉の水に濡らしに行った。それを絞って水を落とし、湿った部分を傷周りの腹部にあてて綺麗に拭く。もう1度それを繰り返してハンカチを洗い、最後に傷口にあてた。

 さらに、着ていたカーディガンを脱いでいく。背中部分を、湿ったハンカチの上からかぶせるように押し付ける。袖をシンの背中に回し、ぎゅっと結んだ。


 ちはるは一連の流れを終えて、ほっとしたように息を吐きだした。そして、シンに真剣な目をみせる。


「さ、病院行こう!」

「は」

「だって怪我がひどいじゃない」


 至って真剣らしい。けれども、彼女は大切なことを見落としているようだ。

 それがちょっとだけおかしくて、ちょっとだけくすぐったい。


「アホ。保険証の無い俺を、どこの病院が診てくれるってんだ」

「……あ」


 しまった。そんな表情を露わにして、ちはるが顔を青ざめさせた。

 血はもう大丈夫なのか、順応性が高いのは彼女の性格ゆえだろう。少し安心しながら、このやり取りを楽しむ。

 そして、自分の身体を包みこんでいる彼女のカーディガンに目を向けた。お気に入りだっただろうことは容易に推測できる。

 なんとも言えない感情を抱きながら、シンは「これ、ごめんな」とカーディガンを指さした。


「そんなことはどうでもいいの!」


 一蹴されて、反応に困る。シンは苦笑いを浮かべて、口を開いた。


「ちぃ、これだけしてくれれば十分だ」

「十分なわけないじゃない! これだけであの傷の処置が十分なら、医者なんてどこも廃業よ!」


 言い過ぎである。


「いや、確かに完全な止血はされてねぇけど、そのままにしておくよりか遥かに良い。安心してくれ。十分だ」


 が、彼女は納得いかないらしい。その感情を隠すことなく表情にしっかり出すあたり、彼女らしいと言える。

 それでも、シンも譲る気はない。


「アンタは家に帰るんだ」

「シン!」

「大丈夫、俺を信じて」


 シンのサファイアブルーが、少し煌めいた。


「っ、え、血が、止まりかけて……!」


 瞬間――カーディガンが血を吸い取るのをやめた。驚いたちはるが、シンに駆け寄る。


「見てもいい?」

 聞けば、彼の余裕気な「どうぞ」が返ってくる。その姿がどこか胡散臭いように思えるが、傷口を確かめる方が先だ。


 彼女は素早く、しかし丁寧な動きでカーディガンをゆるめた。

 すると、ものすごい勢いで傷が塞がっていく様子が目に映った。

 目を見開いて固まり、「どういうこと」と不審げにシンの瞳をみつめる。

 そんな彼女に、笑った。


「アンタが止血してくれたおかげで、血がようやく吸血鬼の持つ高い治癒能力を刺激したらしい。驚くことはないぜ。吸血鬼は化け物の一種だからな」

「う、そ」

「はは、でも驚くのも無理はねぇか」


 そう言ったシンに、ちはるは途端に瞳を潤わせる。

 そして蚊が鳴くような細い声で――しかしシンにははっきりと聞こえた――安心したように呟いた。


「良かった……っ!」


 泣きながら笑っている彼女を、彼は複雑な気持ちで眺めた。

 なんとも言えない感情は、後ろめたいことがあるからだろう。わかってはいるが、ここでほころびをみせるわけにもいかない。


「じゃあまた後でアンタの家に行く。良い子で待ってろよ」


 戸惑いの色を浮かべて見つめてきたが、彼女の中でもなにか納得できる部分があったらしい。

 「絶対よ」と念を押すだけで、今度こそ素直に家の方向に去って行った。


 ぼーっと、彼女の去り行く姿を見つめる。

 かさかさと草木の揺れる音が消え、一気に森の中は静けさを取りもどす。

 物悲しい雰囲気さえ感じさせる様には、どうしようもなく憂鬱な気分にさせられた。


「……くそ」


 吐き出した言葉、そこには苛立ちがはっきりと含まれていた。

 どうしようもならない感情が、どうしようもならない状況に呑み込まれていく。途端にまた、ふさがっていたはずの傷口から血が流れ始めた。


 さっきのはただの幻術。血が止まり、傷がふさがっているように「見せた」だけにすぎない。

 シンは自分の力を振り絞り、再度自身に幻覚をかける――痛みを感じさせないように、そしてきちんと動けるように。


 やるべきことは決まっている。早く彼女を安心させてやらなければ。

 妖しく左の赤が揺らめいたと同時。彼の姿は素早く、その場から消えて行った。


 血があれば回復は早くなる――だから。

 風が舞った。

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